<< April 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>

沈黙の神

 昨日は初夏を思わせるような日和でした。この時期になると同門下の生け花を習っている方が蕨採りに訪ねて来てくれます。もう10年ほどの年中行事のひとつになっています。

この方とのお付き合いは、僕が名古屋で生け花を習い始めたことからのことでかれこれ30年ほどになります。おおよそ僕の母親ほどのお年ですが、同じ趣味を通しての交わりは心の内に穏やかな気分を醸し出します。

 僕が幼いころは、蕨は我が家の現金収入のひとつでした。5月の連休になると母は、朝早くから僕を連れて、蕨採りに出かけました。当時、蕨一束で20円から30円で売ることが出来たと思います。

 

 気象の変異のせいか蕨の出る時期が早くなり、芽を出すとすぐに葉を広げてしまってきているのを身を以って感じている僕です。自然は僕たちに様々なことを教えてくれます。今年はいつもの年と違うと思うことが数多くあるのです。それをないがしろにしていると自然は人に対して牙をむくことになる事だと思うのです。神が定められた地の法則が人によって歪められていると言う事です。先日には、クビアカカミキリムシが桜の木を食害し枯死させてしまう現実があることをTVで知りました。クビアカカミキリムシは中国に生息する昆虫で、中国からの輸入品に付着して国内に侵入したようです。これは日本だけの問題ではないそうです。また園芸種が野生化し、在来の植物を侵してしまっていることをも知りました。

 

 

 僕の住んでいる地域を見ても、昔いくらもあった植物が無くなったものも少なくはありません。昆虫にしてもそうです。今からでも決して遅くはありません。かつての状態に少しでも復古させることは出来るはずです。神から地を委ねられた人間は、その責任を負うべきだと思います。人がどうあるべきか、今も活きて働かれる神は、昼は物言わず夜は語らず人が何をなすかを沈黙のうちに見ておられるのです。

 

 人に害が及んでから対策を取るのでは遅すぎるのです。かつて3大公害と言われた公害は、その象徴です。神がご自身の像に似せて造られた人は、神の教えに立ち返らなければなりません。そこには、僕たちのとって忍耐のいることも数多くあると思います。その忍耐も次の世代に、この地を本来あるべき形に引き継ぐ責任なのです。

 

聖書の言葉

 動いている命のあるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。私はこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。<創世記93

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
貧乏くじ

 一週間前の日、僕が学ぶ生け花教室の“師匠を囲む会”が名古屋で行われました。生け花を始めて35年余り。今でも稽古のために用意された花材との出会いは、いつも新鮮な気分を醸し出してくれます。会には30名余りが集まりました。同じ門下で生け花を学ぶ仲間たちです。思いを一つにすると言う事を改めて思い知らされ、懐かしい方々との出会いもあり、幸福な一日でした。この日のために、テーブル花がそれぞれのテーブルに用意され、閉会の時にくじ引きで当たった人が持ち帰ることになりました。貧乏くじは数多く引いてきた今までの僕の人生ですが、この日は特別でした。テーブル花が当たったのです。他に当たったものと言えば、郵便局のくじで一等賞が当たったくらいです。景品は扇風機でした。

 

 

 

 僕が引いてきた貧乏くじは、僕に定められたものだと思います。それは、僕の性分を知る神が定められたものです。思いあがることがない様にと。幸運が続くと人は思いあがる傾向にあります。それを羨んでみるのが人の心ではないでしょうか。どうして自分はこんなに惨めなのだろうかと、人との比較の中で生きるのが人の心理です。

 しかし、いつまでも惨めなわけではありません。この世で惨めな思いをしただけ、やがて訪れる新しい天と地で受けるものは、栄光に輝くものが備えられているのです。悲しみの裏には、喜びがあるのです。苦悩の裏には、希望があるのです。決して神は僕たちを見捨てはしません。栄光に輝く御国へと凱旋する日を待ち望みたいと思います。

 

 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、艱難さえも喜んでいます。それは、艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちによって与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。<ローマの信徒への手紙525

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
喜びの復活祭

 明日は僕が待ちに待った復活祭です。イースターとも言います。復活祭とは、キリストが十字架に掛けられて死んだ後、3日目に甦られたことを記念するキリスト教の祝日です。

人は死んだらお終いではなく、その後にも神の救いがあり復活と永遠の命の約束があるのです。ですから人の死は悲しいものではありますが、忌むべきものではありません。愛する人との死別は、今までの人生を無にしてしまうようなものです。聖書には教えられていませんが、亡き人と再び会うことが出来ると言う可能性があるのです。それは神のみが知っておられることです。

 

 

 キリストは、人類最後の仇である死をも足の下に置かれました。死に勝利されたのです。ですから僕たちは死を恐れることはありません。今この瞬間に生きている僕たちの生きる目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。そして、キリストが教えられた、二つの戒めと神を愛し、自分を愛し、隣人をあいする三つの愛に生きることです。

 人は神が天地創造の時に、神のかたちに似せて創造されました。ですから創造主である神を慕う心が誰にもあるなずです。人はサルから進化したとか、輪廻転生と言う話を耳にします。いわゆる進化論や仏教の思想です。しかし、聖書が教える創造論こそが人生の意味を知りたいと言う心の渇きに応える唯一の道であると思います。

 

 生き物が眠りから目覚め息を吹き返し、神の定められた法則に従って神の栄光をあらわすこの時期、共にキリストの復活の喜びを分かち合いたいと思います。

 

 この朽ちる者が朽ちない者を着、死ぬべきものが死なないものを着る時、次のような言葉が実現するのです。「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」<コリントの信徒への手紙第一155455

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
尊い命

 暖かな日が続くようになって加速度的に春めいてきたのを身を以って感じる僕です。桜の花が満開になった地域が19地点あるとのこと。殊に桜の花に日本人の心はひきつけられるようです。僕も26年前に家の片隅に、ソメイヨシノを植えました。昨年は八重桜を植えました。そして今年は河津桜を植えたのです。成長を楽しみにしています。僕は、これらの桜の木と共に年を重ねてゆくのです。

 

 このような長閑な中にあって、世界を見渡せばパレスチナ問題、シリアへのアメリカの攻撃、北朝鮮のミサイル発射など恐ろしい話題が絶えません。決して対岸の火事と言う風に安穏としていられないとおもうのです。アメリカの出方によっては、日本の米軍基地も攻撃の標的になり得る可能性があるのです。

 

 

 人が同じ人を殺すなどと言うことはあってはなりません。同じ神に造られた者なのです。神が造られたものの中で、同じ種同志が殺しあうのは、人だけではないでしょうか。国内においても、殺人事件がマスコミの話題にならない日がないと言っても過言ではありません。命の尊さを自らが知れば、人の命の尊さも理解できるはずです。この世は病んでいます。これは今に始まったことではありません。人類の歴史そのものです。

 

 一昨日は、官房長官が教育勅語を憲法に触れない限りにおいて、教育に取り入れてもよいのではないかとの発言がありました。わが国の将来を憂い得る発言と思いました。世界人類が平和でありますようにとの立札を街頭で見かけることがありますが、その根拠は別として、まさにその祈りに同感です。

 

 わたしの民よ、心してわたしに聞け。

 私の国よ、わたしに耳を向けよ。

 教えはわたしのもとから出る。

 わたしは瞬く間に

 わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。<旧約聖書:詩篇514

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
四月馬鹿

 今日は新年度の始まり、祝福の日でもあり、新しい人生の門出となる方々も多いことと思います。そして今日はエープリルフールの日です。ウィキペディアによると、エイプリルフールとは、毎年4月1日には嘘をついても良いという風習のことであり、4月1日の正午までに限るとも言い伝えられているそうです。英語の "April fool" は、4月1日に騙された人を指し、エイプリルフールは、日本語では直訳で「四月馬鹿」、中国語では「愚人節」、フランス語では「プワソン・ダヴリル」と呼ばれているとのこと。エープリルフールは、世界的なものなのかと思ったのです。しかし、僕は久しくエープリルフールと言うことを忘れていました。

 

 

 何が本当なのかわからない今のこの時代、虚偽、偽証が蔓延しているこの時代です。特別に嘘をついても良い日と言うのは必要がないのかもしれません。韓国では、元大統領が拘置されました。証拠隠滅の恐れがあるからとの裁判所の判断です。また本国でも、大阪の私立小学校設立にあたり、問題が浮上し国会でも相当の時間を要しています。証人喚問も行われましたが、当事者同士の間では話に食い違いがあります。洋の古今東西を問わず真実はひとつです。嘘は自らを守るために習得した人の知恵であると聞いたことがあります。いずれの問題も真相を知りたいと思うのが国民の総意であると思います。ただ、嘘をついても良いと言うことがあるならば、人を思いやる嘘です。総じて嘘が全て悪いものではないのかもしれません。しかし、正直に生きることが出来るのであれば、それにこしたことはありません。

 

 また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。

また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。 また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。

 あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。<マタイによる福音書5章33〜37>

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
礼拝説教予告

4の礼拝は次の通りです。


どなたでもご出席ください。

日時   4月   2日()19時00分〜

     受難節第5主日  

     4月
  9日()10時30分〜   
            
                                    
     受難節第6主日

     4月 16日(19時00分〜
              
     復活祭

     4月 23
日()10時30分〜   
               

               復活後第1主日

 

              4月 30日()19時00分〜

       

     復活後第2主日

 

              

 

                     
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


<谷の百合キリスト教会>

日時     4月 30
日()19時00分
          
    
説教     「 イエスと共に 
」   

聖書   ローマの信徒への手紙6章1〜14

 

讃美歌  546、48、121、294、541

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 

 

 

 

 

 




 

| comments(0) | trackbacks(0) | 礼拝説教予告 |
命の躍動

 

 昨年秋、「べっぴんさん」の放送が始まりました。僕は、このドラマが終わるころには桜の花が咲くのだろうなと、春の来るのを待ちわびたのです。当地での桜の状況は、蕾がやや膨らんできたところです。開花は4月になってからだと思います。今、僕の部屋では、昨年花芽を付けたシンビジウムとデンドロビウムが咲き、目を楽しませてくれています。待つことは、忍耐のいることです。それにしても過行く日は、早く感じるものです。

 

今年の復活祭は、4月16日です。陽春の日差しの中で迎える復活祭になると思います。復活祭の日は、年によって異なり、春分の日の後の最初の満月の直後の日曜日と定められています。言うまでもなく復活祭は、キリストの復活を祝う教会の祝日です。聖書によると、また歴史的にも未だかつてキリスト以外に復活した人はいません。復活とは甦ることです。甦ると言う漢字は、更に生きると書きます。同じ“よみがえり”でも、蘇生の蘇の字を充てるよみがえりとは意味が違います。蘇生の蘇りは一時的なもので、また必ず死が訪れます。永遠に生きる甦りではないのです。

 


 僕は個人的にクリスマスより、復活祭の方が心に染み渡るものがあります。長く厳しい冬を乗り越えた生き物達の息吹の中で迎える復活祭は、命にあふれているのです。キリストの復活を覚える中で、ひとりひとりに与えられた尊い命を有り難く考えさせられる時であります。僕たちは礼拝の中で、信仰告白として使途信条と言うものを唱和します。その中で、「3日目に死人のうちより甦り」と、キリストの復活を告白しています。もしキリストが復活していなかったとすれば、今の教会は存在しません。キリストの復活はそのくらい重要な意味を持つのです。
 そして今、僕たちはキリストが再びこの地上に来て下さる日を待ち望んでいます。それは、キリストが「私は、再び来る」と約束さえれたことが聖書に記されているからです。聖書は物語ではなく、今も昔も活きて働かれる神の言葉なのです。

 

 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。
 更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。

 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。<コリントの信徒への手紙第一 15:12〜20

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
待つことは忍耐

 眠っていた生き物たちが、再び生を営む本格的な春の訪れの時期になりました。僕が待ちに待った春の訪れです。全地は命にあふれます。そして今年も僕の畑仕事が始まります。先日は肥料を用意し、用意は整っています。毎年、真っ先に植え付けるのがジャガイモです。父母が開墾して作った畑を、そしてその畑のお陰で命を繋いでくることが出来た土地を粗末には出来ません。

 

 待つと言うことは忍耐のいることです。しかし、必ず時は巡り訪れることは間違いありません。時が来ることを知っているから待つことが出来るのです。例えば自動車を運転していて信号が赤に変わると停車しなければなりません。停車中の時間はとても長く感じるものです。しかし、必ず青信号に変わることを知っているので待つことが出来るのです。違法に見切り発車をすれば事故の元です。古来、ユダヤの人々はキリストが世に現れることをいかなる思いを以って待ち望んだことでしょうか。旧約聖書にはキリストの誕生を予兆する記事が数多く記されています。聖書は今も昔も変わることなく、活きて働かれる神の言葉です。その言葉を信じ、キリストの誕生を待ち望んだのです。

 

 

 キリストは世に現れました。しかし、特定の人々はキリストをキリストとして認めませんでした。そして十字架に掛け、殺してしまったのです。しかし、キリストの救いは十字架の死で終わりではありません。キリストが十字架に掛けられたことは、多くの人が知るところですが、その後のことについては余り知られていないようです。

 キリストは十字架に掛けられた後、3日目に復活されたのです。死んだ後、復活するまでの3日間は、陰府に下りキリストが現れる以前に死んだ人々に、福音を述べ伝えたと言われています。今は、天の父なる神の右に座しておられるキリストは、「私は再び来る。」と言われました。それから2000年の時を経ました。未だキリストは来ておられません。しかし、キリストの言葉は、そのまま信じるに値します。キリストが再びこの世に来て下さることに希望を持ち日々祈りを捧げつつ、その日を待ち望みたいと思います。

 

エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、 その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。<旧約聖書イザヤ書1112

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
へりくだる心

 昨日、一昨日は真冬に逆戻りしたような天候でした。この時期、寒さと暖かさを繰り返しながら本格的な春へと時が流れてゆくのですね。せっかく咲き始めた梅の花も雪に覆われ寒々としていました。しかし、春は決して遠くはないと誰もが確信していると思います。早春賦の歌を思わず口ずさんでしまいます。春は名のみの風の寒さや♪〜 まさに早春賦です。

 

 学校では卒業式の時期です。春は別れの時期であり、また新しい出会いの時期でもあります。僕も何度も別れと出会いを繰り返してきました。別れてそれきりになった人もいれば、未だ付き合いのある人もいます。僕は50代半ばとなりました。人との関わりの人生に重みを感じています。人との関わりには不思議なものがあると思うのです。

 イエス・キリストは、自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。と教えられました。旧約聖書の律法を引用されたのです。4000年にも及ぶこの言葉を、身を以って心から信じ、実践した人はどれだけいることでしょうか。非常に重みのある言葉です。聖書は、未だ自分を憎んだ者はいないとも教えています。これは確かな事であると思います。人は誰も自分が可愛く、大切なものです。また、そうでなくてはなりません。それは、僕たちの身も心も、僕たち自身のものではなく、神から与えられたものだからです。同じように僕たちの隣人も、神から身と心を与えられているのです。

 

 

 同じ神から造られた者同士、お互いを認め同じ思いを以って神を讃えなければならないのです。しかし、現実はこのようにはゆきません。これが人の愚かさです。自分は可愛くても、人のことはどうでもいい。自分を理解してくれない人、自分の気に入らない人とは挨拶もしません。自己中心の極みです。高ぶりの心です。挨拶とはその意味を深掘りしてみると、心を開いて相手に迫ると言う意味があります。人間関係の基本中の基本です。心を頑なにしてはなりません。イエス・キリストが柔和で心の謙った方であったように、僕たちもイエス・キリストに倣うものであるべきなのです。

 

しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。『神は、高ぶる者を退け、謙る者に恵みをお授けになる。』<ヤコブの手紙46

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
受難節に寄せて

 昨日は桃の節句でした。この言葉もずいぶん聞いていないように思います。旧暦の節句を新暦にあてたものですから、桃の花が咲く時期とはかけ離れています。古来から日本人の自然を相手にした物事の表現には美しいものが数多くあります。その多くは詩歌に歌われており、表現の豊かさに驚かされるばかりです。

 

 教会歴は明日から受難節に入ります。キリストの復活祭までの間、いえす・キリストの受難を覚える期間です。因みに今年の復活祭は、416日になりなす。春分の日の後の最初の満月が遅いのでしょう。聖書によりますと十字架の刑場で、ポンテオ・ピラトは、「この人からは何の罪も見いだせない。」と言われました。まさにイエス・キリストは何一つ罪を犯さなかったのです。病人を癒し、死者を甦らせ、当時、罪人と呼ばれた人たちと交わり悔い改めさせ、友無き者の友となりました。この罪のないイエス・キリストがどうして十字架の刑を受けなければならなかったのでしょうか。十字架の刑は、当時の刑罰としては、いちばん惨めな刑でありました。

 

 

 聖書は、罪の代価として支払われるものが死であると教えています。罪のないイエス・キリストが十字架にかかり死にました。その罪はどこから来たのでしょうか。それは紛れもない僕たちの罪なのです。本来であれば罪を犯し、日々その罪過を大きくしている僕たちが十字架にかけられなければならないのです。イエス・キリストは、神の測り知ることのできない計画により、僕たちに代わって十字架にかけられ死んだのです。イエス・キリストの死によって、僕たちの罪は赦されました。そして永遠の命が約束されたのです。

 この受難節の間、イエス・キリストの苦悩を思い日々、慎み深く生きてゆきたいと思います。

 

 神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。<ヨハネによる福音書316

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
| 1/39PAGES | >>