日々のニュースの中で、悪い報道がない日はありません。それほどまでにこの世は荒んでいるのかと思わされます。神は、人は生まれつき悪いものであると語っています。善悪を弁えることを知らない人が多いのは確かなことであると思います。つい、出来心でと言うこともあれば、人を騙し金銭を奪うことを言わば常としている人もいます。つまり詐欺師と言われる人です。堂々と陽の光を浴びながら生きることの幸いはありません。夜は憩いの時です。これが常となる世が実現するには程遠いことが現実です。神の御力による平和が訪れることを日々祈りたいものです。生きることは苦です。しかし、この苦から解き放たれる時の喜びは何にも例えることは出来ません。足枷を着けられて足を引きずりながら歩む人生は惨めと言いう他ありません。その苦の原因が何にあるかが問題であると思います。自らの欲の故か、神があたえ給う試練なのか。神が与え給う試練の時であれば、その後に必ず回復が約束されています。それは旧約聖書のヨブ記が証しています。日々の苦を自らの力で克服しようとすることには限界があります。苦は深く脳裏に焼き付けられるからです。神の御前に跪いて祈りに祈りを重ねて行きたいと思います。明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。
今週の讃美歌
賛美歌310番「しずけきいのりの」♪ "Sweet Hour Of Prayer" - YouTube
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僕たちには、主が共に歩んでくださるからです。
三寒四温を繰り返し、時は徐々に本格的な春へと向かっています。季節の移ろいは神が制定されたものです。そう思えば厳しい冬の時期にあっても春が訪れることは確実であって信じるに足りるものです。先に記しました様に、イエスは弱い者と共に歩まれるためにこの世に遣わされました。イエス自身もそのように語られています。そしてご自身に人生の全てを任せなさいと言われました。僕は、神々の中で人と共に歩んでくださる神は他には知り得ません。人は皆、何らかの苦を背負って日々の暮らしを営んでいると思います。一番苦しいのは、生活苦です。豊かに思える我が国でさえ、食に困窮する人々がおられることは事実です。今日の命を、そして明日の命をどのようにして繋いでゆこうかと喘ぐ苦しみは例えようがありません。人生は苦なのです。その苦から解き放って下さるのは、神の御力のみです。直接的な救済はないかもしれません。しかし、イエスの名による日々の祈りは神に届いているのです。この世の苦にたゆむことなく祈りの日々を重ねて行きたいと思います。寒風に耐えて咲く紅梅の様に強くありたいものです。明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。
今週の讃美歌
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僕たちは日々、祈りを捧げますが、その祈りを神に捧げながらも心の内はその時々で変わります。神に誓いを立てながらも、その誓いを全うすることは出来ないのが僕たちの心の弱さです。自らの思いを優先させてしまうのが原因です。ですから今日一日を省みる時、自らの弱さを嘆き後悔の念に浸ることがしばしばです。しかし、神は僕たちの心の弱さを知っておられ赦しを与えて下さいます。日々の暮らしを平穏に過ごしたいと願いながらも、様々な思いに誘わなれ自己中心な僕たちは神の御前に自らの弱さを嘆くことになります。人生に対する妥協です。イエスは、天を指して誓ってはならない。地を指して誓ってはならないと語られています。イエスは僕たちの心の弱さをよくご存知なのです。僕たちは自らの心の弱さを自らの力で克服することは出来ません。旧約聖書の御言葉には、強くあれ、雄々しくあれと激励の御言葉があります。ヨシュア記に記されたヨシュアに対する神の御言葉です。神は僕たちがどのような状況にあっても共に歩んでくださいます。そして決してあなたを見捨てはしないと語られています。僕たちの神、全知全能の神に、人生の全てを委ね雨の日も夜も御心に従う日々を重ねて行きたいと思います。明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。
今週の讃美歌
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退院しておおよそ一ヶ月を経ました。僕は心に病気を持っています。心の病気は外観では判りません。日々、生きる悩みに苛まれる苦しみは当人のみが知り得ることです。薬の力を借りて生きる日々、神から給う平安を祈り願う日々です。主イエスは僕たちにとって、悩みある時の慰めであります。僕たちは神に祈りを捧げる時、自らの願望ばかりを祈ってはいないでしょうか。それはそれでよいのですが、罪の赦しの祈りを忘れてはいないのではないかと思うのです。今日、一日の命を支えて下さった神に感謝の祈りは勿論のこと、僕たちは罪人でありますから、日一日の中で、心の内に悪しき思い、卑しき思いを抱くことが多分にあると思うのです。そして今日一日が、神の御胸に沿った歩みが出来たかどうかを省みるべきであると考えます。僕たちは、主イエスによって罪の縄目から解き放たれました。だからと言ってこの世にある限り罪人なのです。自覚のない罪の多々あります。ですからこそ罪の赦しを請うことが大切であると思います。これは主の祈りの内にもあります。主イエスが教えられた祈りです。今一度このことを思い起こし、一方ならぬ神の愛に応えて行きたいと思います。明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。
天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を
今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、
我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなく汝のものなればなり。
アーメン。
今週の讃美歌
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僕たちがこの世で生きて行く限り、お金がついて回ります。何もしないでもお金は必要です。しかし、お金に執着することは虚しいことです。お金は、労働の代価として与えられるものです。働かずに得られるお金はありません。ですから僕は、株、投資などには全く興味がありません。金融機関から勧められることが多々ありますが、全てお断りしています。そのようなものに費やすほどの余裕がないからです。かと言って経済にとって株や投資は消極的な意味合いでなくてはならないものであることは否定しません。ただ僕には縁のない話と言うことです。お金に目がくらみどれだけの人が悲惨な状況におかれたかは言うに足りません。分相応のものを神は必ず与えて下さるのです。「神と富、両方に仕えることは出来ない」。と御言葉は物語ります。何よりも心の平安を求めるべきであると僕は考えています。今日、命あることに喜びを感じることに喜びを感じ、感謝を捧げるべきであると僕は考えています。このことを満たして下さるのが、神の言葉である聖書です。誰もがそうであるように、僕にも悩みがあり苦しみを抱えています。
しかし、生きて行かなければなりません。その糧となるのが、御言葉です。このことを克服できる日が必ず訪れると信じています。人の言葉は一時的なものですが、神の言葉は永遠です。この罪深き者にさえも恵みを与え顧みて下さる方は、神のみです。罪深きところに恵みはいやまさらんと言われています。日々、自らを省みる日々を重ねて行きたいと思います。明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。
今週の讃美歌
]]>退院後の僕の状況も今のところ順調に経緯しています。健康とはこんなにも有難いものなのかと感謝しています。医療は日進月歩の状況にあり、一人でも多くの人の命を救うために尽力されている科学者の方々がおられることに目を向けなければならないと感じるところです。
僕は63歳になっています。この先、何年生きられるだろうかとふと思うことがあります。既に同級生が4名亡くなられています。日々、命があることに感謝を捧げています。神が定められた時、天の御用の為に御許に召されるのだと確信しています。喜びを以て日々を重ねることは、免疫力を増強させる効果があると聞いたことがあります。聖書は、いつも喜んでいなさい、たえず祈りなさいと記しています。しかし、いつも喜んでいることが出来るでしょうか。月夜の晩ばかりではないのです。しかしどのような状況に陥っても命があるのです。命ほど有難いものはありません。これは、この上ない喜びではないでしょうか。
全世界を手に入れても、命を損ねたら何の益があろうかとイエスは語られています。日ごとに継続される命に目を向け、神への感謝の祈りを絶やすことなく重ねて行きたいと思います。例え逆境に陥っても、その根底には命があるのです。私はあなたを見捨てはしないと言う御言葉に信頼し、夕となり朝となる日々を重ねて行きたいと思います。明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。
今週の讃美歌
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冬来たりなば春遠からじ。今日は節分、明日は暦の上では立春です。春の訪れも遠いことではありません。僕は浮足立つ思いです。人の感情は、その時におかれた状況によって変化します。これは日常、誰にもあることですが心の平安を僕は求めています。僕が一日の内で一番幸福の時は、神への祈りを捧げる時です。神への感謝と罪の赦しの祈りです。牧師とて罪人であることに間違いはありません。ですから僕は、聖職者と言う言葉に疑問を持ちます。多くの教会宛に書簡を記したパウロは自らを、罪人の頭と言っています。また伝道の書の記述には、義人なし、ただの一人だに無しとあります。どうでしょうか、僕たちは普段の生活の中で罪意識があるでしょうか。おそらくありません。ですから僕は一日の終わりの就寝前に、一日を顧みるのです。それが祈りへと繋がってゆきます。祈りに形式はありません。自分の言葉でいいのです。イエスは、私の名によって願うことは叶えてあげようと語られています。祈りが目に見えて叶わなかったとしても、その裏側では叶えられているのです。以前にも記しましたが、無名戦士の詩を記して今回は終わります。
また明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。
大きなことを成し遂げる為に、
強さを求めたのに
謙遜を学ぶようにと弱さを授かった
偉大なことをできるようにと
健康を求めたのに
より良きことをするようにと病気を賜った
幸せになろうとして 富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようと 成功を求めたのに
得意にならないようにと 失敗を授かった
人生を楽しむために あらゆるものを求めたのに
あらゆるものを慈しむために 人生を賜った
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いは全て聞き届けられた
私はもっとも豊かに祝福されたのだ
今週の讃美歌
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古き良き時代を思うとき、物質的には恵まれないにしても心が豊であったと思います。時代の流れは、あったらいいなをあって当然に変えてきました。僕はこのことを否定しません。
しかし、失ったものも数多くあります。失ったものは取り戻すことは出来ません。僕は花が好きなことをブログでもお分かりのことと存じますが、僕の家の周囲で失った植物は数多くあります。オミナエシ、リンドウ、マツムシソウ、ツキミソウ、センブリ、セリ、アケビ…数知れません。温暖化もさることながら、乱開発が拍車をかけていると思います。人の欲は留まるところを知りません。便利な生活が豊かな生活であると言う方程式は成り立たないと思います。豊かさの故に人の心は高慢になり、人情に事欠く結末になりゆく傾向にあると考えるのです。過ぎし日は良く思えるものです。それは未来が見えないからです。しかし、主は僕たちが歩む道を備えていてくださいます。決して平たんな道ばかりではないかもしれません。しかし、その道は天に続く道であることは間違いのないことです。人に馬鹿にされ、嘲笑われても、備えたもう主の道を踏み外すことなく歩んでゆきたいと思います。
明日からまた新しい週が始まります。新年の幕も切って落とされます。祝福の内にありますように。そして平安がありますように。
今週の讃美歌
【讃美歌411 すべしらす神よ-日本語歌詞付き】RITAMY讃美歌集-癒しのパイプオルガン【映像×癒しの讃美歌】 (youtube.com)
僕は1月中、入院をすることになりました。閲覧頂いている皆様には申し訳ありませんが、次回のブログ更新は、2月3日になります。
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明日はクリスマス・イブとなりました。燭火礼拝を執り行う教会も数多くあると思います。僕が教会でクリスマスを過ごしたのは、19歳の時でした。40余年も前のことです。クリスマスの過ごし方は千差万別で、クリスマスケーキを食べる日、クリスマスプレゼントをもらう人化していることが大方であると思います。クリスマスを楽しみにしている子供には、その意味が分からなくても何の罪もありません。サンタクロースがプレゼントを持ってきてくれると信じているからです。僕が若き日に、教会の依頼でサンタクロース役を引き受けたことがあります。僕を見つめる子供たちの無垢で純粋なキラキラした目を忘れることが出来ません。この年になってもクリスマスプレゼントは嬉しいものです。今週はドイツの友人からクリスマスプレゼントが届きました。僕を覚え、送って下さるその気持ちに感謝しています。キリストあってのクリスマスです。神の救いの業に心を寄せクリスマスの期間を過ごしたいと思います。聖書には、12月25日がキリストの生誕日であると言う記載はありません。クリスマスは、宣教にあって北欧の冬至の祭りと融合したものであると言う一説があります。理屈は抜きにして、救い主、イエス・キリストがこの世に現れたと言うことに尽きるのです。明日からまた新しい週が始まります。1月6日までのクリスマスの期間、浮足立つことなく心静かに救世主の生誕を祝う日々を過ごして行きたいと思います。平安がありますように。
今週の讃美歌
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街はクリスマスの雰囲気に包まれてきました。また早くも正月飾りや鏡餅なども販売されています。一年で一番賑わう時期であるかもしれません。先日はドイツ在住の友人からクリスマスの小包みを送ったとの連絡がありました。受取りを楽しみにしています。楽しみと同時に、僕の存在を気にかけて下さる友人の心に感謝を捧げるのです。人と人との関係はこのようなものではないでしょうか。良くして下さるばかりが友人ではありません。時には注意することも必要であると考えます。このことで人間関係が崩れたとしたら、それは真の友人ではなかったのかもしれません。イエスは言われました。「私はあなた方を友と呼ぶ。」と。
神の御子が僕たちを友と呼んで下さるのです。この上ない喜びです。イエスはその生涯を僕たちの救いの為に費やされました。人には出来る業ではありません。そして最後には恥辱に満ちた十字架上で死を遂げられたのです。イエスが誕生した時に、東方の3博士が捧げものに持ってこられたものに、没薬があります。これは死者に使うものです。イエスは、誕生のその時から死が決定付けられていたのです。「友の為に命を捨てること。これより尊い愛はない。」。とイエスは語られています。人を人として愛さなくては出来得ないことです。
比叡山延暦寺の修行の一つに千日回峰と言うものがあります。行者は衆生救済のためにこのような厳しい修行を行うのです。僕は中学校の頃、千日回峰の修行をしている行者のTV番組を見たことを覚えています。千日回峰が終わると阿闍梨と言う称号が付与されます。この方は、千日回峰を2回行い、現在では大阿闍梨として比叡山におられます。中学校のころ見た面影が残っておられました。尊い修行であると思います。自らの為の修業ではなく、衆生のための修行です。宗教は異なりますが、これも人を思わなくては出来ない業であると思います。
クリスマスも日ごとに近づく中、明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。
今週の讃美歌
まぶねの中に 讃美歌121番【歌詞付き】remake イエスキリストのご降誕を心からお祝いいたします。メリークリスマス! (youtube.com)
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クリスマスまでの日数を数えられる時期となりました。昨年は、ドイツ在住の友人がお菓子や紅茶を送ってくださいました。その中に、アドベントカレンダーと言うものがあり、アドベントの日数の紅茶が入っていました。箱の底に出し口があり、そこから毎日一袋づつ出して使うものです。その紅茶は出すごとに異なった味のものでした。ドイツでも日本と同様にクリスチャン人口は減少傾向にあるそうです。ドイツはキリスト教国ですから、信徒の減少は痛手だと思います。しかし、日本は神道か仏教が台頭しています。教会のない町も数多くあります。キリストを信じても行く教会がないのです。この様は境遇にある方々は少なくはないと思います。この様な方々にも神は必ず救いをもたらせて下さると確信してます。
待ちに待ったクリスマス。しかし、一体何を待つのでしょうか。クリスマスケーキ?
クリスマスプレゼント? またクリスマスパーティー? などクリスマスを名にしたものが数多くあります。しかし、クリスマスは復活祭と並んで教会の一大行事です。キリストを置かないではクリスマスはあり得ません。キリストは神の御旨に従って、神の子でありながらも、馬小屋で生まれ飼い葉桶の中に寝かされました。キリストは、知者の知恵を辱める為に、強者の権力を無力にするためにこの世に生まれました。このことは聖書が証しています。
僕はキリスト信仰に深い知識は不要だと思っています。ただ一筋にキリストを信じ、キリストに身を委ねることが信仰の始めです。ただ教職者はそうではありません。信徒と言う羊の群れを神の御許に導かなければなりません。それにはそれ相当の知恵が必要です。理屈ではなく実践なのです。そう言えば神学校時代に実践神学を学んだことを思い浮かべました。
待降節の中、明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。
今週の讃美歌
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生きて行く上で、人生において一番厄介なのが人との関わりであると思います。人間関係です。僕たちは日々、様々な人との関わりの中にあります。それは良い人ばかりとの関わりであることは極まれなことです。人は誰も関わりたくないと思う人があるものです。そのことで心を病む人も少なくはありません。牧師とて同様です。信徒との関係に疲弊して、教会を去り行く牧師もあります。自らの心にどうしたら受け入れられない人を受け入れられるようになるのかは非常に難しい問題です。僕もその一人です。御言葉により頼み祈りを捧げる日々を重ねています。御言葉は、人はパンのみにて生きているのではない。神の口から出る一つ一つによって生きるのであると物語っています。御言葉は命の言葉です。人の言葉は、人を生かしも殺しもしますが、御言葉は命、生きる言葉です。また門をたたきなさい。そうすれば開けてもらえるであろうとも物語ります。これは一度門を叩いたからと言って、すぐさま門が開かれると言うことではありません。門をたたき続けなさいと言うことがこの御言葉の裏にあるのです。つまり祈りに祈りを重ねることです。神は必ず応えて下さると確信し、ついには逃れの道をも開いて下さいます。楽しいだけが人生ではありません。苦をいかにして克服するかが問われるのです。闇の中に光る一点の光。クリスマスも近くなりました。
その光に思いを寄せ僕たちの為に救い主がお生まれになったことを覚えつつ、新たな思いを以てクリスマスを迎えたいと思います。明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。
今週の讃美歌
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今月末で教会の一年が終わります。12月3日の待降節主日から教会の新年が始まります。ですから明日の礼拝を以て教会暦最後の礼拝となります。今年一年を振り返るとやはり時に応じて神の救いに与かることが出来たと感謝の念に浸ります。もう駄目だと何度も思いました。行く手を塞がれて途方に暮れたことも多々あります。しかし、道は開かれました。これが神の恩寵でなければ何であると言えるでしょうか。牧師も信徒であり、深き罪人であります。神の救いに与からなければ他によるべきものはありません。人は僕を捨て去っても神は僕を捨て去ることはないと確信しています。神との信頼関係です。罪深きところに、恵みはいやまさらん。と言う言葉があります。罪意識を認めることは、自らを消極的にしてしまいます。しかしその裏で神の大いなる恵みがもたらされることを知る時、この世に立ち向かう勇気が与えられるのです。神は、罪人が滅びることを喜ばれる方ではありません。神がイエスをこの世に遣わされたのは、イエスを信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を得るためであると聖書は物語ります。伝道の書は、その記載の中で、義人なし。唯の一人だに無しと物語っています。世間から善人と評価されている人物であっても、神の御前に「私は善人です。」と言うことは出来ません。神は、人の心の内を深く探り知られる方であることを忘れてはなりません。明日からまた新しい週が始まります。教会暦最後の礼拝の上に祝福がありますように、そして平安がありますように。
今週の讃美歌
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さて、人それぞれに重荷を負うて日を重ねています。様々な苦が生き様に影響を与えているのが現実です。僕は苦を苦ともせず、楽観的に生きている人を羨ましくさえ思います。この様な人は稀であるとは思いますが、苦に人生を左右されては生きる望みさえ消え失せてしまします。一番は日々の糧に事欠くことであると思います。霊的糧に満たされても、食に事欠くことは言葉では言いようがありません。しかし食に事欠く人々がおられる現実があります。食は命の源泉です。完全な祈りとも言われる主の祈りの中にも、日用の糧を今日も与え給えと記され、僕たちは日々この祈りを捧げているのです。霊的糧も僕たちにとっては重要なものです。心を養うものだからです。心が萎えてしまうと健全に生きることは出来ません。御言葉には力があります。その御言葉を糧に自らを奮い立たせて世に立ち向かってゆきたいと思います。心の問題は、食の問題と共に生きて行く上でとても重要な事柄です。健全な精神を養ううえで、神から給う御言葉、霊的糧は健全な体を養うことに繋がります、表裏一体をなすものです。苦の克服は神の御力に頼るほかはありません。日々、感謝と喜びを以て主に仕え生きて行きたいと思います。明日は収穫感謝祭です。日々、食に与かることの出来ることに心から感謝を捧げ、食に事欠く人々の為に祈りを捧げたいと思います。新たな週に平安がありますように。
今週の讃美歌
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僕たちは社会的責任を担って日々の生活をしています。それぞれに割り当てられた責任があると言うことです。また神に誓いを立て、日々祈りを捧げることを日課としている方々も多くいられることであると思います。僕もその一人です。しかし神に立てた誓いも、自らの思いであり、揺らぐことが多い現実があります。心に決めたことを成さず、反ってそれに反することが多いのです。イエスは言われました。「天を指して誓うな。地を指して誓うな。」と。人の心は移ろいやすく、思いは常に変わるものです。人の心の弱さの一編です。浮足立ち、吹く風の様に変わる人の心を捉えて下さるのは、神のみです。ただ神への思いと日々の祈りは心から離れることはありません。人の世では取るにも足らぬこの身をも、「子よ」と呼んで下さる神の愛は永遠です。人はいくら親しくしていても、何か気に入らないことの一つでもあると、そっぽを向いて去ってゆきます。寂しい限りの人間関係です。人をぞっこんに信頼するのではなく、やはり節度ある関係が良いと思うのです。僕にも何人かは信頼して付き合っている人がいますが、いずれは別れの時が来るのです。仏教でいうところの一期一会です。その別れを悲しみとしない為にも節度は大切であると思います。悲しみは心に深い傷を残すことが多々あります。それが苦に変わることも珍しくはありません。楽天主義を良しとするわけではありませんが、いつも喜び、たえず祈る姿勢こそ神に喜んでいただける生き様であると思います。明日からまた新しい週が始まります。新たな週に平安がありますように。
今週の讃美歌
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