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実るほど頭を垂れる稲穂かな

 年が明けてからすでに3週間を経ようとしています。この日々を顧みて思うことは、相も変わらず事件、事故が多いことです。年が変わって、今年こそ、今年も、今年は、と心に銘じたことが誰にもあることと思います。しかしながら、人の心は移ろいやすく、時の経過とともにその思いも薄れてゆくのが常の様です。そんな中で、受験生は今が正念場です。おそらく初詣に行き、合格祈願をされたのではないかと思います。僕は、しがみついてでも目標を達成しようとしている若者たちを応援したい。そしてその若者たちに、この国の将来を託したいと思うのです。

 まもなくピョンチャンオリンピックが開催されます。選手として選ばれるための努力は、並大抵のものではなかったと思います。持った素質と育った環境も否定はできません。オリンピックに出場するからには、金メダルと獲得したいと思うのは、人心です。ただ、マスコミは、何個の金メダルと獲得したかに偏った傾向にあります。出場して、競技をして、その結果がどうあれ、僕は価値のあることだと思います。

 

 

 

 人の人生にも、勝ち負けの価値観を持つ傾向にあります。社会的な地位、名誉、資産などによって、人が振り分けられるのです。そして人は誰も、このようなものを求めるのです。

 そこに、心の内に悪しき思いが芽吹くことも多々あり得ることです。社会的地位の高い者は、あたかも自らが偉いような者と勘違いをしがちです。実るほど頭が下がる稲穂かなと言うことわざがあります。この言葉の本来の意味を取り違えているのです。実るほど頭を垂れる稲穂かなと言うことわざは、稲穂が成長して実をつける量が多くなればその分頭を垂れると言う意味になるので、成長しきって立派に実をつけたことで、下の方へ頭が下がった稲穂の姿を見て立派な人や人格者程、腰が低く他の人に対して謙虚な姿勢で接する。と言うことです。イエス・キリストは、神の子でありながら、自らの身を底の底まで低くし、最後には恥辱に満ちた十字架の上で死なれました。そして天に上げられ、今は父なる神の右に座しておられるのです。例え貧しく、地位や名誉などなくても、謙虚に、そして天を見上げ生きること、これほど美しい生き方はないと思います。

 

聖書の言葉

 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。<フィリピの信徒への手紙2611

 

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