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生涯の師

 男女の問題は、古今東西を問わず人間の持った性分なのかもしれません。最近では財務省高官のセクハラ問題、有名アイドルグループのメンバーの淫行問題など、世の話題となっています。男性にとって異性と金銭の問題は、身を持ち崩す事柄です。僕が学んだ神学校の学長は、先ず最初の講義として、この問題に触れました。お金の問題はまだ何とかなる手立てはあります。しかし、異性との問題は取り返しがつかない問題になるのです。旧約聖書の中には、このように堕落した人間の姿が赤裸々に語られています。ここまではっきりと、人間の姿を隠すことなく記した書物は他にはないと思います。学長は、このことに厳しく、自らをも戒め、車の助手席には、奥さん以外の女性は乗せないそうです。これらの問題は、意識が異性に向き、その行いが正当なのかどうかの判断が出来ない状況を作ることにあります。

また、地位や名誉、財産を手玉に取り、あたかも自分が中心になってしまう自己中心的思考によるのだと思います。自己中心は、自分を神とする神への背信行為です。

 

 

 僕が学んだ生け花教室の師匠は、「いつになっても自分の師を持ちなさい。」と教えられました。生け花の世界は、階級社会です。いつになっても自分より上の人がいるわけです。その頂点に立つのが家元です。僕たちはどうあがいても、家元より上に立つことはできません。

稽古を重ねて、更に上級の資格を取りたいと思う向上心は悪いではありません。そして自分より上級の人を敬う心を育まれなければなりません。信仰においても同様のことが言えます。牧師が偉いわけではありません。信徒が蔑まされるのでもありません。僕たちは神の前に等しく造られた人なのです。ただ役割と言うものが存在するだけなのです。それは神から与えられた賜物です。神の前には、地位も名誉も財産も何の意味も持ちません。かえってそれらは、信仰の邪魔になることがあります。僕たちは神と人との前に遜り、神を仰ぎつつ信仰の生涯を貫くのです。新約聖書には、イエスのことをラビと呼んだ記事があります。ラビとは、先生と言う意味の言葉です。僕たち信仰者の先生は、イエスであり、イエスこそ僕たちの師なのです。

 

聖書の言葉

神は高ぶる者を退け、遜る者に恵みを給う。<ヤコブの手紙46

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