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世に勝つ者とは誰か。
 

 今年は5月も半ばと言うのに、朝夕は冷え込むことの多い日が続いています。僕の畑つくりも3年目になりました。僕の畑つくりの基本は、無農薬栽培です。ですから丈夫な作物を作るために、肥料として刈草や鶏糞を沢山使います。化学肥料は使いません。今日は、トウモロコシの種を蒔いて春の畑仕事はひと段落です。後は収穫までの間に作物が雑草に負けないようにせっせと草取りをするだけです。

 今年の作物は、キャベツ、カリフラワー、ミズナ、ジャガイモ、キューリ、・・・・そしてトウモロコシです。一粒の種を蒔くことから始る農作業が実を結び、やがて僕らを養ってくれます。


 今を生きる僕達も、キリストが蒔かれた一粒の種から命を頂いています。このことに感謝を捧げましょう。しかし時には、畑に生える雑草のように僕達の命の育みを疎外する者が現れます。でも恐れることはありません。僕達は世に勝っているのです。「世に勝つ者は誰か。イエスを神の子と信じる者ではないか」聖書はこのように教えています。このことを覚えつつ、新しい週も信仰の歩みを続けてゆきましょう。

 
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捨てなければ得られないもの
 

201256

田瀬教会

 

捨てなければ得られないもの

マルコによる福音書1017節〜31

              

イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。

『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」

すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。

イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。

金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。

イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、

今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

 

 

      

毎年この時期になりますと同じ門下でいけばなを学んでいた方が、ワラビを採らせて欲しいと訪ねて来てくださいます。最近ではワラビの生える場所も限られ、皆こぞってその場所へと向かうものですから、採れる量もそんなに多くはなくなりました。

私が幼い頃は、ワラビは我が家の現金収入源のひとつでもありました。母に連れられてワラビ採りに山野を這い回ったものです。母は採ってきたワラビの長さを揃えて切り口に灰を付け、一握りくらいの本数をワラで縛って行商人に買ってもらうのです。はるか昔の話、当時一束20円から30円で買ってもらっていたと思います。竹やぶのある家では、タケノコを掘って買ってもらっていました。

 皆さんもご存知の通り、福島の原子力発電所の事故以来、食品への放射性セシウム汚染が社会問題となっており、このことは健康にとって重要な問題で包み隠すことなく明らかにして欲しいと思います。食品に限ることばかりではなく、いまや国中揃って何につけても安全安心をうたっている昨今です。人として人の道を踏み外すことなく物事に対処したとすれば、安全安心などと声高らかに言うまでのことはないのではないと私は思うのです。スーパーでもワラビが店頭に並ぶ時代です。やがてはワラビにも産地表示が必要になる時代が来るかも知れません。

 

 
 
聖書は私達に、人としてあるべき道を示し教えてくれます。それは人を創造された神の人に対する愛に基づくものです。日本キリスト教団信仰告白の文言の中に、『旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて、全き知識を我らに与うる神のことことばにして、生活との誤りなき規範なり。』と記された箇所があります。聖書が一貫して教える事柄は神の愛についてです。そして聖書は創世記の天地創造の記事から始り、ヨハネの黙示録の神の国の完成で終わります。

 

 本日はマルコによる福音書から、神の国に入る者はどういう者であるかを学びたいと思います。

 

 私達の心は、何によって満たされ幸福を感じるのでしょうか。おそらく多くの場合、人との比較によってと言うことがあると思います。有名な会社に勤めていることであったり、高い給与を受けていたり、あるいは多くの財産を持っていたりと人よりも勝ることに喜びを感じることもありましょう。また多くの家族に囲まれて家族団欒の日々に幸せだと思うこともあると思います。このように見ると、時として私の人生はなんと寂しいものかと思うことがあります。結婚はしましたが離婚をし、この年になっても家庭を持つことが出来ず、また父母をも亡くしてしまいました。母は、私の行く末を案じると言いつつ、病床にあっては、病室に来る看護師に家の嫁に来てくれないかと言っていたことを知った時、生前にせめて孫の顔を見せてやりたかったという悔やみにさいなまれます。

 しかし人の人生は、他の人との比較の上にはありません。ましてや信仰者であればそれは歴然としています。私達の人生は神との関係の中にあり、神が私達一人ひとりの人生を導いてくださるのですから、他の人と比べることは意味のないことなのです。いつも喜んでいること、絶えず祈ることが、神との関係を豊かにしてくれるのです。神が伴われる人生、これほど幸福な人生はありません。

 

因みにこのような研究発表があります。それは他人が不幸になったことを、不謹慎であるとは理解しつつも喜んでしまうことを「他人の不幸は蜜の味」という言い方をしますが、独立行政法人 放射線医学総合研究所と東京医科歯科大学、日本医科大学、慶應義塾大学は共同で人が「妬み」を持つ感情と他人の不幸を喜ぶ感情に関する脳内の仕組みを明らかにしたそうです。実際に他人の不幸を喜ぶ脳内の仕組みが脳科学的に証明されまた、「妬み」の感情と他人の不幸を喜ぶ感情の関連性についても解明されているそうです。

幸福な人生には優越感が伴い、貧しい人生には羨む思いが伴うことが多いように思います。

 さて、先ほど朗読していただいた箇所は、マタイによる福音書とルカによる福音書に平行記事があります。ここに出てくる金持ちの男は、この記事から生真面目な人であったと察します。また記されている通り多くの財産を持ち裕福であったことは言うまでもありません。友人も大勢いたことだと思います。しかし何と言って不自由なく思うがままの暮らしをしていても、心が満たされない。そのわだかまりを携えてイエスのところへ来たのだと私は思うのです。

マタイによる福音書ではこの金持ちの男を、富める青年と記しています。そして今日のこの10章は、834節から続く物語です。その箇所を見てみますと、“それから群衆を弟子達と共に呼び集めて言われた。「私の後に従いたい者は、自分を捨てて、自分の十字架を背負って私に従いなさい。」”このように記されています。

カファルナウムから旅に出ようとするイエスのところへ、ある人が走り寄ってひざまずいて尋ねました。ある人とは、金持ちの男を指します。イエスがカファルナウムに滞在していることを耳にして、旅立たれる前にイエスにお会いし、何が何でも聞いておかなければならないことがある。このような状況であったと思います。急で行かないとない旅立たれ、聞くことも出来ず、そうだったとしたら後悔が残る。このような気持ちで走り寄って来たのだと察することが出来ます。

「善い先生、永遠の命を受け継ぐには何をしたらよいのでしょうか。」と尋ねたのです。ここでこの人は、善いという言葉を使っています。この言葉について、イエスはこの男に尋ねています。どうして私を善いというのか。この後に、イエスが言われるように神お一人のほかに善い者は誰もいないのです。“善い”と訳されているこの言葉は、他の聖書では尊いと訳されていますが、善いと呼べるものは、神を基準にし、神に由来することを意味するものでした。善い先生と言う呼び方は、先生に対するユダヤ人の呼びかけとしては極めて珍しいもので、おそらくお世辞的意味であったと考えられています。

 

イエスの答えは、律法に示されている通りのものでした。この人にすれば、そのようなことは今更教えてもらわなくても、十戒とレビ記185節を読めば判ることでした。因みにレビ記185節をご紹介しますと、そこには、『私の掟と法を守り、これらを行なう人はそれによって命を得ることが出来る。私は主である。』このように記されています。

イエスが答えられたことに、「そう言うことはみな、子供の時から守ってきました。」とこの人は言うのでした。この人がイエスのところに来て求めた答えは、このような答えではなく、これ以上の答えを求めてきたのです。実際に、幼い時から自分なりに十戒を守ってきました。しかし、心の中には未だ永遠の命についての確信を得ることが出来ず、まだ自分に欠けているものがあるはずだ。そのことをイエスに教えてもらいたかったのです。

イエスはこの人の心の中を見抜かれるかのように、慈しみのまなざしで言われたことは、「帰って持ち物を全部売り払い、貧しい人に施しなさい。その上で私についてきなさい。」 この言葉に悲しみながら去ってゆくこの人の後姿は、富がこの人の心に深く根を張っている事実と、弱い者、貧しい者を愛するという神の教えに倣って、神の御子であるイエスに従うという内容が、自分の期待していた答えに合わず立ち去りました。

 

イエスはそばにいた弟子達に、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と誇張した表現で、富に対する執着心がある限りは神の国には入る事は難しいと言っています。富だけでなく、人をこの世に縛るものは、安易な愛情、名声、簡単に手に入る楽しみなどが挙げられます。その未練を捨てることの難しさは、「ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われる通りです。

金持ちの男が求める、この世に合わせた基準や、悔い改めのないまま、神の国に入ることは絶対に無理であり、「人間にできること」ではありません。全世界を手に入れるような富があっても、命を買い戻すことは出来ないのです。それなのに人は、富こそが命を豊かにし、幸せの目標であるかのような錯覚に陥り易いのです。

 

悔い改めは、自分中心の生き方から神様中心に生きる生き方に方向転換することです。

この世への執着を捨てることは「出来ない」と考えている人でも、悔い改めをもって真剣に救いを願うならば、「何でもお出来になる神」は、どのような者でも救われます。

「世界の主権は神にある」ことを再確認し、そのような神に、私達は眼を懸けていただいている、その恵みに感謝して歩みたいと思います。

 

 財産を捨てることが出来ずに去っていった男とは対照的に、弟子達は何もかもを捨ててイエスに従ってきました。ペテロは、それを誇示するかのように「この通り私達は、何もかも捨ててあなたに従って参りました。」と言うのです。これに対してイエスは、弟子達に教えます。「イエスご自身のために、また福音のために失うものがあり、迫害を受けることもある。」しかし、これらの犠牲にはるかに優る報酬を約束されたのです。それは、今の時代には、新しい家族と新しい使命が与えられ、来るべき世では、永遠の命が与えられるのです。新しい家族とは愛する兄弟姉妹であり、新しい使命とは神の御心を行なうことです。

 

このような報酬の約束と共に、弟子達に厳しい言葉を告げています。「先にいるものの多くが後になり、後にいるものの多くが先になる。」先の者とは、何もかもをすえてイエスに従ってきた弟子達であり、後の者とは、イエスに従う群衆の一番最後にいる幼子達であり、また盲目の人であり、また取税人や遊女などを指します。

弟子達の間で誰が一番偉いのかなどと議論し、今ここで去って言った金持ちの男を尻目に、私達は何もかもを捨てて、あなたに従って参りました。」と得意げになっている弟子達への警告であったのです。

 

 子供でも入ることの出来る神の国に、裕福で道徳的に熱心な男が入れないとしたら、またこの男が神の国に入ることの出来る可能性よりも、ラクダが針の穴を通る方が優しいと言われるのなら一体誰が救われるのと言うのでしょうか。そしてこの金持ちの男が、永遠の命を得るためにと期待した答えとはどういうものだったのでしょうか。

 この男が今期待していたことは、何か困難なことか非常に功績のあることをして、欠けているものを補うようにとイエスから告げられることであったのです。この男が頼りにしているような人間的な業績は、神の前には何の意味もありません。

 

律法を破ることも、律法から外れることもなく、完全に律法に従うことが永遠の命を意味することに変わりはありません。この男にある重大な誤りは、「そう言う事はみな、子供の時から守ってきました。」と言いつつも、十戒の最大の戒めを破っていたことにあります。それは、この男にとって財産こそ神であったからです。財産があるとするならば、これも神から与えられたものなのです。

マタイによる福音書には、神と富、両方に使えることは出来ないと記されています。ここでイエスは、財産を犠牲にする引き換えに永遠の命を約束されたのではありません。虫がつくこともあるでしょうし、価値がなくなってしまうこともあるこの世の不確実な宝の代わりに、確実な宝を約束されたのです。命の道は、邪魔物を一切取り除き、ただ神のみを頼みとして、ひたすらその道を歩くことです。この後、この男が考え直してイエスに従ったかどうかを知る術はありません。

 

神は自分の固執した考えや信念、また、こだわりや自尊心を捨てるとき、素晴らしいものを与えると約束されています。それは“永遠のいのち”です。ヨハネ17:3では「永遠のいのちとは、唯一のまことの神と、神のお遣わしになったイエスキリストを知ることです。」と記されています。私たちは、捨てないと与えられないものがあるのです。大切なもののため、私が、また私達が、今日捨てるものは何か神に問うてみましょう。

 

 

 

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捨てるもの、得るもの。
 

毎年この時期になりますと同じ門下でいけばなを学んでいた方が、ワラビを採らせて欲しいと訪ねて来てくださいます。最近ではワラビの生える場所も限られ、皆こぞってその場所へと向かうものですから、採れる量もそんなに多くはなくなりました。

僕が幼い頃は、ワラビは我が家の現金収入源のひとつでもありました。母に連れられてワラビ採りに山野を這い回ったものです。母は採ってきたワラビの長さを揃えて切り口に灰を付け、一握りくらいの本数をワラで縛って行商人に買ってもらうのです。はるか昔の話、当時一束20円から30円で買ってもらっていたと思います。竹やぶのある家では、タケノコを掘って買ってもらっていました。

 

 
 僕達の心は、何によって満たされ幸福を感じるのでしょうか。おそらく多くの場合、人との比較によってと言うことがあると思います。有名な会社に勤めていることであったり、高い給与を受けていたり、あるいは多くの財産を持っていたりと人よりも勝ることに喜びを感じることもありましょう。また多くの家族に囲まれて家族団欒の日々に幸せだと思うこともあると思います。

 しかし人の人生は、他の人との比較の上にはありません。ましてや信仰者であればそれは歴然としています。僕達の人生は神との関係の中にあり、神が僕達一人ひとりの人生を導いてくださるのですから、他の人と比べることは意味のないことなのです。いつも喜んでいること、絶えず祈ることが、神との関係を豊かにしてくれるのです。神が伴われる人生、これほど幸福な人生はありません。

 

 「私の後に従いたい者は、自分を捨てて、自分の十字架を背負って僕に従いなさい。」イエスは、このように語られています。

神は自分の固執した考えや信念、また、こだわりや自尊心を捨てるとき、素晴らしいものを与えると約束されています。それは“永遠のいのち”です。ヨハネは「永遠のいのちとは、唯一のまことの神と、神のお遣わしになったイエスキリストを知ることです。」と記しています。僕が、また僕達が、今日捨てるものは何か神に問うてみましょう。
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賛美歌
 

このところ急に暑くなり、春というより初夏と言う感じがしています。気候も良くなってきたので、何と言って目的があるわけではないのですが、夜に庭先に出て過ごすことが多くなりました。そう言えば、沖縄地方は去年と同様に、はや4月に梅雨入りしたそうですねそして多くの街で夏日となったり、季節に先取りはありませんよね。今年も猛暑になるのかと心配しています。

 月星の光のほかにあるあるものは、闇に浮かんで見える山並みや木々の姿。そして庭先を流れる水の音と、カエルの声です。僕にとっては一日の終わりの至福の時間です。そして賛美歌を思い浮かべています。

 

 輝く日を仰ぐとき、月星ながむるとき

(いかずち)鳴り渡るとき、まことの神を思う。

わが霊 いざ讃えよ 聖なる御神を。

 




信仰者には一つや二つ、愛唱賛美歌というものがあります。僕には幾つあるかなと数えてみれば、10くらいはあるかもしれません。僕にとって賛美歌は、いうまでもなく神を讃える歌、同時に慰めを与えてくれる歌でもあります。

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次世代への贈り物
 

梅の花が終わり、桜の花もおそらく明日の雨で終わることになると思います。レンギョウ、モクレン、コブシと次々に花が咲き競うようです。上ばかりでなく地面を見れば、シバザクラ、菜の花などがあちらこちらで目を楽しませてくれます。

 今年も畑を耕し始めました。今年の手始めは、イチゴ、キャベツ、カリフラワー、レタスです。これらを植える為に(種からではなくて、ホームセンターで苗を買ってきます。)畑を耕し、さぁ一休みしようと畑近くの山を見ていたときのことです。モクモクと白っぽい煙状のものが漂うのです。近くの家でゴミを焼いている煙かと思ったのですが、その出所はヒノキでした。要するにヒノキ花粉なのです。そう思いつつ四方を眺めてみると、あちらでもこちらでもモクモクト花粉がヒノキから飛ばされています。不思議なものであたかも花粉を飛ばすタイミングを合わせたようでした。



 おかげさまで僕は花粉症ではないので、体には何の影響もないのですが、この花粉症もいわば時代の産物で、樹木の価格のよかった時代に広葉樹林を切り開き、ヒノキやスギなどの建築材となる木々を植林したのです。その後、樹木の価格は低下し地主には山林を手入れするほどの余力もなくなってしまったのです。植林された林は荒廃し、太陽の光さえ入らない。ですから下草も生えず、地面がむき出しになっています。その結果、地面は保水力を失い、地盤を弱くしてしまいます。災害を引き起こすことさえあるのです。

 そうした山林が僕の家の周囲には沢山あります。次の世代に残す環境を整えること。今の時代を生きる者達に課せられた問題であると思うのです。

 様々な知恵は、人類の欲望を満たすためではなく、神の栄光のために尽くすべきなのではないでしょうか。
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安全、安心
 

 4月も半ば。こちらでは桜の花が5分咲きから満開です。僕がつけている4年前の記録を見るとこの時期には、桜の花は散り始めいています。それを思うと今年は寒い時期が長かったことを実感しています。花冷えと言う言葉通り、桜の花は咲いても夜の冷えは少し堪えますね。

 野原でワラビが出ているのを見つけ見つけました。ワラビが出るようになると本格的な春です。僕の幼い頃、ワラビは我が家の現金収入源でもありました。母に連れられてワラビ採りに山野を這い回りました。母は採ってきたワラビの長さを揃えて切り口に灰を付け、一握りくらいの本数をワラで縛って行商人に買ってもらうのです。はるか昔の話、当時一束20円から30円で買ってもらっていたと思います。竹やぶのある家では、タケノコを掘って買ってもらっていました。



 食品への放射性セシウム汚染が社会問題となっています。このことは健康にとって重要な問題で、包み隠すことなく明らかにして欲しいと思います。食品に限ることばかりではなく、いまや国中揃って何につけても安全安心をうたっている昨今です。人として人の道を踏み外すことなく物事に対処したとすれば、安全安心などと声高らかに言うまでのことはないのではないでしょうか。ISOとかSQFとか言う規格を設けて、規格化、同一化することが安全安心な物に繋がるかどうか僕は疑問です。

 スーパーでもワラビが店頭に並ぶ時代、やがてワラビにも産地表示が必要になる時代が来るかも知れませんね。
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イースターおめでとう
 

  4月になると言うのに、当地方では雪の舞う日がありました。今年の春の歩みはいつになくゆっくりしています。今日は復活祭。仏教では花祭り。また僕の母方の祖父の命日でもあります。

僕達の信仰の希望は、人の人生は死で終わることはないと言うことです。聖書は僕達に、キリストは人類にとって最大の敵である死に打ち勝ったことを教えています。キリストは、十字架に掛けられて死にました。しかし、三日の後に復活されたのです。死者の復活を他の言葉で言い表すとしたら、甦りです。甦りと言う漢字を分解してみると、更と生に分けることが出来ます。甦りとは、死んだ後も更に生かされることです。



キリストが死んだ後、復活までの三日間には何があったのだろうと疑問が湧きます。聖典としての権威はないのですが、トマスによる福音書にそのことが記されています。キリストは死んだ後に陰府(よみ)に行き、キリストが死ぬ前に死んでいった人々に、神の救いを知らせたのです。

神の救いからは、誰一人としてもれることはありません。罪深いところにこそ、神からの手厚い恵が垂れるのです。


神は、その御子を遣わすほどにこの世を愛された。それは御子を信じるものが一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。(ヨハネによる福音書 3章17)

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キリストのこころ
少しずつ春の訪れを身に感じながら、4月と言うのに天候不順で本格的な春と言うまでには、もう少しの時間がかかりそうです。今日は日中に雪が舞いました。
マスコミは世界の状況を刻々と私たちに知らせてくれます。貧困と飢餓、内乱内戦を逃れての避難民の人々。社会の底辺にある一番大切にされなければならない人々が、社会から、世からはじき出されてしまう現実があります。このような中で、平和を望まない人がいないはずがありません。しかしこう言った生活が日常となると日々の命を繋ぐことだけで精一杯で、幸福とか日々の平安などと言った他のことなど考えている余裕は心のうちから忘れ去られているのかもしれません。



 人類の歴史は、この地上のどこかしらでこのような悲惨を繰り返してきました。なぜでしょうか。その原因のひとつは、そもそも人は自己中心であるからです。これが即ち罪深い人の姿です。利己心は、自らの利益のためのみに知恵と労とを費やします。虚栄心は自らの見栄です。虚栄とは虚しい栄と書きます。まさにその通りです。

冷静に考えてみれば、自分のことばからりではなく他の人のことをも考えることは、共に生きるものとして自然な感覚です。夫婦が互いのことを思い、親がこどもの事を思う心と重ね合わせはできないでしょうか。しかし出来ない、抑えられない欲求がその思いをかき消してしまうことは多分にあることです。自らの思いを成し遂げんがために、人を踏み台にすることさえあるのです。これが現実です。しかしそう言う者たちが強いわけではありません。

世に勝つ者は誰か。イエスを神の子と信じる者ではないか。聖書はこのように教えています。すでに世に勝っておられるイエス・キリストを信じる者は、その人自身がすでに世に勝っているのです。それは、他の人や他の国と比較・競争して勝つという意味ではなく、もっと根本的な意味で、この世に生きることに勝っているということです。

 この恵みを噛みしめつつ、新約聖書フィリピの信徒への手紙2章3節4節の言葉をご紹介します。
 「
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分の事だけでなく、他人のことにも注意しなさい。」
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春だ、だよ。
 

まもなく4月と言うのに、今日も昨日も雪が舞いました。ウグイスのさえずりを聞き、そしてちらほらと咲き始めた梅の花を見ながら、やっと春がやってきたんだと思っていました。雪が舞ったからと言って季節が逆戻りすることはあり得ないので、不順な天候と言うことです。ニュースによると、2010年までの10年間の地球の気温の上昇率は過去最高値だそうです。二酸化炭素排出削減策の対策を早急に講じなくてはならないと述べられていました。次の世代に健全な環境を残す為に、僕達は今何をすべきなのかをもっと具体的に真剣に伝えること。そしてそれを実行することだと思うのですが、このような考え方は少数派なのかもしれません。世の中には矛盾がまかり通り、様々なしがらみがありますから強く言えない部分もあることは確かです。経済発展優先、朝の命よりも今日の快楽的志向。

 

 2週間後は、主イエスキリストの復活祭です。何一つ罪を犯さなかったイエスが、十字架に掛けられると言う、恥辱に満ちた死に方をしなければならなかったのです。イエスを十字架の死へと向かわせたのは紛れもない人の仕業です。イエスを信じるものが、誰一人として滅びることなく永遠の命を持つようにと、この世に遣わされた者の最期の姿です。しかしキリストは人類の最後の敵である死に勝ち、死人中から甦った最初の人です。自らを十字架に追いやった人を赦し、地上での死の後も更に生きるようにと道を開いてくださったキリストの愛に心を留めてみましょう。

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その姿美しく
 

 今日は春分の日、太陽が春分点を通る日です。そして仏教では彼岸の中日。何か関係があるのかないのか、いづれ調べてみようと思います。古くから、暑さ寒さも彼岸まで。と言います。 丁度この時期が、その頃にあたり、春を待つ心の拠り所となったり、残暑が納まる頃の目安であったりするのでしょうね。そしてまた今日は、JTJ宣教神学校の卒業式でもありました。それぞれ目的を持って学ばれた方々がその課程を終え、世に遣わされてゆく意味深い日でもあります。

僕も卒業後、丸2年を経ました。その日を思い起こしています。あの時確かに古い上着を脱ぎ捨てました。そして新しくされた事を確信しました。宣教のためなら、その命をも差し出すことをもためらうことはありませんか。と問われたとき、確かに「はい。」と答えたのです。今もその心は変わらないと言うことが出来ます。


僕達はキリストによって、当人の意思とは関係なく日々新しくされています。ですから、古い上着は日ごとに脱ぎ捨ててゆきます。日々新しくされているのに、いつまでも古い上着を着ているのは不釣合いと言うものです。新しいぶどう酒は、新しい皮袋に入れなければならないことと同じです。

でも人には、物への愛着心と言う感情があります。それはすばらしい感情です。もちろん僕の心の中にもあります。しかし、いつまでもそこに留まっていていることは神の御旨ではありません。花がその蕾の皮を破って、美しい姿を現す様に、僕達も古い上着を脱ぎ捨てて、神の栄光を顕す器としての働きが出来るようにと祈り続けましょう。
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