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ひとときの栄華より。
家の近くに突如として現れた不思議な球体は、オニノフスベと言うきのこです。直径15cmくらいです。オニノフスベの言葉の意味はよくわかりませんが、フスベとは燻す(いぶす)と言う意味があります。5年ぶりに現れました。

立秋を過ぎると、残暑と言うそうですが、この暑さは残暑と言う言葉は不適当ですね。しかし夜になるとやはり以前とは違い、ずいぶん涼しくなるようになって来ました。夜の茂みの中では、秋の虫の声が多く聞こえます。アキアカネも群れになって、飛び交ってる光景を目にします。暑さの中にも背面では秋が少しずつ進んできています。

今年の夏は、異常な暑さ。異常気象と誰もが納得できます。この異常な気象には、人類の関与が否定できないと思うのです。二酸化炭素による温暖化、山林の放置による保水力の低下とそれが引き起こす土石流や洪水。多くの科学者が警告しているにも関わらず、その言葉に耳を開こうとしないような気がしています。

確かに物資は豊かになり、欲しいと思う物の多くは手に入れることが出来る時代です。炊飯器、洗濯機、テレビなどは、私たちの生活を変えてきました。かつて、NHKの番組に”プロジェクトX”と言う者がありました。その番組を見ていると発想の原点にあるものは、人を助けるためにと言う思いからでした。そして今、私たちはその恩恵を受けているのです。
人のとどまることを知らない欲求を停めることは出来ません。日進月歩で便利な物がどんどん世に送り出されています。スイッチを入れればお湯が沸く、クリック一つで世界に繋がる。デジタル化はいまや当たり前。しかしあまりにも便利さを追求することで、なくしている物、忘れている物があると思うのです。様々な便利さをどこまで提供するのか。本当にそこまでの便利さを消費する者が求めているのか。人を助けるための便利さが、そこにあるでしょうか。

本来、人の生きる環境とはどのようなものであるかを、考える必要があると思います。新しい技術によって生み出される物に、飛びつくことを悪いとはいえません。しかし、足元をしっかり見て歩みましょう。一歩先には、深淵の死の淵が待ち受けているかもしれません。この時代のひと時の栄華よりも、次の時代を担う者たちが心身ともに豊かな生活が出来る環境を整え、維持してゆく事が今の時代を生きる私たちの役目であると考えるのです。

 
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納得できない
 

ルカによる福音書1511節〜32

 

 

 

ルカによる福音書15章は、譬中の譬、また福音書中の福音書、さらに聖書中の聖書と言われる箇所です。

 この15章は、三つの譬から出来上がっています。第一の譬は、99匹の小羊を野に残しても一匹を捜し求める羊飼いの話です。第二は、10枚の銀貨のうちの一枚をなくした女の人が、家中を探し求めると言う話です。そして第三は、有名な放蕩息子の話です。この三つの話がセットになって、15章がまとめ上げられています。

 これらの譬の背景となった言葉があります。1節〜2節を見てみましょう。 

 

“さて、酒税人や罪人たちが皆、話を聞こうとしてイエスに近寄ってきた。すると、パリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人達を迎えて、食事まで一緒にしている。」

と不平を言い出した。“

 

パリサイ人や律法学者たちが、主イエスに攻撃を仕掛けてきたわけで、批判の剣を抜いてきたことに対して、主イエスが応えておられるわけです。

 神をまだ信じていない者にではなく、信徒にでもなく、宗教的専門家に対して語られたこの譬は、非常にレベルの高い譬と言うことが出来るかと思います。

 

 この放蕩息子の譬を、二つに分けて見る事が出来ます。一つは、放蕩息子と言われる弟息子について、そして二つ目は、その兄息子についてです。

 

 内容を見てみましょう。

 ある人に二人の息子がいて、その弟息子のほうが父親に、父親の財産にうちで私が頂く分をくださいと言いました。多くの場合、財産分けは、父親が死亡したときであったようで、このように父親が健在のうちに財産分けを申し出ることは、大変失礼なことで、これほどの親不孝はないと言う説があります。ここでは、父親はすんなりと弟息子に財産を分け与えています。弟息子だけにではなく、二人に分けてやったのです。財産分けの割合は、父親が律法の規定を守ったとすれば、兄息子に3分の2、弟息子に3分の1となります。

 弟息子は、その財産を全部お金に換えて遠い国に旅たちました。この時代の財産の生前贈与では、財産の管理権は父親にありました。弟息子は、お金に換えた財産すべてを自分の物にするために、父親の権力の及ばないところへ出て行ったのです。

 さて、放蕩の限りを尽くした弟息子は、お金のすべてを使い果たした上に、泣き面に蜂とでも言いましょうか。その地方に飢饉が起こり食べることにも困窮したのでした。お金がなくなると共に、楽しみは消えうせ、そして弟息子を助ける友達もいなくなってしまったのです。

 今の時代にもよくある話ですね。大金持ちになったり、有名になったりすると親戚は友達が増えると言われます。しかし状況が逆転すると、こうした者たちは、離れてゆきます。所詮、卑しい下心を持った親戚、友達なのですから。

 

 生活に困窮した弟息子は、その国のある人のところに身を寄せます。この人は、ユダヤ人がもっとも忌み嫌う不浄な動物である豚を飼っていることから、異邦人であることがわかります。その人のところで豚の世話をするのです。弟息子は、豚に餌として与えられているイナゴマメを食べてでも腹を満たしたかったと記されています。イナゴマメは、貧しい人々は食用としたそうです。しかし、ここでは豚の餌なのです。この豚の餌すらも食べたいと思う惨めさと、誰一人、弟息子に食べ物を与える者はなかったと言う、言いようもない孤独感は、状況は異なりますが、私にはわかるような気がします。

 

 さて、ここで弟息子は我に返ります。自分の置かれている状況に目覚めえて、帰るべきところは父のところだと意を決するのでした。

 ここのところが、弟息子についてのポイントです。17節から18節を見てみましょう。

 『そこで彼は我に返って言った。・・・お父さん、私は天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。僕の一人にしてください。』この我に返ったときが、悔い改めの時なのです。父親の権力の及ばないところに逃れて、そこで自己中心に、気の向くままに生きてきました。しかしそのような生活にも限界があります。『悔い改め』はヘブル語では、帰ると言う意味があります。弟息子は、自らの状況に目覚め、我に返り、父の元に帰る決心をしたのです。

 

 父親が弟息子を迎える様が、20節以降に記されています。

 父親は、弟息子の姿を見るや、憐れに思い、走りよって首を抱き接吻した。・・・そして一番よい服を持ってきて、この子に着せた。手に指輪をはめてやり、履物を履かせた。更に祝宴を始めた。

走りよってと言う部分ですが、当時のユダヤ世界では、父親は威厳を持って堂々としていなければならず、いかなる場合でも浮き足立って軽い調子で飛び跳ねたり、走ったりすることは無いと言われています。父親の喜びようがあらわにされているところです。また、一番よい服は、その人の社会的地位を表しました。指輪は、その人の権威を表しました。そして靴を履くものは、自由人を表すものでした。奴隷や僕は、裸足でいたのです。

父親は弟息子に対し、より良き物を与えたのです。そして、一言として弟息子を責めてはいません。ここに父親の愛があります。また、父親の喜びの姿が祝宴によって見ることが出来ます。当時、肥えた子牛と言うものは、特別なもてなし用に飼育されたものでした。それを食べて祝うのです。この上ない喜びであったに違いないのです。

 

 最初に、この15章は、三つの譬から出来上がっていると申し上げました。99匹の小羊を野に残しても一匹を捜し求める羊飼いの話、そして10枚の銀貨のうちの一枚をなくした女の人が、家中を探し求めると言う話です。

 『なくした物が見つかった時に、失われた者が悔い改めて帰ってきた時に、天において、どれほどの大きな喜びが、天使たちの間にあるか。』と言う第一の譬、第二の譬のポイントを主イエスは、弟息子に走りよると言う、当時では普通ではない父親の姿を通して表しています。罪を一言も責めずに、悔い改めようとする弟息子の言葉をさえぎり、無条件の赦しを与えているのです。

 神は、過去にどのようなことをしてきた者でも、悔い改めて帰って来るならば、一言も責めることなく、必要なすべてを、そして約束した救いの全部を同じように与えると言っておられます。これが福音なのです。

 

 この話は、聞いていたパリサイ人や律法学者たちは、一般的な意味では『その通りだ。』と納得したと思います。

この放蕩息子の譬のうち、ここまでは、第一の譬、第二の譬を更に深く掘り下げたものです。実は、ここまではお膳たての部分で本筋は、この後の部分になります。ここからがパリサイ人、律法学者に宛てたメッセージなのです。つまり父親と兄息子の記事の部分です。

 

 兄息子は、畑の仕事を終えたのでしょう。家に着きました。そうすると音楽や踊りのざわめきが聞こえてきたのです。そこで僕から、弟息子が帰ってきたので、子牛を屠ったと聞かされます。働き者とも読み取ることの出来る、この兄息子にどうして祝宴のことが知らされなかったのかはわかりません。

 

では、会話の内容を見てみましょう。

『この通り、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけにそむいたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子ヤギ一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が娼婦どもと一緒にあなたの身代を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』

 この兄息子息子の言葉は、不満と批判に満ちています。また、父親への感謝と尊敬の念を伺うことは出来ません。また弟に対しては、断罪し軽蔑の言葉を向けているのです。

 兄息子にとって父親との関係は、愛と信頼ではなくて、仕えることと、戒めを守ることだったのです。ここでの仕えるという言葉は、「奴隷のようにして仕える」と言う意味の言葉が充てられています。兄息子は、子としてではなく、僕のように忠実に仕えてきた。或いは、自分は長年、父親の奴隷であったとでも言わんばかりです。

 言いつけといいますのは、律法を指します。言いつけにそむいたことは一度もありません。・・・律法にそむいたことは一度もありません。・・・主イエスは、パリサイ人や律法学者らに対しての皮肉を譬の中に織り込んでいます。

 そして、子ヤギは子牛に比べてはるかに安いものなのに、それさえくれなかったと父親をなじるのです。さらに、弟のことを「私の弟」とは呼ばず、言うにも事欠いて「あなたのあの息子」と呼んでいます。このことから兄弟間の愛情が全くなく、兄弟の仲が悪かったのだと考えることが出来ます。兄息子は、弟息子が羨ましかったのです。本当は遊びたかったのです。

 

 兄息子は、父親に一生懸命に仕えてきました。それは、財産をもらいたいからです。父親に取り入り、ひたすら仕えて、父が死ぬのを待って、財産をすべて自分のものにするためです。つまり、兄息子は、愛があって父親に一生懸命仕えているのではなく、権利を失うのが怖いからなのです。祝福を失うのが怖いからです。不安と恐れで、父親の顔をうかがいながら、表面だけ頑張っていたのです。

 もらいたい、得をしなければならない。父親を怒らせてはならないと、すべてが自分に与えられていると言う自らの背後にある祝福に気付くことなく、牛一頭、鶏一羽、友達と楽しむために欲しいとは言えずに我慢して、父親に気を使いながら、おどおどしながら仕えていただけなのです。

 父親は、『お前はいつも私と一緒にいるし、また私の物は全部お前のものだ。』と兄息子を諭します。

 欲しければ、いつだってお前は料理して、友達を招いて宴会をすることが出来るではないか。それをお前はしないだけだ。私はそれをしてはならないと言うほど、けちな父親ではないはずだ。お前は今日まで、私と一緒に生きてきて長男として、私の心がわかっているのか。本当に私を理解しているのか。こう言うのです。

 

 主イエスの声が聞こえてきます。『パリサイ人、律法学者たちよ。私が今、取税人たちと一緒に食事をしているのは、彼らの心の中に悔い改めの心が芽生えているからだ。

 彼らは今、父なる神の下に立ち返り、信仰を持って生きようとしている。死んでいた彼らが命を受け、失われていた彼らが見つけ出されたのだ。こうして喜びの食事を一緒にするのは、当たり前ではないか。』

 

 主イエスは、律法主義にとらわれ、律法主義に縛られ、すっかり旧約聖書の律法の本質を誤解してしまったパリサイ人、律法学者のご利益的な宗教心をこの譬を通して指摘されています。

『あなた方は、勘違いをしている。大変な思い違いをしている。そしてあなた方の熱心は、愛からのものではない。それは体裁であり、面子であり、祝福と利益が欲しいための、神の顔色をうかがう実に裏腹なものだ。表面だけを取り繕った矛盾だらけのものだ。あなた方はそういう信仰しか出来ていないので、今、取税人を迎えるこの楽しい食事の席にどやどやと土足で入り込んできて、これをぶち壊すような厳しい意地の悪い批判しか出来ないのだ。』

『先ずあなた方が悔い改めなければならない。天の父に対する考えかたを変えて、愛を持って父を信じ、喜びを持って父に仕え、信仰生活を喜びあるものとしなさい。

表面的に我慢して、犠牲をしっかり払っていれば、父に認めてもらえるなどと思ってはいけない。子牛を屠って楽しむときには、楽しめばよい。こういう愛の自由のある親子関係でなければならない。』

これらのことをパリサイ人、律法学者たちに迫っておられるのです。そして福音の新しい時代が来るのだということをです。

 

私が信仰を持ったころは、この譬をおかしな話だと思っていました。納得がいかなかったのです。放蕩息子が親に喜ばれ、まじめに働いている兄息子が、ないがしろにされているように感じたのです。・・・・おそらく一般の人は私のように感じると思います。

しかし、私たち信仰者は、聖霊を頂いていますから、聖霊の導きと言うものに知らずして与っているので、これはこうなんだろうなぁと言うことが、わかってくるのですね。

 

神の愛、十字架の無条件の赦しは、悔い改める者に対して一言も責めないのです。走りよって、最高の服、指輪、靴、そして子牛を屠って迎える。このどれを取り上げても、福音が輝いていると思います。私たち一人ひとりも、このすばらしい福音の中に生かされているのです。このことを覚えつつ、今週も信仰の歩みを続けてゆきましょう。
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終戦に寄せて
 教会に通い始めた頃のこと。終戦の日を迎えた。そんな折、礼拝の説教で終戦ではなく、敗戦だと語った牧師がいました。僕は終戦で良いと思います。敗戦は戦勝に対する言葉ですから、僕は戦争の勝ち負けにはこだわりたくいと思うし、もしあの時日本が勝っていたとしたらもっと恐ろしいことになっていたかもしれない。
 20年ほど前に沖縄を旅行し南部戦跡を見学しました。つい最近はTVでアメリカ軍の沖縄戦の記録映画を見て、あの場所で起きたことなんだと、見てきた記憶と重ねてみました。
 その時のバスのガイドは、国敗れて山河在りといいますが、沖縄戦では山河もなくなってしましたと案内してくれました。確かに離島の戦況は、山の形が変わるほど激しいものであったらしい。

 日本の人口の7割が戦後生まれになったそうです。僕たちが後世に伝えなければならないことは先の戦争の悲惨さはもちろんだけど、戦争の経緯、そして世界に対する日本の責任だと思います。広島に、そして長崎に原爆が落とされ、東京、名古屋などの都市が空襲にあい、何も罪のない人達が命を落としてしまった。間違いなく戦争の被害者ですが、世界に対しては加害者でもあるのです。それをはっきりさせないままでは本当の終戦にはならないと思います。
 教科書検定制度の中でこれらの問題を扱った教科書は検定から落とされてしまうという現実、僕は真実を知り、そして語り継ぎたい。靖国問題、国旗の問題、国家の問題・・いつまで続くんだろう。
 戦時中、神社を格付けし国民の意思を高揚させたと聞いたことがあります。僕も町にある神社も数年前に金幣社に格上げされたと町内の新聞に祝辞が載せられました。未だ、神社の神主が町役場から報酬を貰っていると思っている人が多くいます。・・そんなことはないと思いつつも確かめたことはありませんが。神社本庁また神社庁が国の機関だと思っている人も少なくはない。こう言う意味でも地方農山村では精神的な面で終戦とは言えないと思います。

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癒しの光あり


この空の下に、人それぞれのいきざまがあるんですね。
過の日に川遊びをしたのも、せみ時雨の中をおつかいに行ったのも、親族を看取ったも、そして友達と出会ったのも、この大空の下でした。
人は様々でも同じ大空の下を、同じ光に照らされて生きてきたし、これからも生きてゆきます。


空は時を越えて、僕達を包み込んでくれているように思うのです。闇の中に輝く星の光、静寂の中でその星を見ていると宇宙に吸い込まれてゆくような気分になります。夜空は魅力的です。nouzenkazura

ペルセウス座流星群、まもなく接近です。殺伐とした社会の中に投げ出されあえぐ日々、流星の光に願いを託し、無限の宇宙に身を投げ出してみませんか。

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