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食べられることへの感謝

 春に種を蒔いた作物が収穫できる時期になりました。思えば長い月日を丹精込めて育てたものの喜びの収穫です。果樹も収穫の時期になり、喜びはこの上ないものです。僕の家の庭の片隅に、ブルーベリーが植えてあります。ブルーベリーも少しづつながら収穫できるようになりました。ところが、僕が収穫する量よりも、鳥に食べられる量の方が多いようです。折角実った実を鳥に食べられてしまうことはシャクにさわります。

 人はせっせと田畑を耕し、種を蒔いて収穫を得るのですが、鳥は何もせず実った木の実を遠慮なく採って食べてしまうのです。鳥には木の実を食べられ、イノシシには畑を荒らされ、愕然としてしまいます。カラスにはトウモロコシをすべて食べられてしまいました。

こうなるともう諦めしかありません。

 

 

 天地創造の時、神は人にエデンの園にあるどの木からも取って食べてよいと言われました。ただし禁断の木の実は食べてはならないことが条件でした。ところが、蛇に入れ知恵された人は、禁断の木から実を採って食べたのです。これが人の堕落の始まりです。罪の始まりです。神は人に食となるものをすべて与えて下さいました。その有り難い食物を粗末にすることは僕の信条に反します。飽食の時代と言われる現代の社会の中で、その裏側には、今日一日の食べ物にも事欠く人々がいると言う現実があります。食は生きて行くための原動力です。地球規模で見れば飢餓に苦しむ人々は数知れません。その多くは何の罪もない人々なのです。僕たちにできることは何かと考える時、第一にできることは、神が与えて下さった食物を粗末にしないことです。神が人に食物を与えられたことは創世記に記されています。最初は地の青草を食物として与えて下さいました。そしてノアの洪水の後は、動物をも食物として与えられたのです。

 この神の恵みに感謝を捧げつつ、今、食に事欠く人、飢餓にある人々が何れの日にか飢餓から解放され、心豊かに平安な日々を過ごすことが出来る日の訪れることを祈ります。何が有り難いと言って食より有り難いものはないと僕は考えます。

 

聖書の言葉

 我らの日用の糧を今日も与え給え。<マタイによる福音書611

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