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主の祈り

 今年は早くから暖かくなった影響が、多分に生態系に影響を与えていると思います。早くもワラビが出始め、既に葉が広がってしまっているものが殆どです。毎年ワラビ取りに来られる方に、今年はワラビの出るのが早いので、いつもの年より早く来られるように伝えました。今週末は雨模様です。いつものように畑仕事を始めた僕にとっては、恵みの雨です。今年は、何を作ろうかと思いつつ、ホームセンターの野菜の苗を見ています。必ず毎年作付けするのがスイカです。昨年は不作でした。今年は、植え付けのタイミングを逃さないようにと、捕らぬ狸の皮算用をしています。

 

 

 神は、僕たちに日ごとの糧を与えてくださいます。毎日食事に事欠かないことが値前の様に思っていますが、これは、この上ない神の恵みです。世界を見渡せば、飢餓に喘ぐ人々が多くいるのです。明日の命をつなぐことが出来るかどうかの瀬戸際にある人々がいるのです。豊かに見えるこの国の中にも、そのような現実があるのです。僕たちは、日ごとの糧と命を与えて下さる神に感謝を捧げなければなりません。日ごとの糧は、食物だけのことではありません。食物によってお腹を満たすように、神の言葉によって心をも満たさなければなりません。お腹が満たされても、心が荒んでいたら決して健全とは言えません。ですから僕たちは、「天にまします、われらの父よ。」と祈るのです。

 

聖書の言葉

あなたは祈る時、自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉数が多ければ、聞きいれられるものと思っている。だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存知なのである。だから、あなたがたはこう祈りなさい。

天にいますわれらの父よ、 御名があがめられますように。 御国がきますように。 みこころが天に行われるとおり、 地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの食物を、 きょうもお与えください。 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、 わたしたちの負債をもおゆるしください。 わたしたちを試みに会わせないで、 悪しき者からお救いください。<マタイによる福音書6613

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欲の果て

 今日は、昨日までの暖かさはどこに行ってしまったのだろうと思う肌寒い一日でした。今までが異常に暖かすぎたのかもしれません。神が定められた天の法則に、人が関与し異常をきたしていると思います。新しい年度を迎えても、世は乱れている現実があります。これは、人類の歴史であるかもしれません。いったい何が正しくて、何が悪なのかの判断があいまいになって、感覚が鈍って来ているのです。それは、この国を将来へと導く政治家の姿にもよく表れています。為政者たちにこの国を任せてよいのだろうかと思いもします。真実は一つ、その真実を隠蔽することが、はばかりなく行われている現実があります。僕たちの寄り頼む、僕たちが選んだ為政者です。国民の信頼に応えるべきです。

 

 

 

 僕たちは豊かさを求めます。その豊かさとは、大抵は物資的、金銭的に満たされることです。しかし、心が荒んでいたら本当の豊かさには至りません。僕たちの求める豊かさは、方向を変えてみると、欲望と言う言葉で表されます。僕は欲望がすべて悪いものだとは思いません。しかし、欲望は人を破滅に向かわせる傾向にあります。欲望を果たそうと思うが故に大切なものを失うことさえあります。人に欲望を捨てよと言うのは、到底無理な話です。僕にも欲望はあります。心の内に潜む欲望をいかに実現し、使うかが問われる時代であると思います。

 

聖書の言葉

欲がはらんで、罪を生み、罪が熟して死を招く。<ヤコブの手紙115

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復活祭に寄せて

 この暖かさの中で、当地でもサクラの花が見ごろとなりました。ウメの花も満開です。

モクレン、コブシ、レンギョウなど春の花が咲き乱れているこの頃です。地に命があふれる時期になりました。41日の日曜日は、イエス・キリストの復活を記念する復活祭です。

今年になぞらえれば、イエスは330日に十字架にかけられ、3日後の41日に復活されたのです。わかりやすく言えば、死から甦られたのです。その3日間をどのようにされていたかと言うと、トマスによる福音書によると、イエスより先に死んだ者たちに福音を伝えるため、陰府に降ったと記されています。イエスの福音は、全人類に及んだのです。クリスマスに比べると復活祭は、日本人の心には印象が薄いと思います。しかし、イエスの復活がなかったら、今のキリスト教はあり得ません。キリスト教は、復活信仰です。

 

 

 

日本人は他の宗教を受け入れることが好きなのか、世の商戦に乗るのが好きなのか、最近では、ハロウィンや復活祭など、意味が分からなくても楽しければ良いと言う感覚と僕は捉えているのですが、商戦に使われています。世界的行事を逆手にとって、無意味に楽しむと言う姿を僕は冷たい視線で見つめています。この後、キリスト教では聖霊降臨祭があります。

そこまでは商戦に乗せることはないだろうと思っています。

 

聖書の言葉

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」<マタイによる福音書28110

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キリストの受難

各地から桜の開花の便りが聞かれるようになりました。今年の冬は厳しかったので、桜の開花が遅れるのかと思いしや、例年より早いとは思いもよらないことでした。当地では今は梅の花が満開状態です。昔ながらの変わらない芳しい香りが漂い、僕は気分を良くしています。春を身に感じ、植えた草花の芽が出ているのではないかと、花畑を散策する日々です。

今年の復活祭は、41日です。今夜の月は半月です。後一週間で満月になるのかと夜空を仰いでみました。来週の金曜日がキリストの受難日になります。何一つ罪を犯さなかったキリストが、弱い者、虐げられた者に寄り添わされたキリストが、僕たちの全ての罪を背負って十字架にかけられたのです。そして僕たちが犯してきた罪、今なお犯している罪、その上、将来犯すであろう罪が全て赦されたのです。だからと言って、何をしても良いと言うことにはなりません。神は、自らの独り子を世に遣わし、十字架にかけられるほどに、人を愛されたのです。この神の慈愛に僕たちは、何をもって報いたらよいのでしょうか。神の御業は、罪の赦しだけでは終わりませんでした。キリストの十字架の死後、3日目にキリストを復活させられたのです。人にとって最後の仇である死さえもご自身の足の下に置かれたのです。

そして僕たちにも、復活と永遠の命に至る道を教えられたのです。僕たちはもはや、死を恐れることはないなのです。死に勝利したキリストが共にいて下さるからです。

 

 

聖書の言葉

昼の12時頃、全地は暗くなり、3時頃イエスは大声で「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と叫んだ。これは「神よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。これを聞いた人々はイエスがエリアを呼んでいると勘違いした。イエスはもう一度叫ぶと息を引き取った。するとにわかに神殿の幕が避け、地震が起こり、岩が裂けて墓が開いたりした。百人隊長やその場にいた人々はこれを見て非常に恐れ、「本当にこの人は神の子だった」と言った。

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主を待ち望む

 日増しに春の気配を感じるようになりました。梅の花が咲き芳しい香りを放っています。

厳しかった冬を乗り越えることが出来た喜びには大きなものがあります。地は命の躍動に満ち、野辺には花が咲き、美しいこの時期を大切に心に刻んでおきたいと思います。桜の花が咲くのもそう遠くはないことです。我が家の庭に植えた河津桜も蕾が日に日に成長しています。一昨日は高知で桜の開花宣言、昨日は宮崎で開花宣言がありました。日本人の心の内には、桜に対する特別な思いがあるようです。春の訪れは人の心に喜びをもたらします。

この喜びを忘れず日々を過ごすことが出来たとしたら、なんと幸福なことかと思います。神の恵みとしての自然の営みは、時に人に厳しさをも与えます。その厳しさの中にも恵みがあるのです。ところが、厳しさに耐えず心が委縮してしまいそうになることがあります。当然な感情です。しかし、その一点に留まることなく、神が約束された未来への約束に目を向けたいと思います。そこには、神が与えられる揺るぐことのない平安があるのです。3週後の日曜日は復活祭です。キリストの復活を覚えつつ、僕たちにも約束された復活と永遠の命の内に生きることが出来る喜びを神に感謝したいと思います。

 

 

聖書の言葉

 主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は 新しく力を得、鷲のように翼をはって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。<旧約聖書イザヤ書402831

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一期一会

 今年も年明けから楽しみにしていたイチゴ狩りに浜松市まで出かけてきました。果物好きの僕にとっては、(イチゴは野菜です。)何よりの年中行事です。いつも付き合ってくれるのは、生まれた時から5歳になるまで毎日の様に見てきた友人の子供です。もうあの日から32年が経ちましたが、親交は続いています。僕の胸の内には、まだ幼かった頃の思い出が印象強く残っています。イチゴ狩りをして、寿司を食べに行くのが恒例になっています。

心通う人との交わりは、まさに至福の時です。いつも行くイチゴ園は、その名を、「いちごいちえ」と言います。一期一会とは、茶道に由来する日本ことわざです。茶会に臨む際には、その機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いであると言うことを心得て、亭主・客ともに互いに誠意を尽くす心構えを意味するものです。茶会に限らず、広く「あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう。」という意味で用いられ、さらに「これからも何度でも会うことはあるだろうが、もしかしたら二度とは会えないかもしれないという覚悟で人には接しなさい」と戒める言葉です。

 

 

 一生に一度の出会い、そのことが事前に判っていれば、それほど価値のあるものはありません。そうであれば、相手がどうあれ自らが出来得る最善を尽くし、限られた時を過ごすことが出来ます。そして後悔を残さないことでしょう。しかし、人は一期一会などと言うことを通常は考えません。ですから自分本位に相手に接し、心を尽くすどころか、不愉快な思いをさせたり、憤らせたりすることは日常茶飯事です。人の心の隅には、人を蔑む思いがうごめいているのです。その心の驕り高ぶりは、神への背信です。罪です。人の世は罪に満ちているのです。「義人はいません。ただのひとりもいません。」と聖書は教えています。常に自らを省み、神の御前に跪いて赦しを乞う日々でありたいと思います。

 

聖書の言葉

そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。<フィリピの信徒への手紙214

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実を結ぶ

 3月となりました。今月末あたりには、桜の花が咲くはずです。僕はその時を今から待ち望んでいます。僕は桜の花が好きで、メールアドレスもポルトガル語で桜を意味するcerejeira(セレジェイラ)にしています。桜の花の思いで深いのは、神学校の卒業式に見た上野公園の桜です。これがあの有名な上野公園の桜なのかと。あれから8年が過ぎました。今思いも新たに僕は、神学校で学んだことの復習を初めています。春は、別れの時でもあり、出会いの時、新しい出発の時でもあります。また、命が野に地に満ち溢れるときです。昨年の6月、紅梅の実を見つけ家に持ち帰りました。早速、植木鉢に埋めて今に至っています。果たしてこの種の中の命が、この厳しかった冬を乗り越えてくれたかどうかが心配です。

 

 

 実は枝から離れ地に落ちて芽を出すのが通常です。しかし、枝は木につながっていなければ生きてゆくことはできません。そして木は、その幹をしっかりとした地に根を張っていなければ倒れてしまいます。イエスは、「私はブドウの木、あなた方はその枝である。」と語られました。僕たちは、イエスと言う木の枝であるのです。そして枝は実を結びます。僕たちはイエスから与えられた養分を糧に、実を結ばなければならないのです。実を結ぶためには、花を咲かせなければなりません。しかし、咲いた花がすべて実を結ぶかと言えばそうではありません。例え実を結んだとしても、成長の途中で落果してしまう実もあります。僕たちは日々、命の御言葉を糧に良い実を結ぶことに精進し、その結んだ実によって、イエスの名が褒め称えられる結果を生み出すのです。

 

聖書の言葉

 わたしはぶどうの木で、あなたがたが枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。<ヨハネによる福音書155

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神の御業

 少しづつながら春の兆しが目に見えるようになってきました。イヌノフグリの花が咲き、庭の片隅を見るとスイセンが芽を出しています。あとひと月もしないうちにサクラの便りも聞かれるようになります。耐え忍んだ冬の寒さから解き放たれる時は、もうそう遠くはありません。忍耐して待つことの先には、この上ない喜びが控えているのです。人の生きざまにしてもそうです。「艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを知っている。」と聖書は教えています。そして希望は失望に終わることはないのです。僕が今までの人生で一番辛かった時にさえ、神は希望を与えてくださいました。そして希望は現実となったのです。神が共に歩み、時に僕を担ってくださり、「私は、あなたを見捨てない。」と語りかけてくれたのです。

 

イエスの受けた受難に比べれば、僕の経験した辛さなどは取るにも足りぬものです。イエスの受難は、人類救済のために神が定められた道でありました。それは、イエスを信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を得る為であったのです。十字架にかけられたイエスは、死後、3日目に甦られました。そして僕たちに永遠の命を約束されたのです。今、僕たちの希望は、復活と永遠の命に与ることです。これは神が約束さえた未来への約束です。

 

 

聖書の言葉

天の下では、何事にも定まった時があり、
すべての営みには時がある。

生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
植えるのに時があり、
植えた物を引き抜くのに時がある。
殺すのに時があり、いやすのに時がある。
くずすのに時があり、建てるのに時がある。
泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。
嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
石を投げ捨てるのに時があり、
石を集めるのに時がある。
抱擁するのに時があり、
抱擁をやめるのに時がある。
捜すのに時があり、失うのに時がある。
保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。
引き裂くのに時があり、
縫い合わせるのに時がある。
黙っているのに時があり、話をするのに時がある。
愛するのに時があり、憎むのに時がある。
戦うのに時があり、和睦するのに時がある。
働く者は労苦して何の益を得よう。
私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
神はまた、人の心に永遠を与えられた。
しかし人は、神に行われる御業を、
初めから終わりまで見きわめることができない。

<旧約聖書:コヘレトの言葉3111

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受難節に入る

 今週は早くも、九州・北陸で春一番が観測されたと言うニュースがありました。未だ春と言う実感のない時期に、春と言う言葉は心を温めてくれるようです。2月も半ばを過ぎ、もう少しの辛抱だと思っています。辛抱と言っても、体は寒さに慣れてきています。僕は寒さの中にあっても、車を運転する時に車内にヒーターを入れることはしません。眠気がさしてくるからです。逆に夏にも、余程のことがない限りクーラーを入れることをしません。窓からの風で十分だからです。どちらも省エネに少なからず付与出来ているのかと思っています。先ごろ、昔ながらのネジ巻き式の柱時計を手に入れました。何十年前の物か定かではありませんが、時を正確に刻んでいます。毎正時には鐘が鳴ります。振り子が揺れ動く度に聞こえてくるカチカチと言う音に時が刻まれていることを身をもって実感しています。僕の家にも、かつてはありましたが、その時代を思い起こし懐かしい思いに浸っています。

 

 

 

教会暦は明日の日曜日から、受難節に入ります。キリストの受難を覚える期間です。このクライマックスは復活祭です。今年の復活祭は41日になります。受難節は復活祭までの46日間です。日曜日を抜かしますと40日間となります。そのような40日間に入り、最初の主日に与えられているのが、イエスが40日間、荒野で断食したと言う話です。その荒野においてイエスがサタンから誘惑を受けられました。この受難節において、まず僕たちに語りかけられているテーマは「誘惑」についてです。ここにいる僕たちは、誰一人として「誘惑」と無関係な人はいないはずです。自分自身を省みながら、聖書の言葉にしっかりと耳を傾けたいと思います。因みに40と言う数字は、聖書においては試練を表す数字です。40年間荒野をモーセに率いられたイスラエルの民も、この期間は試練の時でありました。また、神が与えられると言う約束の地への探索の日数は、40日でありました。聖書には、40と言う数字が各所に出てきます。この受難節の期間、キリストの味わった十字架への苦難を思い、身を正して日を重ねてゆきたいと思います。

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希望に向かって

 厳寒の昨今、そんな中で一昨日、名古屋で梅の開花があったと報じられていました。あたたかな知らせです。身近を見渡してみれば、花壇に植えたチューリップが芽を出しています。

遠かった春の訪れは、もう身近なところに迫って来ているようです。あとひと月もすれば光がさんざめく春になると、その日を待ち望んでいます。待つと言う事は忍耐のいることです。

この寒い時期も、人に与えられた忍耐の時、試練の時かもしれません。これに打ち勝つ者は、希望を得るのです。この時期どのように過ごしても、誰にも同じように春は訪れます。しかし、忍耐と試練の時を堪えて迎える春には、希望と大きな喜びがあるのです。

 

 

 聖書は、ローマの信徒への手紙の中で、「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。 
それは患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」と教えています。

患難、忍耐、練られた品性、希望、失望に終わらない希望、物事は、時間も掛けず、簡単には、出来ないことを、この聖書の言葉は、僕たちに教えているのです。何事も、積み重ねと継続によって完成し、良い結果が出るのです。ローマは一日にて成らずなのです。物事は、段階を踏み、時間を掛け積み上げることで出来上がるのです。

    

忍耐をせざる得ない試練を逆手にとって、自分自身の殻を破って脱皮し、大きく変わるチャンスにする力となってくださるのが、イエスなのです。その試練の中を、目標の実現を信じて、コツコツとその歩みを、忍耐強く、繰り返し継続していると、今までの自分から脱皮し一皮むけた、逞しく、洗練された新しい自分に成長するのです。

 

 聖書の言葉

 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼を張って上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。<旧約聖書イザヤ書4031

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