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罪意識

 昨日、そして今日と季節外れの雷雨がありました。気温は一気に下がり、少しばかり肌寒さを感じます。少し早いとは思いながらも、書斎に暖房の用意をした僕です。今月終盤に入りました。今年も残すところ数えることが出来る日数となり、また慌ただしい年末になります。一週間、7日ごとの繰り返しの中で、日々祈りを捧げながらも、僕自身がその祈りに伴わない生活をしているのです。頭では判っていても行いが伴わないのです。それはあたかも、吹き渡る風のように心が定まらず、心の赴くままに生きしまうと言うことです。僕は、そのような僕自身の心の中に少なからず罪意識を感じています。しかし天の父は、御子イエスを信じる信仰によって忍耐に忍耐を重ねて僕の罪を赦して下さっています。どうして神の教えに従えないのかと心を痛めることもあります。つまり、僕の心の中には、神に従おうとする心と、現実に罪を重ねる自分があり矛盾しているのです。この心の葛藤をいかにして鎮めたらよいのかわかりません。つまるところ、ありのままで良いと言うこと、心に正直に生きることであると思うのです。信仰者として、神の栄光を顕す生活を営むこと一点に的を絞ってその方向を向いて歩めば、自ずと生活も変わってくるはずです。明日からの新しい週は、このことに心を傾けて神を仰ぎつつ生きてみようと思います。

 

 

聖書の言葉

神がお造りになったものは全て良いものであり、感謝して受けるならば何一つ捨てる者はないのです。<テモテの手紙第一 44

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罪を重ねる日々

 深まりゆく秋の中で、夜鳴く虫の音にも変遷があるようです。10月も早や半ばです。いつも思うことですが、時の流れは早く、それを止めることはできません。刻まれてゆく時を最善の姿で過ごしたいと思います。それは端的に言えば、神との関係の中でのことです。毎日の暮らしを振り返るとき、後悔しない日はありません。今日も神を忘れ、自分の思いを優先させて過ごしてしまったと思う日々の連続です。その様な僕にも神は、恵みを賜い、今日の命を支えてくださるのです。神の愛の深さに胸が痛む思いです。例え信仰を持った人にも、自我と言うものがあります。ですから、罪を犯さず一日を過ごそうとすること自体が無理なのです。その時、必要なのは悔い改めの心です。今日一日の罪を神の御前に言い表し、罪の赦しを願うことです。明日から始まる新しい週も、悔い改めの心を以て過ごしてゆきたいと思います。

 

 

 10年ほど前に実生のカラタチを見つけ、移植して育てていました。今年初めて実を着けました。僕の地方では、キコクとも言います。僕が幼かった頃、近所の家の池のほとりに植えてあったことを思い起こしました。酸味が強く、とても食用にはなりません。因みにカラタチはミカンの仲間です。

 

聖書の言葉

忍耐と慰めの源である神が、あなた方にキリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声を揃えて、私たちの主イエス・キリストの神であり、父である方を讃えさせて下さいますように。<ローマの信徒への手紙1556

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苦難からの帰還

 台風25号が襲来した週末になりました。思い起こしてみると、今年は災害の多い年であったような気がします。被災された方々には、お見舞いを申し上げます。僕は災害による被害に遭った経験がないので、避難生活、家族を失う悲しみ、家を失う悲しみは、感覚としては理解できても、その現実を理解するには遠いものがあります。それには関係なく、時は刻一刻と誰にも同じように過ぎてゆきます。いつになったら平穏な生活が出来るようになるかと思われている方々のことを思うと胸が痛みます。僕たちの信じる神は、この様な事態の裏では、必ずその苦難、悲しみに応えてくださいます。涙して行く者は、喜びを携えて帰ることが出来るのです。神に信頼し立ち返る者を決して拒みはしません。

 僕は目に見える形での苦難に遭ったことはありませんが、心の中での苦悩は絶えません。

牧師であるからと言って、神は特別な扱いをされることはありません。いつもいつも試練を与えられます。一つ解決したかと思えば、次の試練が待っています。しかし、ここでくじけるわけにはゆきません。神は必ず報いて下さることを僕は知っているからです。そして何度も、信仰的経験をしてきたからです。神の招きに応える時、平安が与えられます。今、苦難の内にあっても、必ず報いて下さる神が活きて働いて下さることを確信をもって信じつつ、新しい週を迎えたいと思います。

 

 

聖書の言葉

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます。私は心優しく、謙っているから、あなたがたも私のくびきを負って、私から学びなさい。そうすれば魂に安らぎが来ます。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからです。<マタイによる福音書112830

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人間関係

 キンモクセイの花の香りが漂う時期になりました。9月も最終週となり、徐々に深まりゆく秋を身を以て感じている僕です。日々、神から給う恵みの内を平安に歩むことが出来るようにと願いつつも、人との関係の中では、トラブルを避けては通れない現実があります。今週は僕にとって、辛い週となりました。人間関係ほど、厄介で難しいものはありません。腹の中では怒っても、笑顔でいられるような処世術を僕は持ち得ていません。僕の祖母は、相手の出様で、鬼にも蛇にもと言っていました。これが人の自然な感情なのかもしれません。

 

最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。

「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求よ。

主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」聖書はこのように教えています。人にはそれぞれ持った我と言うものがあります。また、自分を正当化しようとする心があります。これがトラブルの原因となります。あることを指摘されて「そうだったのか。」などと物分かりの良い人などほんの一握りです。しかし、僕たちはこの現実の中を歩んでゆかなければなりません。僕は人に打ち勝とうなどとは思いませんが、道理の通らないことを赦すことはできません。このことが相手の頭に火を着けることになるのです。一度着いた火を治めることは並大抵のことではありません。ことは物別れに終わりましたが、後味の悪いものです。平和の神、慰めの神が臨まれることを祈って、この週を終わりたと思います。

 

 

聖書の言葉

主があなたを祝福し、守られますように。

主が御顔をあなたに照らし、恵まれますように。

主が御顔をあなたに向け、平安を賜りますように。

<民数記62426

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謙虚に生きたい

 稲穂が頭を垂れ、稲刈りが始まりました。本格的な秋の訪れの様です。スーパーマーケットに行けば秋の果物が並べられています。果物好きの僕には、至福の時期です。また、近くの山にアケビの実を見つけました。熟すのを楽しみに待っています。秋は様々なものに例えられます。食欲の秋、収穫の秋、読書の秋、・・・。しかし、僕の心のは秋に寂しいもをも感じます。躍動していた生き物たちが、だんだんと命を散らしてゆく時期でもあるからです。しかしこれも、神が定められた天の法則に従ったものです。この法則の中で与えられるものを感謝の念をもって受け入れなければなりません。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさいと聖書は教えています。そんなことが出来るわけがないと思うのですが、生きると言うことについて考えてみるとき、日々の命を与えられ、日々の食糧を与えられ、憩いの夜に暖かな布団に身を休めることが出来るのも神の恵みです。決して自分が勝ち取ったものではありません。神は僕たちに必要なものを必要な時に必ず与えてくださいます。それは自分が期待していたものとは異なった形で与えられることもあります。だからと言って神が僕たちを見捨てたと言うことにはなりません。神は、独り子であるイエスさえも僕たちの幸福のためにこの世に遣わされ、僕たちの罪の代価として、十字架に掛けられました。このことによって僕たちの罪は赦されたのです。これほどまでに神は僕たちを愛しておられるのです。この神の愛に応える生き方が出来るように日々祈りたいと思います。天の父、悪しきもの、罪を僕たちから遠ざけてください。このように祈りながらも、罪を重ねる日々である僕たちなのです。このような弱さをもって生きる時、僕たちは謙虚になることが出来ます。

 

 

 

聖書の言葉

私たちが既にイエスから聞いていて、あなた方に伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないと言うことです。<ヨハネの手紙第一 15

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私は忘れない

 ヒガンバナの花が咲き始めました。日長も短くなり、あれほど賑わっていたセミの声も遠のき、代わって夜鳴く虫の声が賑やかになっています。秋の訪れは確かです。思い返せば今年は全国的に災害に見舞われた年であると思います。残されている3か月にも何が起こるかわかりません。かつて、天災は忘れた頃にやって来ると言う言葉がありました。今年は忘れて頃ではなく、矢継ぎ早にやってきています。先般、ドイツに住む友人に電話と入れました。そのところ、ドイツでも同じだそうです。異常気象は世界的に起こっているようです。

神が6日間をかけて創造された天と地に異常が起こっていると言う現実は、楽観視できることではありません。神は森羅万象を見られて、はなはだ良しとされたのです。今からでも遅くはありません。神が良しとされ、人を造られ、そこに住むことを許された神の思いをくみ取り、神に立ち返る時です。本来であれば神の御懐にあるべき人が、罪を犯し神を忘れ一人歩きを始めたのです。全ての物を神から与えられていることさえも忘れてしまいました。

罪に罪を重ね、日々罪過を大きくしています。そのような人に対して、それでも神は、「私が、あなたを忘れることは決してない。」と言われるのです。神の愛の大きさ、寛容さには言い尽くせないものがあります。神の愛に甘んじ、日々、神によって生かされていることを思うとき、僕たちの進む道が見えてくるのです。

 

 

 

聖書の言葉

シオンは言う。主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける。<旧約聖書 イザヤ書 491416

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告別

 4日の早朝、親しかった牧師のひとりが天に召されました。歳は僕と同じです。逝くにはあまりにも早すぎます。召天の知らせが教会員からあり、僕は言葉がありませんでした。この牧師は、僕が神学生の時の指導牧師でありました。指導の甲斐あって、修業年限を一年繰り上げて全ての単位を取ることが出来、神学校では繰り上げ卒業をすることが出来たのでした。おおよそ20年間のお付き合いの中、様々な思い出が走馬灯のように僕の脳裏を巡り巡ります。人の死とはこんなに儚いものなのかと、胸を打たれる思いです。中国の諺に“紅顔の美少年、夕には骨となる”と言う言葉があります。仏教でよく使われる諺です。今は既に、父なる神の懐の内にあり、天において平安が与えられていることを信じます。僕はこの日を心に刻みます。

 

 

 しかし、聖書の教えを説く牧師である僕が、いつまでも悲しんでいるわけには行きません。

僕たちには、復活と永遠の命が約束されているのです。新約聖書のヨハネの黙示録には、「天使がラッパを吹き鳴らすとき、死者は甦ります。」と記されています。ラッパのなるとき死者は甦る。これは、あの有名なヘンデルの曲、ハレルヤコーラスで知られているメサイアの中にも歌われています。キリスト教は復活信仰です。キリストが十字架に掛けられて死んだことは、キリスト教徒ではなくても多くの人が知るところであると思います。しかし、死後三日目に甦ったと言うことを知る人は少ないのではないでしょうか。キリストの甦りを祝うのが復活祭です。毎年、春分の日の後の最初の満月の直後の日曜日が復活祭です。キリストの復活がなかったら、キリスト教は今の世に存在しないかもしれません。そして、イエス・キリストと言う人がいて、多くの人を救ったと歴史に名を刻むに限られたことでしょう。僕たちには神が約束された未来への約束、復活と永遠の命が約束されていることを心に刻み、明日に立ち向かって生きてゆきたいと思います。

 

聖書の言葉

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい。私の父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、私は場所を備えに行くのです。私が行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたを私のもとに迎えます。私のいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」<ヨハネによる福音書14:1〜3>

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おじさんと呼ばれ

 今日から9月。カレンダーを1枚めくり、残りも少なくなってきたものだと時の経つことの早さを改めて思い知らされました。何もしなくても時は刻々と刻まれてゆきます。同じ時を過ごすのならば、価値ある時を過ごしたいと思いながらも、何に価値があるかに決め手を得ないまま過ごしてしまうのが現実です。年相応の教養と風格を備えたいと思います。いつまでも若いようなつもりでいてはいけないとつくづく思います。樹木が年ごとに年輪を刻んでゆくように、人にもそれ相応の生きてきた人生の重みがあると思うのです。先般、病院を訪れた時、青年から「おじさん。」と声を掛けられました。“おじさん”の一言にいささかの違和感はありましたが、確かに“おじさん”と呼ばれる歳です。僕も“おじさん”かと思い知らされました。おじさんと呼ばれる歳となった僕は、聖書の教えに従って若者の手本となるような老後を送りたいと思います。信用を落とすことは、すぐにでも出来ます。しかし、信用を築くことは、きわめて厳しい道のりです。最後に目指すのは天の御国です。天には、僕たちの住処を父なる神が用意していてくださいます。その住処に、はばかることなく入ることが出来るのです。僕たちの人生は、神が導いてくださいます。その神が示された道を踏み外すことなく歩むこと。これが豊かな人生への確かな道であり、そのことによって、その生きざまを見た人々が、神を讃えること。これこそ僕の歩む道であり、ためらうことなく“おじさん”と呼ばれることにつながると思います。

 

 

聖書の言葉

そして、私たちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい。<テサロニケの信徒への手紙第一 411

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神を仰いで生きる

 先の台風19号、20号共に当地では何の被害もなく過ぎ去りました。片田舎の小さな街。何と言って際立つものはありませんが、幸いなことに天災に見舞われることは少ない街です。この度も被災された方々には、お見舞いを申し上げます。今は、あまり耳にしませんが、天災は忘れたころにやって来ると言う言葉がありました。僕の街も、のほほんとしてはいられないのかもしれません。

 ススキの穂が出始まました。コスモスの花が咲き始めました。日没が早くなり、夜明けも遅くなってきました。秋の訪れが目に見える形になりました。この厳しい残暑の中にあっても自然は時を知っています。神のなさることは、その時にかなって美しいと聖書は教えています。暑さ寒さも彼岸までと言いますが、秋分の日まで、一か月です。残り少なくなった今年の夏を、暑さを避けて何もしないのではなく、今できることを、今しておきたいと思います。それが毎日の暮らしです。それも神の栄光を表すためです。僕たちが生きているのは、それは神の為だからです。神は万物の造り主、地の果ての創造者です。あえて言えば、僕たちの信じる神は、神と呼ぶより創造主と言う方が正しいのかもしれません。信仰とは、信じ仰ぐと書きます。これは宗教一般的に使われる言葉です。しかし、僕は言いたいのです。僕たちの信仰は、神を仰ぐと書く神仰です。僕が一人でいくら喘いでも、神仰と言う言葉が世に認められ、辞書に載ることはないでしょう。上を向いて歩こうと言う歌があります。上とは天を指します。天は神の御座です。転びはしないかと、自分の足元ばかりに気を取られて生きるより、たとえ転んでも上を、天を見つめて歩む人生でありたいと思います。

 

 

 

聖書の言葉

主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼を張って上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。<イザヤ書402831

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決別

 あの酷暑は何であったろうかと思う爽やかな日で週末を迎えました。ところどころ、またこの暑さの背面では秋の気配が感じられます。夜鳴く虫の声も少しづつながら多くなってきているように思います。ぼ〜っと生きていても時は刻々と刻まれて行きます。時の変化に敏感になり、神を愛し隣人と自然を慈しみ、感性豊かに暮らしたいと思います。

 今日、818日は、飛騨川バス転落事故から50年目にあたるそうです。当時僕は7歳でした。しかし、今でもテレビニュースのこの事故の報道をよく覚えています。事故が起きた個所から少しばかり下流の国道41号線の道沿いには、天心白菊の塔と言う慰霊碑があります。当時、首相であった佐藤栄作氏の碑文が刻まれています。僕の上司であった方の友人もこの事故に巻き込まれ亡くなったそうです。上司であった方は、亡くなった友達に遊ぶ約束をしようと話をしたそうです。ところが、この旅行に行くため遊べないと言う返事があり、上司であった方は、「お前みたいな者は、死んじゃえばいいんだ!」と言ったとのこと。その後、この事故で友達は亡くなりました。現実となった自らの言葉をどれほど悔やんだか判らないと話してくれました。言葉には気を付けなければなりません。いくら腹が立つ相手であっても、めいっぱいの言葉をぶつけないに越したことはありません。それによって相手もまた逆上するに違いないからです。人との付き合いは、心穏やかに互いに尊厳を保ちつつ過ごしたいものです。

 

 

 

 この夏、僕も一人の友人を無くしました。金銭貸借が原因です。35年の付き合いに終焉が来たのでした。僕はこの問題を解決するために、友人を裁判所へ訴えたのです。これよりほか、解決の道はないと判断したからです。神学校での講義の中で、学長は常々、異性とお金にはくれぐれも気を付けるようにと繰り返し語られていました。世の中の誘惑は、やはり異性とお金ではないでしょうか。このことによって引き起こされる事件は限りのない現代です。誘惑は僕たちがその罠にはまるのを待っています。常に身を正し、神を仰ぎ見ながら人に仕える人生でありたいと思います。

 

聖書の言葉

人を裁くな。あなた方も裁かれないようにするためである。あなた方は、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。<マタイによる福音書712

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