<< February 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 >>

受難節に入る

 今週は早くも、九州・北陸で春一番が観測されたと言うニュースがありました。未だ春と言う実感のない時期に、春と言う言葉は心を温めてくれるようです。2月も半ばを過ぎ、もう少しの辛抱だと思っています。辛抱と言っても、体は寒さに慣れてきています。僕は寒さの中にあっても、車を運転する時に車内にヒーターを入れることはしません。眠気がさしてくるからです。逆に夏にも、余程のことがない限りクーラーを入れることをしません。窓からの風で十分だからです。どちらも省エネに少なからず付与出来ているのかと思っています。先ごろ、昔ながらのネジ巻き式の柱時計を手に入れました。何十年前の物か定かではありませんが、時を正確に刻んでいます。毎正時には鐘が鳴ります。振り子が揺れ動く度に聞こえてくるカチカチと言う音に時が刻まれていることを身をもって実感しています。僕の家にも、かつてはありましたが、その時代を思い起こし懐かしい思いに浸っています。

 

 

 

教会暦は明日の日曜日から、受難節に入ります。キリストの受難を覚える期間です。このクライマックスは復活祭です。今年の復活祭は41日になります。受難節は復活祭までの46日間です。日曜日を抜かしますと40日間となります。そのような40日間に入り、最初の主日に与えられているのが、イエスが40日間、荒野で断食したと言う話です。その荒野においてイエスがサタンから誘惑を受けられました。この受難節において、まず僕たちに語りかけられているテーマは「誘惑」についてです。ここにいる僕たちは、誰一人として「誘惑」と無関係な人はいないはずです。自分自身を省みながら、聖書の言葉にしっかりと耳を傾けたいと思います。因みに40と言う数字は、聖書においては試練を表す数字です。40年間荒野をモーセに率いられたイスラエルの民も、この期間は試練の時でありました。また、神が与えられると言う約束の地への探索の日数は、40日でありました。聖書には、40と言う数字が各所に出てきます。この受難節の期間、キリストの味わった十字架への苦難を思い、身を正して日を重ねてゆきたいと思います。

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
希望に向かって

 厳寒の昨今、そんな中で一昨日、名古屋で梅の開花があったと報じられていました。あたたかな知らせです。身近を見渡してみれば、花壇に植えたチューリップが芽を出しています。

遠かった春の訪れは、もう身近なところに迫って来ているようです。あとひと月もすれば光がさんざめく春になると、その日を待ち望んでいます。待つと言う事は忍耐のいることです。

この寒い時期も、人に与えられた忍耐の時、試練の時かもしれません。これに打ち勝つ者は、希望を得るのです。この時期どのように過ごしても、誰にも同じように春は訪れます。しかし、忍耐と試練の時を堪えて迎える春には、希望と大きな喜びがあるのです。

 

 

 聖書は、ローマの信徒への手紙の中で、「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。 
それは患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」と教えています。

患難、忍耐、練られた品性、希望、失望に終わらない希望、物事は、時間も掛けず、簡単には、出来ないことを、この聖書の言葉は、僕たちに教えているのです。何事も、積み重ねと継続によって完成し、良い結果が出るのです。ローマは一日にて成らずなのです。物事は、段階を踏み、時間を掛け積み上げることで出来上がるのです。

    

忍耐をせざる得ない試練を逆手にとって、自分自身の殻を破って脱皮し、大きく変わるチャンスにする力となってくださるのが、イエスなのです。その試練の中を、目標の実現を信じて、コツコツとその歩みを、忍耐強く、繰り返し継続していると、今までの自分から脱皮し一皮むけた、逞しく、洗練された新しい自分に成長するのです。

 

 聖書の言葉

 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼を張って上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。<旧約聖書イザヤ書4031

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
神を仰ぐ

 厳冬の中にあっても、今日は節分、明日は立春です。立春と言いながらも、来週にはまた強烈な寒波がやって来ると言う天気予報。しかし、春はそう遠くはありません。今週は、皆既月食がありました。運よく見ることが出来ました。天文や気象に関することは、人知の及ぶところではありません。月食を見ながら、森羅万象を完成された神に思いを寄せた僕です。壮大な神の御業の中にありながら、僕たちは神を見上げないで、自らの足元だけを見ているような気がします。

そのために苦労を重ねながら、重箱の隅を楊枝でつつく様な日々を送っているのです。信仰を与えられながらも、与えられた神のことを忘れてしまっているが故に神の救いの御業をも空しいものと化してしまいます。そして自分の人生をも空しくしてしまっているのです。神によって選ばれ、信仰を与えられたものとしての歩みは、神と共に歩む歩みです。苦悩の中にあっても決して神は僕たちを見捨てられることはありません。生きるにしても、死ぬにしても僕たちの体は、僕たちのものではなく神のものであると聖書は教えています。全てのものを無から想像された方、神に心を開き、聖霊の導きによって歩む人生は、この上ない祝福を受けているのです。

 

 

自らの力によって生きようとする時、その先は行き詰まりが待ち受けています。これはサタンの願うところです。折を得ても得なくても、全てを神の御手に委ねる人生には、サタンの入り込む余地はありません。自分の足元を見つめながら歩む人生から、神の約束された未来への壮大な約束を確信する歩みへと方向転換する時はすでに到来しています。神の指し示された道を、神を仰ぎながら歩む人生でありたいと思います。

 

ハイデルベルグ信仰問答

問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。

 

答え わたしがわたし自身のものではなく、 体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ 、髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。そうしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜びまたそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。

 

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
大切なもの

 この冬一番の寒波の訪れに、当地も10僂曚匹寮兩磴ありました。カマキリが低いところに卵を産みつける年は、雪が少ないと言われています。昨年、家のエアコンの室外機にカマキリの卵を見つけました。そう言われてみれば、この冬は雪が少ないのかと思い少しばかりうれしい気分でいました。確かに今年は今のところ、降雪は少ない年です。同じ県内でも北部では2m近くの積雪のあった地域もあります。僕の住んでいる町は、何と言って際立つものはありませんが、災害も少ない、住んでいて特に困ることもなく、言ってみれば住みよい土地柄であるかもしれません。

 このような町ですが、2027年のリニア新幹線開業の際には、リニア新幹線の駅が出来ます。既にそのための工事が進められています。10年後には、どのように変遷しているか想像すらできません。

 

 

人の世は、常に変わってゆくものです。それがすべて僕たちの生活にとって、益になるものばかりだとは限りません。物資が豊かになり、所得も増えて、経済が活性化される社会の中では、おおよそ人の心はすさんで、お金第一主義になりかねません。現代の社会を見てもそうです。一番大切なものは何かと問われたとしたら、8割方の人がお金と答えることでしょう。この世はすべてお金。お金で世の中が動いている、確かにお金は価値があり、魅力的なものです。しかし、お金の虜になってはなりません。

 僕の生け花の師匠は、「お金を追ってはいけません。お金を追うと必ず、お金に追われることになります。」と教えてくれました。僕はこの言葉を、師匠に教わった生け花の技術よりも大切にしています。今思うと、良い師匠に弟子入りできたことに感謝しています。

 1月もあとわずか、2月はあっと言う間に過ぎてしまいます。この寒さの中にあっても、どこかで春への準備を進めている自然の営みがあるはずです。今日の天気は晴れ。冬の日差しの暖かさに心地よさを感じている僕です。

 

聖書の言葉

いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。<コリントの信徒への手紙第一1313

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
実るほど頭を垂れる稲穂かな

 年が明けてからすでに3週間を経ようとしています。この日々を顧みて思うことは、相も変わらず事件、事故が多いことです。年が変わって、今年こそ、今年も、今年は、と心に銘じたことが誰にもあることと思います。しかしながら、人の心は移ろいやすく、時の経過とともにその思いも薄れてゆくのが常の様です。そんな中で、受験生は今が正念場です。おそらく初詣に行き、合格祈願をされたのではないかと思います。僕は、しがみついてでも目標を達成しようとしている若者たちを応援したい。そしてその若者たちに、この国の将来を託したいと思うのです。

 まもなくピョンチャンオリンピックが開催されます。選手として選ばれるための努力は、並大抵のものではなかったと思います。持った素質と育った環境も否定はできません。オリンピックに出場するからには、金メダルと獲得したいと思うのは、人心です。ただ、マスコミは、何個の金メダルと獲得したかに偏った傾向にあります。出場して、競技をして、その結果がどうあれ、僕は価値のあることだと思います。

 

 

 

 人の人生にも、勝ち負けの価値観を持つ傾向にあります。社会的な地位、名誉、資産などによって、人が振り分けられるのです。そして人は誰も、このようなものを求めるのです。

 そこに、心の内に悪しき思いが芽吹くことも多々あり得ることです。社会的地位の高い者は、あたかも自らが偉いような者と勘違いをしがちです。実るほど頭が下がる稲穂かなと言うことわざがあります。この言葉の本来の意味を取り違えているのです。実るほど頭を垂れる稲穂かなと言うことわざは、稲穂が成長して実をつける量が多くなればその分頭を垂れると言う意味になるので、成長しきって立派に実をつけたことで、下の方へ頭が下がった稲穂の姿を見て立派な人や人格者程、腰が低く他の人に対して謙虚な姿勢で接する。と言うことです。イエス・キリストは、神の子でありながら、自らの身を底の底まで低くし、最後には恥辱に満ちた十字架の上で死なれました。そして天に上げられ、今は父なる神の右に座しておられるのです。例え貧しく、地位や名誉などなくても、謙虚に、そして天を見上げ生きること、これほど美しい生き方はないと思います。

 

聖書の言葉

 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。<フィリピの信徒への手紙2611

 

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
命の言葉

 今週はこの冬2回目の雪が里に降りてきました。冬には付き物の雪ですが、降らなければ困ると言う一面もありますが、車を運転する者にとっては、厄介なものです。この厳寒の時期にあっても、『冬着たりなば、春遠からじ』と言う言葉に励まされつつ、日々を耐え忍ぶこの頃の僕です。今年は、僕が牧師として立てられて、8年目に入ります。少しばかりマンネリ化してきた牧師業に活を入れようと、過去に学んだ事柄の復習を始めました。聖書の世界には奥の深いものがあります。僕が聖書を手にしたのは、18歳の時でした。聖書を開いて最初に感動したのは、すべての漢字に仮名がふってあることです。当時は、口語訳聖書と言うものが主流でした。その短冊には、『神の言葉、すべての人に開かれて』と記されていたことを記憶しています。すべての人に開かれる聖書は、すべての人が読めなくてはなりません。すべての漢字に仮名がふってあれば、小学生でも読むことが出来ます。これ以上、優しい本は他に類をみないと思います。

 

 

 聖書には66巻の書物が収められています。旧約聖書の創世記の天地創造の記事に始まり、

新約聖書のヨハネの黙示録に記された、神の国の完成の記事で終わっています。初めから、終わりまで一貫しているのです。永遠のベストセラーとも言われる聖書を、より多くの人が手にし読んで頂きたいと思います。読んだ人の心の内に、刻み込まれる言葉が必ずあります。

それが、霊的な糧となって人生を豊かにしてくれるのです。聖書に触れたことによって人生観が変わったと言う人も少なくはありません。僕もその一人です。知るは楽しみなりと言う言葉があります。まさにその通りです。

 また聖書は、今も生きて働かれる神の言葉です。人の生きざまを赤裸々に記した書物も収められています。そして、慰めとなる言葉、励ましとなる言葉も数多くあります。聖書の言葉に心を惹かれたとしたら、それは神が働かれ信仰への道を切り開いて下さっているのです。信仰とは、僕たちを導く杖なのです。

 

聖書の言葉

主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をはって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。<イザヤ書402831

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます。私は心優しく、へりくだっているから、あなたがたも私のくびきを負って、私から学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです。<マタイによる福音書112830

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
信じますか?

 先週ブログに記した河内屋のおばさんを天に送ってから早や一週間が過ぎました。その間には、大晦日あり、元旦ありとあっという間に過ぎた一週間でした。今後の河内屋のおばさんのことは、天の父におまかせすることにします。

 新しい年が始まり一週間、正月気分も薄れゆく時期になりました。花屋にはそろそろ春の花が並び始めるころです。後2か月もすれば春の気配が目に見えてきます。今この時期は、忍耐の時、今暫くの辛抱です。昨日は小寒、寒に入りました。まだ大寒が控えています。この時期を耐えなければ、光さんざめく春は来ません。

 

 

 

因みに、今日16日は、イエス・キリストの公現日です。今日を以てクリスマスの期間は終わりです。僕は個人的に、クリスマスよりイースターの方が好きです。これは好き嫌いの問題ではありませんが、キリストの復活がなかったら今のキリスト教はあり得ません。キリスト教とは、復活信仰です。

クリスマスは知る人ぞ知る年中行事となっていますが、イースターは陰に隠れている存在の様です。イエス・キリストの誕生日がクリスマスであることは誰もが知ることです。そして十字架にかけられて死んだことまでは知られています。しかし、その後のことがあるのです。イエス・キリストは、十字架にかけられて死んだ後、三日目に甦ったのです。甦るとは、更に生きると書きます。このことを記念するのがイースター(復活祭)です。そして僕たちにも復活と永遠の命が約束されているのです。僕たちも一度は死ななければなりません。しかし、その向こうに約束されたことに望みを置き、困難なことがあろうとも生きてゆくことが出来るのです。

 

聖書の言葉

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」<ヨハネによる福音書11252

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
最後の一日

 今夜の月は、大きな輪に囲まれています。天気が変わる予兆です。天気予報も明日の天気は雨模様。今年最後の一日です。天気はどうあれ価値ある一日を過ごしたいと思っています。

この一年を振り返ってみるとき、何と月日の流れは早いものだったのだろうと思うのです。

その早さに着いて行けなかった気がします。そして神への懺悔の日々でありました。しかし神は、この罪深き者さえも顧みて下さり、日々の糧と命を与えてくださいました。感謝の一言では、言い表すことが出来ないものがあります。新しく始まる2018年も僕の生活スタイルは変わらないと思います。日々、祈りと喜びを携えて生きることが出来るように努めたいと思います。

 

 

 昨日僕は、子供のころから親交のあった方の葬儀を執り行いました。我が家での通称は、「河内屋のおばさん」でした。奇しくも誕生日が同じ1112日でした。このおばさんの87年の生涯を思うとき、感慨深いものがこみあげてきます。独居老人となり、2年前から施設入所の生活が始まりました。僕が施設を訪問するときは、いつも週報を持参でした。「今日は、週報をもってきてくれた?」と、僕が持って行った週報をまじまじと見つめておられる姿が目に浮かびます。教会に行くことが出来ないので、週報だけが河内屋のおばさんの信仰の拠り所であったのだと思うのです。

 最後に言葉を交わしたのは、亡くなる1日前の夕方でした。病床の中で、蚊の鳴く様な声で「お祈り」と言われたのです。僕のつたない祈りに声を合わせて「アーメン」と言ってくださいました。牧師の子として生まれ信仰の生涯を終えられ、今は神の御懐の内にあることを確信しています。河内屋のおばさんのこれからの人生に、神の賜る平安があることを祈り願っています。

 

聖書の言葉

イエスは言われた。「私は、甦りです。命です。私を信じる者は、死んでも生きるのです。

また、生きていて私を信じる者は、決して死ぬことはありません。このことを信じますか。」<ヨハネによる福音書112526

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
救い主の誕生

 

 明日の日曜日は、降臨節第4主日です。降臨節の最後の主日となります。いよいよクリスマスを迎えることになります。心静かに穏やかにクリスマスを迎えたいと思う僕です。降臨節は、神の御子が人となってこの世に来てくださった第一の到来を覚えることと、もう一つは、世の終わりの日に、天におられる御子が再び来られる第二の到来を待ち望む時です。ちなみにクリスマスの期間は、16日の顕現日まで続きます。

 

 クリスマスとは、神の御子が、僕達の救いのために、低くへりくだられて、まことの人となって下さり、生まれたことを覚える時です。神の御子は、神の身分でありながら自分を無にして、人間と同じになられました。ベツレヘムの馬小屋で、とても貧しいところで、無力な、小さな赤ちゃんとして生れたのです。救い主が生まれになるために、特別なものが用意されているのではありません。母のマリアがお産をするための小さな部屋すらなかったのです。生まれたての御子を寝かせる揺り籠もありません。みすぼらしい馬小屋で生まれ、飼い葉桶の中に寝かされたのです。   
 神に逆らい、神を神としない、罪が満ちた世の中には、この方を受け入れる場所がどこにもなかったのです。しかし御子は、その世の只中に、まことの人となって、すべての人を救うために来られたのです。

 クリスマスはお祭り騒ぎではありません。真の神と向かい合い、救い主が世に来られたことを深く心に刻み付け、自らの姿を見つめなおしてみたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

聖書の言葉

 イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼はおのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである。」<マタイによる福音書11821

 

 

 

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
神の中の神

今週は、とうとう雪が里にまでやって来ました。12月も半ば、それ相当の時期になったのだと思います。世の中は、これから先が本格的に慌ただしい日々の連続になります。今年は、いつになく早く年賀状の支度が出来ました。後はクリスマスを迎え、そして新年を迎えることになります。整理して考えれば、僕自身はそんなに慌ただしいことはありません。マスコミや世間の賑わいに乗せられているだけだと冷静に考えています。

今年一年を振り返り、今年も神の恵みの内につつがなくクリスマスと新年を迎えることが出来ることに感謝を捧げます。何よりも日々の糧を賜り、罪あるこの身にさえも日々の命を賜ったことは、言葉に言い表すことのできない感謝です。これを当然のことと考えることは僕には出来ません。今年もこれが神の救いかと思わされることが何度かありました。僕たちの信じる神は、神の中の神、今も活きて働かれる神であることを改めて思い知らされた感覚です。神の御名を高らかに褒め称えます。

 

 

 

僕たちの信じる神は、御利益を与えられる神ではありません。時に苦をも与えられる神です。苦が大きければ大きいほど、神への祈りは篤いものになります。神は、「私は決してあなた方を見捨てない。」と約束されました。そして神は、僕たちを招いておられるのです。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、私の下に来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」と。僕は一人でも多くの人が救われることを願っています。それは神の願うことでもあります。神がイエス・キリストをこの世に遣わされたのは、イエスを信じる者が一人として滅びることなく永遠の命を得るためであると聖書は教えています。

 まもなくクリスマスです。イエスがこの世に生まれたことに思いを馳せ、イエスを真の救い主と告白することが出来るように、神がすべての人の心に臨まれることを願っています。

 

聖書の言葉

平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。<エフェソの信徒への手紙62324

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
| 1/42PAGES | >>