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まことの光

 今週は、アドベントクランツの第一のロウソクに火が灯りました。静かに揺らめく炎の中に何か心温まるものを感じました。明日は第二のロウソクに火が灯ります。ロウソクが放つ光が更に明るさを増します。毎日の様に暗いニュースの連続の日々の中で、この時だけは世間の荒波から解き放たれて、心の内に平安が与えられるようです。イエスは、「私は世の光である。」と言われました。クリスマスまで週ごとに光を増してゆくアドベントクランツは、まさにイエスの降誕を予兆しているかの様に思えます。

 今年もすでにロウバイの花が咲き始め、木曽駒ケ岳に雪を頂きました。いよいよ本格的な冬の到来かと感じます。今年も残り少なくなって、クリスマスそして新年を迎える準備をしなければならない時期になってきました。時代とともに、そのあり方も変遷し、あるいは簡略化されてきていますが、日本人として、せめてその意味だけは覚えておきたいと思います。

 

 

 

聖書の言葉

 ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。<ヨハネによる福音書1511

 

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アドベント

 今年も残すところ一ヶ月を切りました。商店街では年末商戦に熱気が入る時期です。今年一年を顧みて、僕の畑は不作続きの連続でしたが、神から日々の糧と命を賜ったことに感謝を捧げます。神の愛と恵みの内に命を賜りながらも、神の言葉に従いたいと思いつつも衝動に駆られ神に背を向けたことも多々あります。それでも神は、立ち返れと愛と恵みを注ぎ続けて下さった。勿体無い話です。いかにして神に報いるべきか思案に暮れます。

 

 

 明日の日曜日から教会暦は、降臨節に入ります。教会の新年の初めの日です。今日はクリスマスを迎えるために、アドベントクランツを作り礼拝堂の献花台に置きました。明日は、教会暦では、降臨節第一主日です。アドベントクランツには、4本のロウソクが立てられます。クリスマスまでの間の日曜日ごとに、ロウソクに火を灯してゆきます。明日は一本目のロウソクに火が灯されます。翌週には2本目のロウソクに火が灯され、クリスマスにはすべてのロウソクに火が灯されるのです。因みにアドベントとは、ギリシャ語で到来を意味する言葉です。言うまでもなく、キリストの到来です。そしてクランツとは、ドイツ語で輪を意味します。世間の慌ただしさ、お祭り騒ぎに心揺さぶらされることなく、週ごとに灯されてゆくロウソクの火にキリストの降誕を思い、心静かにクリスマスを迎えたいと思います。

 

聖書の言葉

 

 エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。
 彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。<旧約聖書イザヤ書1115

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礼拝説教予告

12の礼拝は次の通りです。


どなたでもご出席ください。

                     
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<谷の百合キリスト教会>

日時     12月  17
日() 19時00
          
    
説教     「 キリスト賛歌 
」   

聖書   フィリピの信徒への手紙2章6〜11

 

讃美歌  546、1、95、225、541

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日時 12月    3日()19時00分〜 降臨節第1主日

       12月  10日(10時30分〜 降臨節第2主日   
   12月  17日()19時00分〜 降臨節第3主日

       12月  24日()10時30分〜 降臨節第4主日   
     12月  31日()休会           除夜

 

 

 

 

 




 

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教会の新年・降臨節

 昨日ふと恵那山を見上げると、頂上に冠雪がありました。木曽駒ケ岳も真っ白でした。いよいよ本格的な冬の訪れかと思ったのでした。季節が先走りしているように思います。天気予報を恨めしく思うこの頃の僕の心境です。季節も先走り、ホームセンターに行けば、早くも鏡餅、しめ飾りが売られています。年の瀬が近いことを思い知らされました。

 先走りと言えば、教会暦は、一足早く123日の降臨節第一主日から新年が始まります。教会は、クリスマスの4週間前の日曜日から新年となります。ですから年によって新年の始まる日が異なるのです。因みに明日の教会暦は、終末主日です。降臨節は、クリスマスへの準備の期間と言っても良いと思います。救い主、イエス・キリストの降誕を喜びの心を以て待ち望む期間です。

 イエス・キリストは、強者の権力を無力にする為に、知者の知恵を辱める為に、この世に生まれました。イエス・キリストの誕生の知らせを真っ先に知らされたのは、当時忌嫌われていた職業である羊飼いたちでした。このように、イエス・キリストは、世の中の端に隠れるようにして暮らしている人々、虐げられた人々、悩み苦しみの内にある人々に喜びをもたらすために生まれたのです。まさに、これらの人々が待ち望んでいた救世主の誕生であったのです。僕たちの信じる神は、高ぶる者を退け、謙る者に恵みを給う神です。真のクリスマス、真の救い主を知るため、教会にお出かけください。

 

 

聖書の言葉

マリアの賛歌

そこで、マリアは言った。
 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」<ルカによる福音書14655

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神の言葉

 昨日は浜松へ柿とミカンを買いに出かけてきました。果物好きの僕にとって年中行事の一つです。また1月には、イチゴ狩りに行く予定です。浜松で一緒に行くのは、僕の友人の娘です。生れた時から見てきた子です。あたかも僕の娘のようで、可愛くてたまりません。今回はあいにく風邪を引いてしまっていたため、僕単独となりました。柿とミカンを売っているのは、浜松在住中に一緒の会社に勤めていた方です。当年とって84歳になったそうです。他人ごとではなく、僕も年を重ねました。

 

僕が地元に戻ったのは、勤務していた会社が閉鎖になったことが理由でした。そのまま浜松に残って転職していたとしたら、また別の道を歩んでいたことは間違いありません。当時は、そのことで相当悩みました。自分自身の将来が見えず苦しい思いをもしました。選択肢は2つ。浜松に残るか、地元に帰るかでした。悩み、苦しんだ末、地元に戻ることを選択したのです。しかし、地元に帰還しても良いことばかりではありませんでした。なかなか就職先が決まらず、ハローワークで求人先を紹介してもらっても、年齢を理由に断られるばかりだったのです。いったい僕には何ができるのかと自問自答しました。答えは出ません。技術畑で働いてきた僕には、そして内向的な性格の僕には将来はないとさえ思ったのです。

 

 

聖書の言葉に「神のなさることは、その時にかなって美しい。」と言うものがあります。今苦しみの時にあっても、迷いの時にあっても、神は必ず報いて下さることを確信したのは随分後のことです。聖書は、今も活きて働かれる神の言葉です。これは僕が経験した事実です。神は必ず報いて下さる。この確信をもって、今悩み、苦しみの中にある方々にお勧めします。あきらめず日々、祈りを捧げてください。どんな状況にあっても神への感謝を忘れないでください。自らのあるがままの姿を神にさらけ出して下さい。必ず神は報いて下さいます。

 

聖書の言葉

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。<テサロニケの信徒への手紙第一:51618

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神の愛

 立冬を過ぎ、晩秋から初冬へと季節は移りゆきます。これから年末にかけては慌ただしい日々が続きそうです。と言っても僕自身が慌ただしいのではなく、世間の慌ただしさに乗せられてしまう僕であるのです。今年一年の締めくくりの時期です。その中で神の恵みに感謝を捧げつつ身を制して、為すべきことのみに精進したいと思います。

 

 一般の新年を迎える前に、教会はクリスマスの4週間前から新年に入ります。教会暦では、待降節あるいは降臨節と言います。クリスマスを迎える準備の期間です。一般的にはクリスマスは、1225日だけのことと思われがちですが、16日までがクリスマスの期間です。イエス・キリストが、1225日に生まれたと言うことは聖書66巻のどこにも記されていません。古くからの教会の伝統に従って、1225日をクリスマスと定め祝うのが教会です。

 

 

 イエス・キリストは、僕たち罪人の罪を贖うためにこの世に遣わされました。すべての生涯を人の為に費やし、何一つ自分の為になることは為さらなかったのです。人に仕える人であり、神の独り子でありました。その人生の行き着くところは、神の独り子でありながらも、華々しいものではなく、煌びやかなものでもなく、恥辱に満ちた十字架での死であったのです。このことによって僕たちの罪は赦されました。神がイエスをこの世に遣わされたのは、人を裁くためではなく、誰一人として滅びることなく永遠の命を得させるためであったのです。ここに神の人に対する大きな愛があります。

 しかし僕たちは、この神の愛を忘れ、イエスの十字架の死を忘れ、今もなお罪を重ねています。罪とは、神に背を向けることです。今年もクリスマスを機に、神の恵みと大いなる愛を覚えつつ、僕たちは何をなして神に報いたらよいかを考えたいと思います。

 

聖書の言葉

「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」<マタイによる福音書316

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友と呼ばれ

 雪虫が舞う時期になりました。教会暦も終末に入り年の瀬が近いことを身をもって感じるこの頃です。今月は僕の誕生月です。57歳になります。定年退職までの月日を数えられるようになりました。歳を重ねても、無駄に時間を費やしているように思える自らに少しばかり情けない思いをしています。熟年と言われる歳です。それなりの立ち居振る舞いをしなければならないと自責の念に迫られています。今までの人生のうちに、様々な人との交わりがありました。友を得、また亡くしの繰り返しであったと思います。

 固く結ばれた友情ほど人生を豊かにしてくれるものはないと思います。僕の一番長い付き合いの友人との、友としての関係は37年に及びます。この関係は、死が二人を引き裂くまで続くと思うのです。この間には、良い関係にあった時ばかりではありません。時として中違いをしたこともあります。しかし、この友人との間には堅い信頼があるので、今この時まで、友としての関係が続いているのだと言う確信があります。

 

 
 イエスは、僕たちに、「私はあなたがたを友と呼ぶ」と言われました。イエスに友と呼ばれることは嬉しいことです。自分のことを「この人は私の友です。」と紹介されれば、誰でも嬉しいはずです。その人が、自分のことを特別な関係にある者として見ていると言うことだからです。そして、友と言って下さる方がイエスであれば、尚更、嬉しいに違いありません。僕たちには、この様な感覚があるでしょうか。

 しかし、一方で、この事に、僕たちは少なからず戸惑いを覚えずにはいられません。果たして、イエス・キリストと僕たちの関係は、友情のようなものなのかと言うことです。人間の友情を考えて見ますと、それは非常に曖昧なものです。少し前まで仲良しだったのに、些細なきっかけで仲違いをしてしまうと言うことも生じます。友と言うのは、関係が希薄であるかのように感じます。イエスは、イエス自身に従う者を兄弟とも呼んでいます。今更、友と呼ぶ必要があるのかとの思いもします。僕たちは友と聞くと、気心の知れた、自分と気の合う人との慣れ親しんだ関係を思い浮かべます。そのように考えると、イエスと言う僕たちが主とあがめるべきイエスとの関係が、友情に譬えられると言うのはいかがなものかと思うのです。

 しかし、イエスが信仰者を友と呼ぶ時、一般的に思い浮かべるような友情を意味するのではありません。もっと深い、特別な関係が見つめられているのです。イエスは僕たちを友と呼ばれました。そして、天の父は僕たちを、子よと呼んで下さっています。この慈しみの中を歩む人生は、無駄に時間を費やしているのではなく、神に祝福された豊かな人生に違いありません。

 

聖書の言葉

「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない 私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。 もはや、私はあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。私はあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」<ヨハネによる福音書15章12〜17>

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見ないで信じる

 今月も訳なく終わり、もう11月です。まさに月日の流れは、光陰矢の如しです。自然界の循環は、とどまることなく巡ります。家の庭先では、鉢植えのリンドウの花が満開になりました。野生のものを採ってきたものです。僕が幼いころには、どこにもあったリンドウですが、今に至っては希少種です。この地域では絶滅危惧種かもれません。秋の七草も少なくなりました。自然は病んでいます。その根源は、僕たち人類にあります。その僕たちも現代社会の中で病んでいるのです。健全な心を取り戻すには、神に立ち返るしか方法はないと思います。しかし、そうできる人は少ないのです。神に従うより、自由気ままに、自己中心に生きる方が楽で楽しいからです。神の愛に触れる喜びを一人でも多くの人に伝えたい。これが僕の思いです。

 

 

 神を信じたからと言って、病気が治るわけではありません。苦がなくなるわけではありません。しかし、神を信じた瞬間から、それ以上のものが心のうちに湧き出るのです。僕は神の救いを幾度となく経験してきました。それは苦悩のどん底にあるときでした。僕がそう思っているだけだと思う方もおられるかも知れません。しかし、その救いと思うことによって、僕は立ちなおる方向が見えてきたのです。神がその方向を示してくださったのだと確信しています。それがなければ僕はもしかしたら生ける屍と化していたかもしれません。その後、僕は牧師への道を選びました。それは、僕たちの信じる神の素晴らしさを伝えたいためでした。しかし、厳しい現実です。目に見えるものをも信じられないこの社会の中で、ましてや目に見えない神を信じると言うことは、無理とは言わないにしても困難なことでしょう。イエス・キリストは言いました。「あなたは見たから信じるのか。見ないで信じる者は幸いである。」と。

 

聖書の言葉

それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

<ヨハネによる福音書 20 27

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試練の時

 一昨日も、昨日も、今日も、そして明日も雨模様の毎日。一日も早く日の光を浴びたいと思います。天気予報によると、25日までは雨です。僕の記憶の中で、こんなにも長い期間、雨が降り続けたことはなかったように思います。恵みの雨と言うこともありますが、今回の雨は、台風も伴い災害をもたらす雨になるかもしれません。果樹農家では、台風の害を最小限にするために、収穫を早めたと言うニュースもありました。

 この時期に秋雨前線が出現するのも時期遅しと思います。たいていの場合、9月中旬ごろであった記憶があります。天の法則が歪められてきているのかと思うのです。天の法則が歪められれば、必然的に地の法則も歪められます。僕たち人類には太刀打ちできない神の定められた法則であるのです。その法則を歪めたのは、僕たち人類の責任であります。

 

 

 創世記に記されているノアの洪水は、4040夜続きました。神は地の上の悪を洪水によって一掃されたのです。ちなみに聖書には40と言う数字がここかしこに記されています。

40と言う数字は、聖書においては試練の数字です。マタイによる福音書に記されているイエス・キリストがサタンの試みにあわれたのも40日間でした。

 神は様々な形をとって、僕たちに試練を与えられます。僕たち自身は、それを不運と嘆くか、または神の試練として耐え忍ぶかどちらかです。神の子とされた信仰者である僕たちは、神の試練として受け止めます。獅子は子を千尋の谷に突き落とすと言う言葉があるように、父が子を鍛えるために、試練を与えることはあり得ることです。しかし神は、耐えられないような試練を与えられることはありません。もし、耐えられないと判断されたならば、必ず逃れの道を開いてくださいます。神の試練の後には、必ずそれに見合った祝福があるのです。

決して僕たちを見捨てられることはありません。

 

聖書の言葉

 私たちの負い目を赦してください。

 私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。

 私たちを誘惑に遭わせず、悪いものから救ってください。

 

<マタイによる福音書61213>

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新しい時代

 この先は暫くすっきりしないと言う天気予報です。これからの雨は、一雨ごとに寒さが募ってゆきます。これも神が定められた知の法則、寒さにさえ感謝を以て受け止めたいと思います。しかし、この時期にならなければ出回らないものがあります。僕にとっては嬉しい限りのことですが、スーパーの店頭には、ありとあらゆる秋の果物が並んでいます。果物好きの僕にとっては、たまらない時期の訪れです。収穫の秋に感謝を捧げます。

 

 衆議院が解散し、街頭では選挙の街宣車が熱弁を奮っています。どうして今の時期に解散なのかと疑問を持たれた国民が多いようですが、僕もその一人です。解散すると党派の分裂、聞いたこともない党派が出現。真剣に、この国の将来を考えている議員がどれだけいるのだろうと疑問を持たざるを得ません。国民に負担を求めるより、自らの姿勢を正せと言いたい気分です。権力争いは、今の時代に始まったことではありません。古今東西、古の昔から続いている人の世の定めとでも言うのでしょうか。

 

 

 僕が幼かったころ、漫才師が「地位も名誉もいらないが、わたしゃもう少し背が欲しい。」と言って茶の間をわかせたものです。僕も地位にも名誉にも価値を感じません。選挙の時は熱弁を奮いながら、当選すると手に平を返した様に、あたかも特権を得たかの様に振る舞うのが、議員の正体であるかの様に冷めた目で見ている僕です。党派同士で重箱の隅をつつく様な演説は聞きたくありません。これではこの国の将来はないと思います。次々と変わる政権より、安定した長期政権を求めます。議員は、国民あっての議員であるということを認識すべきです。この国の議員は国民の代表として、国民に仕えるべきであるのです。

 

 イエス・キリストは、神の身分でありながら、自らのためには何一つ良きことをなされませんでした。生涯の全てを通して謙り、世の中から弾き出された人々、世の中の底辺に身を隠すかのようにして暮らしている人々、虐げられた人々のために働かれました。トップリーダーの時代は終焉を迎えています。これからの時代に求められるのは、サーバントリーダーです。22日には新しい政権の見通しがつきます。いわば新しく始まるこの国の時代を支えてくれる党派が政権をとることができるでしょうか。

 

聖書の言葉

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。<フィリピの信徒への手紙268

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