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親失格

 2月も半ば、時は巡り巡って春が目に見える形になってきました。厳しい冬を辛抱し待ちに待った春の訪れを身を以て感じています。本格的な春には程遠いものの、小さな春に気を良くしている最近の僕です。

 最近のニュースで毎日のようにマスコミが取り上げているのが、千葉で起きた少女虐待による少女の死亡事件です。生きとし生けるものには必ず死が伴います。しかし、親によって命が奪われるなどと言うことはあってはならないことです。将来ある子供の命を親が奪ってしまった。それも虐待と言う形です。少女は助けを求めていました。そのことに真摯に取り組むことが出来なかったことにも問題はあります。命の尊厳が軽視されているように思えるこの時世、今一度、命あることの意味を考え直さなければならないのでしょうか。僕は日々、日ごとに神から賜る命に感謝を捧げています。虐待をする親は、親と言う資格はありません。しかし、子供は親を選ぶことが出来ないのです。虐待をする親は、自らの幼少期に、その親から虐待を受けていたことが多分にあります。また、親の愛情を受けることなく成長したため、愛情の表現が出来ないのです。聖書は教えています。「父たる者よ。子供につらく当たってはならない。」と。また、家庭のあり方についての教えをもしたためています。聖書は、今も生きて働かれる神の言葉です。物語ではありません。信仰と生活との誤りのない規範です。しかし、聖書の教えに従うことが出来ないのが人です。それは、自己中心的な考えが心の内に存在し、聖書の言葉をくもらせているからです。神の前に正しい人は誰一人としてありません。常に価値観が変遷する今の時代の中で、幼い時からの心の教育が必要ではないかと僕は考えています。

 

 

 

聖書の言葉

父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。<エペソの信徒への手紙6章4節>

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御業の確信

 今年は暖冬の影響を随分受けているようです。雪が少ないことはもとより、梅の花が早くも咲き始めました。あまり早く咲くと、この後に来る寒波によって花が傷み、実が実らないことがあります。咲き急がないようにと梅に語りかけている僕です。諺にも急いては事を仕損じると言う言葉があります。まさにその通りだと思います。立春は過ぎましたが、早春賦に歌われている通り、まだまだ寒い日が続きます。冬は生きる者にとって試練の時なのかもしれません。しかし、この時期を堪えて辛抱すれば必ず春はやって来ます。これは天地創造の時から繰り返されてきた天の法則です。人知の及ぶところではありません。春の訪れを待つ心は、古今東西を問わず変わらないと思います。16日でクリスマスの期間は終わりました。教会暦は受難節、そして復活祭に向かっています。僕はクリスマスよりも復活祭の方が心にしっくりきます。キリストの復活がなかったら、キリスト教は成り立ちません。聖書もあり得ません。あるとすれば歴史上にイエスと言う人がいて奇蹟を行い、多くの人に癒しと救いを与えたと語り継がれるだけになってしまいます。聖書に記されていることで未だ実現していないのが、キリストの再臨です。イエス・キリストが再びこの世に来られると言うことです。それはいつかは誰にもわかりません。初代教会の人々は、キリストの復活、そして昇天の後、すぐにも再臨があると信じていました。それから既に2000年の時を経ます。聖書を、今も生きて働かれる神の言葉として信じ受け止める時、再臨はただの希望的物語ではなくなるのです。日々、聖書に親しみ神の救いの御業を確信したいと思います。

 

 

聖書の言葉

地の続く限り、種まきも刈り入れも寒さ暑さも、夏も冬も昼も夜も、やむことはない。<創世記822

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豊かさの裏側

 今週、当地ではこの冬一番の積雪になりました。とは言っても暖冬のこと、3僂曚匹寮兩磴任靴拭E日にはほとんどの雪は融けてしまいました。僕が幼かった頃には、雪はもちろんのこと、霜柱があちらこちらに見受けられました。いずれの日か、霜柱と言う言葉も死語になってしまうかもしれません。これも地球温暖化の影響だと思います。地球温暖化は世界的に深刻な問題です。天地創造をされ森羅万象を完成された神が、その後最初に創造されたのは人でありました。それも神のかたちに似せて創造されました。その人が地球に異変をもたらせているのです。少なからず僕もその一人です。人の知恵は留まるところを知りません。その恩恵に与ることは生活を豊かにし、便利な暮らしが出来るようになります。僕たちは既にその恩恵に与っているのです。神が定められた地の法則は、人によって歪められています。しかし天の法則までは人知の及ぶところではないと思います。

 

 

 

 明日は節分。恵方巻きを食べる人も随分いること思います。無病息災や家内安全などを願うのは人の心理だと思います。僕はそのいわれがどうあれ、恵方巻きを食べたいと思っています。近年では早春の風物詩になったようです。翌日は立春。とは言えまだ暫くは“春は名のみの”と早春賦の歌に歌われた通りの日を重ねる時期です。インフルエンザが猛威を振るっているこの時期、特に体に配慮をしつつ日々を重ねてゆきたいと思います。

 

聖書の言葉

口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである<マタイによる福音書1511

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明日を生きる力

 先週は名古屋から梅の開花の知らせがありました。今週は当地でも梅がちらほらと咲き始めています。目に見える春の形に気分を良くしているこの頃の僕です。時は巡り待ちに待った春の訪れです。忍耐して極寒の冬を耐え忍び、日の光がさんさんと降り注ぐ春を待つことは切なる希望です。本格的な春は、僕の経験的には東大寺のお水取りの頃の様です。時は必ず訪れます。その時まで忍耐して待つことが出来るかどうかが問題です。この世に生を受けうるにも、また天に召されるにも必ず時があります。イエス・キリストは言われました。「私は再び来る。」と。教会はその日を待ち望んでいます。初代教会の人々は、イエス・キリストが復活の後、昇天されたイエス・キリストがすぐにも再びこの世に来られると考えていました。しかし、その希望は成就しませんでした。その時から既に2000年余の時が過ぎています。今を生きる僕たちは、イエス・キリストの再臨の日に一番近い時を生きているのです。そのことを思う時、それは単なる希望ではなく、喜びであり明日を生きる力となるのです。再臨の日に備え、日々祈りと節制を積み重ねてゆきたいと思います。

 

 

聖書の言葉

見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。<ヨハネの黙示録221213

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命の躍動

 名古屋の街からは、梅の花の開花の便りがありました。これから節分までの間が一番寒いと思う大寒です。節分の翌日が立春、あと2週間ほどです。寒さの中にあっても、その背後では、春を待つ準備をしている小さな命があるのです。日暮れ時刻は、日に日に伸びています。陽の光も心なしか強くなってきたように感じています。これからの時期、僕は春を捜して野山を見て回るのが恒例です。

命が躍動する春の訪れも、もうそう遠くはありません。命は神から賜ったものです。報道によると自殺者の数が、9年連続して減少しているそうです。それでも自殺者は絶えることはないと思います。自殺は神への背信行為です。わかりやすく言えば罪です。神が与えてくださったものを、人が自ら断つことはできません。神がこの世での生活を解いて下さるまで生きなければなりません。この世での生活は、良いことばかりではありません。辛いこと、悲しいことを経験しながら重ねる日々の連続です。しかし、悪いことばかりでもありません。どのような境遇にあろうとも、神に祝福された日々であることには疑う余地はありません。聖書は教えています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。」と。祈りは神との対話の時です。神は寡黙な方です。僕たちの祈りを聞いて下さり、慰めと励ましを与えてくださいます。明日から始まる新しい週に、神の祝福を求めながら信仰の歩みを進めてゆきたいと思います。

 

 

 

聖書の言葉

 

私は裸で母の胎を出た。

また、裸でかしこに帰ろう。

主が与え、主がとられたのだ。

主の聖名はほむべきかな。

<旧約聖書ヨブ記221

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招きに応える

 寒さの中にあっても、時々夜空を見に外に出てみる日があります。今の時期は、オリオン座が際立って見えます。言葉によって、無から有を創造された神の恵みに思いを寄せ、闇に照らし出される星々の瞬きは、天地創造の時から変わっていないのだろうと思い、自らの存在の小さなことを実感しています。小さくてもいい。僕はそう思っています。大きくなろうとは思わないのです。大きくなると必ず、自分がと言う自尊心が生まれます。神が一番嫌われることです。自分がと言う心の人は、自らをあたかも神のように思っているのです。何がそうさせるのでしょうか。社会的な地位でしょうか。或いは財産でしょうか。僕が知るある団体の会長は、新入社員と同じエレベーターになった時、その新入社員を人払いさせました。なんとも情けない話です。イエス・キリストは、社会の底辺にへばりつく様に生きている人々に、虐げられた人々に寄り添われました。神の身分でありながら、自らを低くし、それも十字架に掛けられると言う屈辱的な死に至るまで謙遜を守り通されました。そして、重荷を負って苦しんでいる者は、私の下に来なさい。私があなた方を休ませてあげようと招いておられるのです。教会に集う人々は、イエス・キリストのその言葉に招かれているのです。

そして神の言葉を聞き、祝福を携えて教会をあとにし、日々生きる力を神から頂くのです。僕がこの世にある限り、神の栄光と慈しみを語り続けてゆきたいと思うのです。

 

 

 

讃美歌266番 

 

輝く日を仰ぐとき 
月星(つきほし)(なが)むるとき
(いかずち)鳴り渡るとき 
まことの御神(みかみ)を思う
 

我が魂(たま) いざたたえよ
 聖なる御神を
 我が魂 いざたたえよ
 聖なる御神を

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主の2019年

 クリスマスの内に穏やかな新年を迎えました。このクリスマスも明日の顕現日を以て終わります。新年を迎え、今年こそ、今年も、今年はと思いを馳せた方も多いことだろうと思います。受験生は正月を祝うどころの気分ではなかったのかもしれせん。今までの勉学が実を結ぶことを祈ります。名古屋の東山動物園では、木から落ちないコアラの糞を混ぜたお札を作り500名に配布したそうです。御利益があるかどうかは未知数です。キリスト教ではこのようなことを偶像礼拝と言います。僕も神を知る前のことですが、高校の合格祈願に神社へお参りに行ったことがあります。切羽詰まると頼れるものには身を寄せすがりたくなるのが人情と言うものかもしれません。新たなる年度が神の祝福の内にあることを祈ります。

 

 

 

 毎年、年末になると僕の為にバラの花を届けてくださる方があります。感謝の一言に尽きます。自分のためにと思う気持ちは誰にでもあります。しかし、人のことを思って何かをしてあげようとする人は極まれなことだと思います。聖書は教えています。“自分にして欲しいと思うことは、人にもそのように施しなさい。”と。しかし、この教えも現実的にはなかなかできるものではありません。あたかも自分が損をするような気になるからです。自己中心的な思考です。しかし、神は僕たちのこのような心の弱さをことごとく知っておられ、心の奥を深く探り知られています。それにも関わらずこのような僕たちに、キリストを信じるが故に赦しを与えてくださいます。今年も神の多くの赦しの中で、その恩恵に与り神を讃え神に仕える日々を重ねてゆきたいと思います。

 

聖書の言葉

 主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼を張って昇ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。<イザヤ書402831

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愛の光

 今年も残すところ2日なりました。世間ではクリスマスのお祭り騒ぎが終息し、新年を迎える準備があちらこちらに見受けられるようになりました。教会はクリスマスの内に新年を迎えます。1225日で終わったように見えるクリスマスですが、教会のクリスマスの期間は、16日まで続きます。人類にもたらされたクリスマスの恵みを受けつつ、新年を迎えます。罪の深淵に淵に佇んでいた人々に、光がもたらされたのです。キリストの光は暗闇を照らし出し、人類の罪をあからさまにして光に向かって歩む希望を与えるのです。キリストは世の光であり、自由を与える力を持っています。律法に縛りつけられていた生活に終焉を与え、自由を与えるのです。キリストは、律法を完成させるためにこの世に遣わされました。その生涯は神の子でありながら謙り、世の中から弾かれた人々に寄り添い、死にいたるまで神に忠実でありました。その上、何一つとして罪を犯すことはありませんでした。これが救い主、イエス・キリストの姿です。クリスマスを一過性のお祭りで終わらせることなく、このクリスマスの期間に自らを省み、キリストに倣い謙遜を身に着けてゆきたいと思います。

 

 

マリアの賛歌

 

わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

身分の低い、この主のはしためにも
目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も
わたしを幸いな者と言うでしょう、

力ある方が、
わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。

主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。

その僕イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。

<ルカによる福音書 14755

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人を幸せにする

 今週は、かねてより楽しみにしていたフォレスタコンサートに出かけてきました。いつものように会場は満席です。来場者のほとんどは高齢の方々で、僕はどちらかと言うと若い部類に入ります。声楽家の歌う歌は聞きごたえがあります。フォレスタを知ってから8年ほどになります。YOU TUBEでその歌声を知ったのが事の初めです。その歌声の美しさに魅了されました。その後、年に1回の楽しみとしてコンサートがあるごとに出かけています。趣味と言えばその一言に尽きますが、人を幸せな気分にしてくれる仕事は尊いものがあると思います。十把一からげにして芸人と言う職業の方々は、人を楽しませてなんぼと言うところがあります。僕の趣味の生け花もそうですが、その作品を見て美しいと言う感情を引き出すことには、相当の稽古と熟練が必要です。このことは人間関係にも譬えることが出来ると思います。人を不愉快にするようなことは訳のないことです。しかし、人との関係において、相手に癒しと安らぎを与えると言うことは誰にでもできることではありません。僕たちは誰でも、人との関係において争いを好むことはあり得ません。和を以て貴しとなすと言う言葉があるように、互いに親愛の心を以て接したいと願うものです。聖書は教えています。「兄弟たち、私たちは互いに愛し合おうではないか。」と。この世の中で愛に勝るものはありません。しかし、それが出来ないのが人の性分です。自分が一番、こういう思いが心の底にうごめいているのです。まもなくクリスマスを迎えます。神の子でありながら人の形をとってこの世に生まれたイエス・キリストを心の内に受け入れる時、心の内に平安と人に対する慈しみが湧き出るのです。殺伐とした社会の中で乾ききった心の内が、命の水によって潤されるのです。

 

 

 今回のフォレスタコンサートでは、メジャーデビューしたCDを購入した方々に対して握手会があると案内があったので、この時とばかりCDを買い、握手会に参加してきました。12名ほどのフォレスタの声楽家たちが、握手するひとりひとりに声をかけてくれました。フォレスタが一層身近な存在となった幸福な一日でした。僕の教会もこのようでありたいと切に願っています。

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大いなる恵み

 早くもロウバイの咲く時期になりました。時折漂う芳しいロウバイの香りに、この寒さの中にあっても何か優しいものを感じています。今年もあと2週間ほどを残すだけになりました。今年一年を振り返る時、様々な出来事がありましたが、決して良いことばかりではありませんでした。しかし、その時々に神から賜った恵みを感じぜずにはいられません。日々、罪意識の中にあっても、それを赦して下さる神の恵みを受け、その赦しの中に命を繋ぐことが出来たことは何にも勝る神の愛です。もし罪が赦されないとしたら、牧師と言う立場から、神の裁きは何にもまして大きなものがあると思います。

 

 

 祈りが叶わないこともあります。しかしそれも神の恵みです。神は必要な分を必要なだけ与えてくださる方だからです。聖書は、「私の恵みはあなたに十分である」と教えています。神への感謝を思い起こせば、言葉が足りません。まもなくクリスマスを迎えます。この出来事は、個人にではなく人類にとって神からの最高の恵みです。クリスマスをうかれて喜ぶのではなく、クリスマスのまことの意味をとらえつつ、心静かにクリスマスを迎えたいと思います。

 

聖書の言葉

神は、独り子を世に遣わすほどにこの世を愛された。それは、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠の命を得るためである。<ヨハネによる福音書317

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