<< June 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>

悠久の時

 この先1週間は、どうも梅雨らしい天候になる予報でした。僕の家の裏にこの時期の花、ササユリが咲き、芳しい香りを放っています。僕が子供のころには、山に行けばどこにでも見ることが出来たササユリです。しかし近年では、数が減少し希少種となってしまったようです。もしかしたら絶滅危惧種かも知れません。僕はササユリの種を採り、プランターに蒔いて育てていますが、花をつけるのはまだまだ先のこと、芽が出てから花が咲くまでに、おおよそ10年はかかると聞いています。野生の植物には美しいものが少な時からずありますが、その中でもササユリは、その最たるものだと思っています。因みにササユリの語源は、その葉が、ササの葉に似ているからです。

 

 

 

 今年も春夏秋冬の営みの中で、梅雨の時期をむかえました。これは、神が天地創造をされた時から変わりなく続いてきたものです。悠久の時の流れに思いを馳せます。その時の流れの中で、僕たちの地上での人生は本の一齣でしかありません。しかし僕たちには、神が約束された死からの復活と永遠の命が約束されているのです。ですから僕たちは、何があっても天を見上げ落胆しません。この世の憂い悩み、そして苦しみは、そのあとに約束されたものに比べれば、些細なことだからです。神から与えられた今この時、そして明日を望み流れ生きるのです。時間とは、漢字では、時の間と書きます。その時とは、刻々と刻まれる時計の時ではなく、天地創造の時から始まる時であり、神の国の完成の時までです。その悠久の時の間に僕たちの人生はあるのです。また始まる新しい週に感謝ををもって生きてゆきたいと思います。

 

聖書の言葉

あなたがたのうち、だれが思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の花でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。<マタイによる福音書62730節>

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
愛に生きる

 今年もアマリリスが咲き、目を楽しませてくれています。僕の育てているアマリリスは、僕が浜松市に住んでいたころ、勤務していた会社の社宅に植えてあったものを、持ち帰ったものです。おそらく50年は経っていると思います。その間、世代交代を繰り返し今まで命を温存していると思うと、その生命力の強さには驚くべきものがあります。今の時代、様々な色彩の種類のアマリリスがあります。このアマリリスが植えられたころには、このタイプの花が流行っていたのかと永遠の昔に思いを馳せます。植物の生命力には驚くものがあると思う反面、今の時代、環境の変化からか、乱開発からか絶滅して行く植物も少なからずあります。ササユリ、オミナエシ、キキョウ、マツムシソウなど僕が幼かった頃、野辺でいくらでも見ることが出来た植物が今は滅多に見ることが出来ません。神が創造されたものが、人の手によって絶滅しているのです。命を保つことはなんと難しいことでしょうか。野の物は、地の法則によって命を温存します。しかし、園芸種は、人が手を施してやらないと枯死してしまいます。いかに愛着をもって育てるかが問われることになります。

 

 

 昨今、5歳の女の子が親の虐待により命を落としました。胸が痛む思いです。照明もない部屋に閉じ込められ、朝早くからひらがなを書く練習をしていたとか。その女の子が書き残したものには、「ゆるしてください。ごめんなさい。」と記されていたそうです。この両親は、親になる資格のない者だったと言うほかありません。子は、親の愛情を受け育まなければなりません。おそらくこの両親の生い立ちは良くはなかったのだと察することが出来ます。聖書は、「父たるものよ。子につらく当たってはならない。心がいじけるからである。」と教えています。天地を想像され、また人を造られた神は、全ての者に愛を注がれています。その愛を受け取ったものが、信仰へと導かれます。神が給う愛と慈しみの内を歩む者は、隣人に対しても、そのようにすることが出来ます。同じ人としてこの世に生を受けた者同士、互いに愛と尊厳とを以て生きて行きたいと思います。

 

聖書の言葉

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうち誰が、思い悩んだからと言って、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それは皆、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものが皆あなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは皆加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」<マタイによる福音書62434

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
父の思い

 早くも6月。梅雨入りも近い事と思います。僕が幼いころの梅雨の時期は、風情があったように思います。毎日の様にしとしとと降る雨、そしてアジサイの花が咲き、その葉にはカタツムリが這っていた様子が思い浮かばれます。もう50年も前の話です。気候は確かに変化してきています。思ってみれば、カタツムリの姿を最後に見たのはいつの日か記憶にありません。自然は環境に左右されます。環境を変えるのは人の業です。変わってしまった環境を元に戻すことはできないと言っても間違いではないと思います。ただ、これ以上に環境が変わらないように自然の営みを保つことが、将来を担う者に対する僕たちの責任であると思います。様々なものの進歩によって、快適な暮らしができるようになりました。便利なことがよいかと言えば、それは間違いではありません。しかし、その裏側で起こっていることを知らなければならないのです。電気は便利なものです。今の生活に無くてはならなくなっています。その電気を発電するために何が使われているのでしょうか。水力、火力、原子力、そして風力、地熱があります。これ以上、自然環境を変えないためには、自然からエネルギーを得ることが一番の得策です。

 

 

神はこの世を見て、忍耐されていると思います。森羅万象は神が創造されたものです。そして僕たち人も神によって創造され、イエス・キリストを信じる信仰により、神の子とされたのです。そして神を父と呼ぶことが許されました。父が創造されたものを、子が破壊しているのです。人の世の話だとしたら、父は子に向かい激怒することであると思います。旧約聖書の時代、神は人の罪の故に何度となく人を打たれました。罪とは神の存在を忘れ、人が独り歩きをする状態です。また、神に背を向け自らを神とすることです。明日から始まる新しい週に、神の思いを今一度思い起こし、今僕たちが出来ることは何かを考えてゆきたいと思います。

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
礼拝説教予告

6の礼拝は次の通りです。


どなたでもご出席ください。

                     
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


日時      6月   24日() 14時00
          
    
説教     「 罪は赦された 
」   

聖書   マタイによる福音書9章1〜8

 

讃美歌  546、2、228、515、541


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

日時  6月    3日()10時30分〜 三位一体後第1主日

 

      6月   10日(10時30分〜 三位一体後第2主日

   
    6月   17日()19時00分〜
三位一体後第3主日

 

      6月   24日()14時00分〜 三位一体後第4主日

     

      
    

 

 

 

 

 




 

| comments(0) | trackbacks(0) | 礼拝説教予告 |
共に歩まれるイエス

日中は夏のような陽気、朝夕は過ごしやすいこの頃です。昨日には春ゼミの声を聞きました。

かつては、この時期に鳴くセミなどいなかったことを思うと、温暖化を身をもって感じます。

この頃のニュースも、相変わらず殺人事件が多いことに憂いを感じています。特に印象深いのは、日大アメフト部の事件です。僕には、組織ぐるみの仕込まれた犯行としか思えません。

その犠牲となったのが、違反をしたと言われる青年です。将来ある青年が、大人のしがらみの中に巻き込まれ、マスコミの注目の的となってしまいました。おそらく彼の言っていることは真実であると思います。監督、コーチはうさんくさいのです。自分の地位、名誉を守るために罪もない青年を陥れようとしている。これが僕の見解です。監督の経歴や言動にもその裏側に事件性が見え隠れします。日大のトップ2の常務理事、理事長に気に入られ常務理事の職を手にした。そして、人事権を握りしめているとか。職員は自分の身可愛さに何も言うことが出来ないとのこと。このような事態が明るみに出た今、日大の格が下がることは間違いないことでしょう。この問題はまだ解決していません。国もスポーツ庁が調査に動き始めました。人は一度、権力を握るとあたかも自らが偉いものの様な錯覚に陥るものです。そこに人間性が現れます。

 

 

裁きは僕たちがすることではありません。地上の裁きは人が行いますが、やがて訪れる最後の審判において、神自身が裁かれるのです。キリストの救いに与った者は、全ての罪が許されています。神の前に立ち審判を受ける時、一人一人の罪状書きが読み上げられます。しかし、その罪はキリストが擁護して下さるのです。今も生きて働かれる神は、僕たちの行い一つ一つを吟味されます。しかし、キリストが共に歩んでくださる人生に恐れはありません。

明日から始まる新しい週も、キリストが共に歩んでくださり神の御心を示してくださいます。その御心に謙虚な心を以て従う日々でありたいと思います。来る新しい週に平安がありますように。

 

聖書の言葉

主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりがあなた方一同と共ににあるように。<コリントの信徒への手紙第二13章13>

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
喜び・祈り・感謝

 長い間、ライラックの木だと思って育ててきた木が花を咲かせたのは、7年ほど前のことです。咲いた花に僕は驚愕の一言でした。なんとライラックだと思っていた木が、ナンジャモンジャだったのです。ナンジャモンジャとは、柿の仲間の木でヒトツバタゴと言うのが一般的です。純白の糸のような花を咲かせます。まるで常緑樹の枝に雪が積もっているような光景です。種は種に従って命を継続します。これは天地創造の時以来、変わることのない事実です。

 

 

先日は、年に一度の健康診断を受けてきました。結果が出るのは2週間ほど先のことになると思います。僕たちの体は、神から賜ったものです。自分のものだと勘違いしがちですが、実はそうではありません。ですから神から賜ったこの体を大切にし、不具合のところがあれば医師の診察を受け、健康を維持なければなりません。聖書は、いつも感謝しなさい。絶えず祈りなさいと教えています。不満を抱えながらの生活は、そのことによって人につらく当たることもあります。これは精神的に不健康な状況です。医学的に笑うことは、健康に付与することが立証されています。人の表情の中で、笑顔ほど美しいものはありません。明日からの新しい週、思いも新たに誰に対しても笑顔を以て接したいものです。

 

聖書の言葉

いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。<テサロニケの信徒への手紙第一51618

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
再臨を待つ

 20年ほど前に植えたセイヨウトチノキが、今年たくさんの花を着け、目を楽しませてくれています。僕がセイヨウトチノキに魅せられたのは、イギリス、フランスを旅行した時のことでした。街路樹として植えられており、植物好きの僕はその樹勢と花の色、形にセイヨウトチノキの虜になりました。帰国して何年かしてから、運よく植木店でセイヨウトチノキの幼木を見つけ手に入れたのです。花が咲くまで、今年は咲くだろうかと何年待ったことかわかりません。待つことは忍耐が必要です。忍耐して待てば、事は必ず成し遂げられるのです。

 

 

 

 僕たち信仰者、そして教会が待ち望んでいることがあります。それはイエス・キリストが、

再びこの世に来て下さることです。これはイエス・キリストが約束されたことだからです。これをキリストの再臨と言います。それはいつになるかわかりません。ただ神の計画によって成し遂げられることです。僕がこの世にあるうちに再臨はないかもしれません。しかし、今を生きる僕たちは、キリストの再臨に一番近い時間を生きているのです。天地創造の時から、今この時に至るまで、この世を支配されている神は、今も生きて僕たちに働きかけられます。神から賜る日々の恵みと平安の内を感謝の念を以て歩みつつ、心静かに再臨の日を待ち望みたいと思います。

 

聖書の言葉

私は、あなた方をみなしご子にはしておかない。あなた方のところに戻ってくる。<ヨハネによる福音書1418

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
子供は宝

 今日は子供の日。僕が幼かった頃は、こどもの日には地区ぐるみでバス遠足が恒例でした。

この年になっては、もうどこへ行ったのか記憶は遠のいていますが、名古屋空港や蒲郡へ潮干狩りに行った覚えがあります。その日の為に、子供ながらに朝早く起きる練習をしていました。もう50年も前の話です。今日の天候は晴れ、バス遠足と言ったものが現在も存在するかどうか僕にはわかりませんが、多くの親子連れが楽しむ一日であると思います。今も昔も、子供は国の宝です。将来の我が国を担う子供たちが伸び伸びと育まれる社会を作るのが今を生きる僕たち大人の責任です。

 

 

 

 しかし、世界を見渡せば発展途上にある国の子供たちは十分な教育を受けることもできず、如何に貧困と飢餓の中にある子供たちの多いことでしょうか。内戦によって苦しみ喘ぐ子供たちもいます。このようは国には将来はありません。我が国においても問題はあります。

幼児虐待がはびこっているのです。親になってはいけない大人が親となってしまったのです。結婚をしたならば、なりよりも先ず親になることを考えなければなりません。親の深い愛情に育まれて、子供は成長しなければならないのです。僕たち信仰者は、神の前に何の功績もないのに、神はそのままの僕たちを受け入れ神の子としてくださいました。これより深い愛はないと思います。僕たちは神の子として、父なる神を証することが神の子とされた僕たちに与えられた使命であると思います。明日からの新しく始まる週に、このことを覚えつつ生きてゆきたいと思います。

 

聖書の言葉

父たる者よ。子供を怒らせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。<エフェソの信徒への手紙56

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
生涯の師

 男女の問題は、古今東西を問わず人間の持った性分なのかもしれません。最近では財務省高官のセクハラ問題、有名アイドルグループのメンバーの淫行問題など、世の話題となっています。男性にとって異性と金銭の問題は、身を持ち崩す事柄です。僕が学んだ神学校の学長は、先ず最初の講義として、この問題に触れました。お金の問題はまだ何とかなる手立てはあります。しかし、異性との問題は取り返しがつかない問題になるのです。旧約聖書の中には、このように堕落した人間の姿が赤裸々に語られています。ここまではっきりと、人間の姿を隠すことなく記した書物は他にはないと思います。学長は、このことに厳しく、自らをも戒め、車の助手席には、奥さん以外の女性は乗せないそうです。これらの問題は、意識が異性に向き、その行いが正当なのかどうかの判断が出来ない状況を作ることにあります。

また、地位や名誉、財産を手玉に取り、あたかも自分が中心になってしまう自己中心的思考によるのだと思います。自己中心は、自分を神とする神への背信行為です。

 

 

 僕が学んだ生け花教室の師匠は、「いつになっても自分の師を持ちなさい。」と教えられました。生け花の世界は、階級社会です。いつになっても自分より上の人がいるわけです。その頂点に立つのが家元です。僕たちはどうあがいても、家元より上に立つことはできません。

稽古を重ねて、更に上級の資格を取りたいと思う向上心は悪いではありません。そして自分より上級の人を敬う心を育まれなければなりません。信仰においても同様のことが言えます。牧師が偉いわけではありません。信徒が蔑まされるのでもありません。僕たちは神の前に等しく造られた人なのです。ただ役割と言うものが存在するだけなのです。それは神から与えられた賜物です。神の前には、地位も名誉も財産も何の意味も持ちません。かえってそれらは、信仰の邪魔になることがあります。僕たちは神と人との前に遜り、神を仰ぎつつ信仰の生涯を貫くのです。新約聖書には、イエスのことをラビと呼んだ記事があります。ラビとは、先生と言う意味の言葉です。僕たち信仰者の先生は、イエスであり、イエスこそ僕たちの師なのです。

 

聖書の言葉

神は高ぶる者を退け、遜る者に恵みを給う。<ヤコブの手紙46

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
穴の開いたバケツ

 陽春から初夏の趣のこの頃です。鮮やかな緑の葉に黄色の花をつけたヤマブキが、まばゆく見えます。木々は水を揚げ、芽吹き新緑の美しさを楽しませてくれています。神が造られた命あるものはすべて、水が必要です。水があることへの感謝を捧げます。まさに命の水です。出エジプト記には、モーセが水を求めるイスラエルの民に、岩から水を湧き出させた記録があります。穴の開いたバケツに水を満たすことが出来るでしょうか。このような話がありました。普通に考えたとしたら穴を修理し、修理したバケツに水を汲みます。しかし、修理した個所は弱いもので、長くは持ちません。ここで発想の転換が必要です。穴の開いたままのバケツを、プールに沈めればよいのです。そうすれば、そのままのバケツに水を満たすことが出来ます。

 

 

 穴の開いたバケツの穴は、僕たちの罪です。その罪を修理することはできません。水は神の恵みです。穴の開いたままのバケツに水を汲めば神の恵みは、見る見るうちに穴から抜け落ちてしまいます。ところが、穴の開いたままのバケツをプールに沈めたとすれば、本体に水が満ちるばかりか、穴からも水が入ってくるのです。僕たちは、溢れんばかりの神の恵みの内を歩んでいます。その恵みに感謝しつつ甘んじて受けるべきです。神の恵みは、罪をも覆い赦しへと変えて下さるのです。罪に死んだ僕たちをも生きる者として下さるのです。明日からの新しい週、日に日に神の恵みを受け賛美と祈りとを以て過ごしたいと思います。

 

聖書の言葉

憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪の為に死んでいた私たちをキリストと共に生かし、あなた方の救われたのは、恵みによるのです。<エフェソの信徒への手紙245

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
| 1/45PAGES | >>