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友と呼ばれ

 雪虫が舞う時期になりました。教会暦も終末に入り年の瀬が近いことを身をもって感じるこの頃です。今月は僕の誕生月です。57歳になります。定年退職までの月日を数えられるようになりました。歳を重ねても、無駄に時間を費やしているように思える自らに少しばかり情けない思いをしています。熟年と言われる歳です。それなりの立ち居振る舞いをしなければならないと自責の念に迫られています。今までの人生のうちに、様々な人との交わりがありました。友を得、また亡くしの繰り返しであったと思います。

 固く結ばれた友情ほど人生を豊かにしてくれるものはないと思います。僕の一番長い付き合いの友人との、友としての関係は37年に及びます。この関係は、死が二人を引き裂くまで続くと思うのです。この間には、良い関係にあった時ばかりではありません。時として中違いをしたこともあります。しかし、この友人との間には堅い信頼があるので、今この時まで、友としての関係が続いているのだと言う確信があります。

 

 
 イエスは、僕たちに、「私はあなたがたを友と呼ぶ」と言われました。イエスに友と呼ばれることは嬉しいことです。自分のことを「この人は私の友です。」と紹介されれば、誰でも嬉しいはずです。その人が、自分のことを特別な関係にある者として見ていると言うことだからです。そして、友と言って下さる方がイエスであれば、尚更、嬉しいに違いありません。僕たちには、この様な感覚があるでしょうか。

 しかし、一方で、この事に、僕たちは少なからず戸惑いを覚えずにはいられません。果たして、イエス・キリストと僕たちの関係は、友情のようなものなのかと言うことです。人間の友情を考えて見ますと、それは非常に曖昧なものです。少し前まで仲良しだったのに、些細なきっかけで仲違いをしてしまうと言うことも生じます。友と言うのは、関係が希薄であるかのように感じます。イエスは、イエス自身に従う者を兄弟とも呼んでいます。今更、友と呼ぶ必要があるのかとの思いもします。僕たちは友と聞くと、気心の知れた、自分と気の合う人との慣れ親しんだ関係を思い浮かべます。そのように考えると、イエスと言う僕たちが主とあがめるべきイエスとの関係が、友情に譬えられると言うのはいかがなものかと思うのです。

 しかし、イエスが信仰者を友と呼ぶ時、一般的に思い浮かべるような友情を意味するのではありません。もっと深い、特別な関係が見つめられているのです。イエスは僕たちを友と呼ばれました。そして、天の父は僕たちを、子よと呼んで下さっています。この慈しみの中を歩む人生は、無駄に時間を費やしているのではなく、神に祝福された豊かな人生に違いありません。

 

聖書の言葉

「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない 私の命じることを行うならば、あなたがたは私の友である。 もはや、私はあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。私はあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」<ヨハネによる福音書15章12〜17>

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