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勝利の主

 染井吉野の花びらが風に舞う風景は、なんとも美しいものだと思います。今日はそんな光景を目にしました。まさに花吹雪です。染井吉野に代わり、今は山桜が満開となっています。染井吉野ほどの雅やかさはないにしても、その清楚な姿に心を奪われます。家の庭先に置いた椿の鉢に、今年は花が咲きました。実生の椿を山採りしてきたものです。園芸種の実生だと思います。椿と言えば赤い花をイメージしますが、咲いた花は純白でした。純白の花は、様々な花がある中でも珍しいと思います。濃緑の葉との調和が美しさを際立っているようです。

 

 

白は純潔を現す色です。何一つ身に飾る色を付けることなく咲いたこの花に、幼子の心持を感じました。幼子は、何の罪もなく無垢だからです。聖書は、義人はいない。ただの一人だにいない。と教えています。人の世の中では、正しい品行方正な人であっても、神の御前に立つとき、罪が暴かれるのです。僕たちは、罪人なのです。それは何か犯罪を犯したと言うことではありません。勿論、犯罪も含みますが、神の教えに従うことが出来ないこと、神に背を向けることが罪なのです。そのような僕たちを救済するために、イエス・キリストは十字架にかけられました。神への贖罪の生贄となって下さったのです。イエス・キリストを色に例えるとすれば、僕の持っている椿と同じ純白です。明日は、復活祭です。復活祭の典礼色は白です。僕の椿は、この復活祭を知って咲いたかのように思われます。十字架にかけられ死に、死の力に勝利し死をも従えたイエス・キリストの死からの復活を心に留め、明日の復活祭を迎えたいと思います。

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試練の向こうにあるもの

 僕の住む町では、桜の花が満開となっています。年に一度のこの時期を堪能しつつ心を養っています。自然の営みには、心を癒す効果があるようです。復活祭を控えて自然の営みは創造主である神に急かされるかのようにも思われます。今年もヒマラヤユキノシタが花を咲かせてくれました。僕の家の庭に植えてから40年ほどの年月を経ます。くる年もくる年も寒風や雪にも耐え、時期を知って花を咲かせるのです。40と言う数字は、聖書に於いては、試練を現す数字です。イスラエルの民がモーセに率いられて、エジプトから約束の地であるカナンに辿り着くまでには、40年かかりました。ノアの洪水が収まるまでには、4040夜かかりました。また、イエスは40日の間、サタンの試練を受けています。この数字は偶然ではありません。神の言葉である聖書が語るイスラエルの民の歴史であります。

 

 

 因に僕たちは、7と言う数字を好んで車のナンバーにしたり、ラッキーナンバーと言ったりしますが、イスラエルでは7は完全数とされています。信仰の有無に関わらず僕たちは、人生の所々で、試練を受けます。順風満帆の人生などあり得ません。どんな人にも苦があり、悩みが伴います。それが人生です。しかし、神はそのままにはしておかれません。神に立ち返る時、必ず回復を与えてくださるのです。だから僕たちは生きてゆけるのです。試練の向こうにあるものに希望を抱きつつ、新しい週を迎えたいと思います。

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春が来た

 せっかく咲いたハクモクレンの花が、一夜にして遅霜に遭い花が黒変してしまいました。

ハクモクレンの花は霜に弱いことを知っているので、霜が降りないようにと願っていたのですが、残念なことでした。地は日に日に命に満ちています。本格的な待ちに待った春の訪れです。地にあるものは時期を知っており、僕たちに時を知らせてくれます。自然の摂理、神の御業を身を以て知る時期です。神の御業は、小さな草木にさえも現れているのに、人は罪に染まったために、神の御業を受け止め感謝することさえも忘れてしまっています。その罪の大きさを測り知ることはできません。しかし神は、ご自身の姿に似せて造られた人を罪に定めたままにはされませんでした。人の罪を赦すために、イエスをこの世に遣わされたのです。「神は独り子を遣わすほどに世を愛された。それは御子を信じる者が誰一人滅びることなく、永遠の命を得るためである。」と聖書は教えています。それほどまでに神は、僕たちに愛を注いて下さっているのです。僕たちは日々、神からの恵みを賜りながらも、それに気が付かないばかりか、その恵みを無駄にしてしまっています。一番の罪は、神を主とするのではなく、自分を主にしていることです。それでも神は忍耐を以て、神に立ち返ることを待っておらます。全てのことについて感謝の心を以て受け入れうる心、それは自分の意にそぐわないことをも含み、来る復活祭を待ち望みたいと思います。

 

 

讃美歌90

ここも神の、御国なれば

天地、御歌を歌いかわし

岩に木々に、空に海に

たえなる御業ぞ、あらわれたる

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生きることの目的

 家の庭先に植えてある河津桜は、八分咲き程度になりました。染井吉野の蕾は、蕾の先端が色づいてきた程度です。桜の花には日本人の心の内に言葉では表せないような思いを刻み付けているようです。僕はメールアドレスにポルトガル語で桜を現す単語を使っています。僕も桜好きの日本人のひとりに間違いありません。今年度も今月限り。41日には、新元号が発表されます。天皇の退位と言う国民にまたとない出来事が迫り、新しい時代が始まろうとしています。しかし、新しい時代は天皇がつかさどるものではなく、国民一人一人の努力の積み上げによって作られてゆくものです。ですから国会議員はもとより、県会議員、市町村議員を選ぶ僕たちの責任は重大だと思います。選挙が重なる来年度、棄権することなく投票へと向かわなければなりません。主権は国民にあるのです。

 

 

 桜の咲く美しい時期に、新年度を迎えることが出来ることは気分を良くしてくれるような気がします。そして新しい出会いが数多くある時期でもあります。就職に、そして進学に希望と夢を抱いて立ち向かってゆく青年たちを羨ましく思います。社会の現実に打倒されることなく勇猛果敢に強く生きて欲しいと言うのが、新社会へと飛び出す青年たちへのはなむけの言葉です。何の目的をもって生きてゆくのか。そう問われた時、どのように答えるでしょうか。それは、一人一人が自分の為ではなく、社会に貢献するためです。自分の為に生きる者は、いずれ躓きを経験することでしょう。自己中心は、神への背信行為です。人を創造された神に背を向けることは、罪です。僕たちの罪の赦しの為に、神はイエスをこの世に遣わされ、十字架につけられました。このことによって、僕たちの罪は赦され、復活と永遠の命が約束されたのです。421日には、復活祭を迎えます。このことを覚えつつ新しい週を迎えたいと思います。

 

聖書の言葉

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼を張って昇ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。<イザヤ書4031

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欲からの脱却

 一昨日の朝、目覚めて窓のカーテンを開けたら驚くことに雪が積もっていました。あたたかさに慣れてきたこの頃であったので、思わず身をすくめてしまいました。暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったものだと思います。教会の横に一昨年植えた河津桜が今年はたくさんの蕾を着けており、早くも咲いた花があります。一年に一度だけ見ることが出来る花を、心ゆくまで眺めていたいと思います。

 

 

 

 昨日は、ニュージーランドのクライストチャーチの街で無差別殺人事件が起こりました。死者は50名程度になると聞いています。とても衝撃を受ける事件です。神が創造されたものの内で、無差別に殺しあうのはおそらく人だけであると思います。人は神のかたちに似せて創造されました。それは外観だけではなく、心の内もそうであったに違いありません。ではどうして人は憎みあい、殺しあうのでしょうか。それは神が創造された最初の人、アダムとエバにまで遡ることが出来ると思います。アダムとエバの堕落によって、人に罪が入り込んだのです。罪とは神に背を向けること、またその行為です。モーセに与えられた十戒の内には、「汝は、殺してはならない。」とあります。理由はありません。絶対的存在の神の戒めですから、殺してはならないと言われれば、殺してはならないのです。しかし、人は殺しあいます。ハイデルベルグ信仰問答には、人は神と隣人を憎む傾向にあると記されています。

しかし、神は人をそのような者に創造された筈はあり得ません。罪がその根源です。聖書は教えています。「欲がはらんで罪を産み、罪が熟して死を招く」と。人から欲を取り除くことはできません。人には七つの欲があると言われています。おかしな表現ですが、欲がなかったとしたら人ではありません。欲を追い求めることをためらい、その日、その日に神が与えてくださる物に満足することを覚えつつ、新しい週を迎えたいと思います。

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柔和な心

 陽だまりにスイセンの芽が伸びているのを見つけました。サンシュユの花の蕾も膨らんで黄色の花が見えかけています。日一日と進んでゆく春の目に見える形に僕は心を良くしています。遠くに望む恵那山の山頂には雪が残っていますが、あの雪が融けると春本番になるのだと思っています。この世は多くの悪に満ちていても、神の定めた天の法則、地の法則は時の経過とともに季節の徴を現しているのです。僕は山間の地に生まれ育って良かったと思います。そして無から全てのものを創造された神に感謝を捧げます。デジタル化が日進月歩で進んでゆく中にあって、人の知恵はその恩恵に与る反面、アナログ的生活が出来なくなっています。人の心もすさみ、義理人情と言うものは希薄になってきているように思います。僕は、個人主義は否定しませんが、利己主義については異議を唱えます。しかし、利己主義に陥って行く傾向があることは事実であると思います。今の時代、かえって人に親切にすると怪しい人だと思われかねません。これは神の意に反することです。神の言葉に耳を傾け、心を柔和にして神の賜る平安の内を歩みたいと思います。

 

 

聖書の言葉

心の貧しい人たちは、幸いである、天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、幸いである、彼らは慰められるであろう。柔和な人たちは、幸いである、彼らは地を受けつぐであろう。義に飢えかわいている人たちは、幸いである、彼らは飽き足りるようになるであろう。あわれみ深い人たちは、幸いである、彼らはあわれみを受けるであろう。心の清い人たちは、幸いである、彼らは神を見るであろう。平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。<マタイによる福音書539

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天に積む富

 梅の花が5分咲きほどになってきたこの頃です。今日は花の香りを嗅いでみました。昔と変わらぬ香りです。一年に一回この時期にしか楽しむことのできない貴重な時を過ごしました。このところの天気予報は、雨マークが多くついています。しかし、これからの雨は、雨のごとに暖かくなってゆくことを知っているので、疎ましいとは思いません。これも天の恵みです。雨がなければ作物も育つことはありません。

 ところで、日々のニュースを聞いていて、相も変わらず事件が多いことに憂いを感じます。殺人、幼児虐待、金銭にまつわる事件など日々、話題にならない日はありません。最近では、アポ電と言う手口で現金強盗が新たになってきました。世の中を動かしているのは、お金である現実があります。それほどまでにお金には力と魅力があるのです。しかし、お金を追う者は、必ずお金に追われます。因果応報です。聖書は、富は地上ではなく天に蓄えなさいと教えています。天に蓄えた富は、泥棒に盗まれることもなく、朽ち果てることもありません。

天に蓄える富は、形あるものではありません。僕たちの日々の行いが天の富になり得るのです。地上の富は、朽ち果て、盗まれ、或いは一瞬にして価値のないものになってしまいます。

明日から始まる新しい週、このことを心に留めて生きてゆきたいと思います。

 

 

書の言葉

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」<マタイによる福音書61924

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神の言葉・聖書

 家の庭の片隅にクロッカスの花が咲いているのを見つけました。今年もまた咲いてくれたのかとほのぼのとした気持ちになりました。花は、人の心を和ませてくれる力があるようです。極めつけは、桜です。時期になると花見となります。つまり花見と言えば桜なのです。

僕が桜をこんなに美しいものかと思ったのは、浜松に住んでいた時のことです。見たサクラは夜桜です。提灯の柔らかな光の中に浮かび上がる桜の花はなんとも譬えがたいものです。僕の青春の一齣です。

 時代はいつも変遷し、時の流れは全てのものを過去へと押しやってしまいます。生活環境が変わり、世界経済の影響を家計に受け、また今年の10月からは消費税が10%になります。とにかく暮しにくい時代です。それに加えて仕事のストレス。人間関係のもつれ。疲弊する日々の繰り返しです。誰もが背負う十字架です。毎日が楽しくて仕方がないなどと言う人はまずいないと思います。このような僕たちに聖書は教えています。野の花を見よ。空の鳥を見よと。紡ぎもせず、播きもしない。しかし、神は養って下さっているのです。ましてや、人として生まれた者を顧みないことはないのです。だから明日のことを患ってはならないのです。今日の苦労は、今日一日で十分なのです。とは言うものの夜になれば、明日の仕事のことが脳裏をよぎります。人は病んでいるのかもしれません。この病を癒す力が聖書にはあります。神の言葉に触れ、穏やかな日々を過ごしたいものです。

 

 

 

聖書の言葉

だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。<マタイによる福音書62434

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親失格

 2月も半ば、時は巡り巡って春が目に見える形になってきました。厳しい冬を辛抱し待ちに待った春の訪れを身を以て感じています。本格的な春には程遠いものの、小さな春に気を良くしている最近の僕です。

 最近のニュースで毎日のようにマスコミが取り上げているのが、千葉で起きた少女虐待による少女の死亡事件です。生きとし生けるものには必ず死が伴います。しかし、親によって命が奪われるなどと言うことはあってはならないことです。将来ある子供の命を親が奪ってしまった。それも虐待と言う形です。少女は助けを求めていました。そのことに真摯に取り組むことが出来なかったことにも問題はあります。命の尊厳が軽視されているように思えるこの時世、今一度、命あることの意味を考え直さなければならないのでしょうか。僕は日々、日ごとに神から賜る命に感謝を捧げています。虐待をする親は、親と言う資格はありません。しかし、子供は親を選ぶことが出来ないのです。虐待をする親は、自らの幼少期に、その親から虐待を受けていたことが多分にあります。また、親の愛情を受けることなく成長したため、愛情の表現が出来ないのです。聖書は教えています。「父たる者よ。子供につらく当たってはならない。」と。また、家庭のあり方についての教えをもしたためています。聖書は、今も生きて働かれる神の言葉です。物語ではありません。信仰と生活との誤りのない規範です。しかし、聖書の教えに従うことが出来ないのが人です。それは、自己中心的な考えが心の内に存在し、聖書の言葉をくもらせているからです。神の前に正しい人は誰一人としてありません。常に価値観が変遷する今の時代の中で、幼い時からの心の教育が必要ではないかと僕は考えています。

 

 

 

聖書の言葉

父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。<エペソの信徒への手紙6章4節>

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御業の確信

 今年は暖冬の影響を随分受けているようです。雪が少ないことはもとより、梅の花が早くも咲き始めました。あまり早く咲くと、この後に来る寒波によって花が傷み、実が実らないことがあります。咲き急がないようにと梅に語りかけている僕です。諺にも急いては事を仕損じると言う言葉があります。まさにその通りだと思います。立春は過ぎましたが、早春賦に歌われている通り、まだまだ寒い日が続きます。冬は生きる者にとって試練の時なのかもしれません。しかし、この時期を堪えて辛抱すれば必ず春はやって来ます。これは天地創造の時から繰り返されてきた天の法則です。人知の及ぶところではありません。春の訪れを待つ心は、古今東西を問わず変わらないと思います。16日でクリスマスの期間は終わりました。教会暦は受難節、そして復活祭に向かっています。僕はクリスマスよりも復活祭の方が心にしっくりきます。キリストの復活がなかったら、キリスト教は成り立ちません。聖書もあり得ません。あるとすれば歴史上にイエスと言う人がいて奇蹟を行い、多くの人に癒しと救いを与えたと語り継がれるだけになってしまいます。聖書に記されていることで未だ実現していないのが、キリストの再臨です。イエス・キリストが再びこの世に来られると言うことです。それはいつかは誰にもわかりません。初代教会の人々は、キリストの復活、そして昇天の後、すぐにも再臨があると信じていました。それから既に2000年の時を経ます。聖書を、今も生きて働かれる神の言葉として信じ受け止める時、再臨はただの希望的物語ではなくなるのです。日々、聖書に親しみ神の救いの御業を確信したいと思います。

 

 

聖書の言葉

地の続く限り、種まきも刈り入れも寒さ暑さも、夏も冬も昼も夜も、やむことはない。<創世記822

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