わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。
ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
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私の母は子供のころ、秋になると山へエビを取りに行ったと聞かされています。山にエビなどいるはずがないと思われるでしょうが、山にはエビがいるのです。正しく言えばエビが生えているのです。さて一体エビがどんな姿で生えているのでしょうか。
エビとは古い言葉で、山葡萄を指します。漢字で葡萄と書いてエビと読みます。海のエビとは別物です。山葡萄は古くは、エビカズラと呼ばれたそうです。私の母の生地 あららぎでは山葡萄のことをエビと呼んでいたそうで、今に息づく古い言葉です。私たちの身近にも、エビヅルと言うブドウに似た植物がありますが、このエビもブドウを意味するものかもしれません。エビ茶色のエビももともとは、山葡萄のエビが語源です。
私がブドウの栽培を始めてから、7年ほどになります。専門に栽培されている方に対しては、失礼な言い方になりますが、ブドウの栽培はそんなに難しくはありません。私はかねてからブドウを作りたいと考えていました。それは、子供のころに見た映画、『ひとふさのぶどう』の一こま、先生が軒先になっているブドウの実を採って子供に与えるシーンがあったのです。この一こまのシーンがずっと脳裏に焼きついていました。子供ながらに大きくなったら、あの先生のように子供にブドウの実を採ってやりたいと思ったのです。
まあ、それは現実とはなりませんが、このことと私が果物好きな性分と言うことがブドウ栽培を始めた訳です。
本日の選んだ聖書の箇所は、主イエスが弟子たちに語られたブドウの木と枝、そして農夫の譬えです。内容を見てみましょう。先ずブドウの木、そして農夫の関係について、主イエスは、このように説明されました。
私はまことのブドウの木・・つまりブドウの木は、キリストを指します。そして、ただのブドウの木ではなく、まことのブドウの木なのです。
主が良くして下さるにも係わらず、良い実を結ぶブドウに譬えられたイスラエルは、堕落と背信行為を繰り返し、神の民としての祝福を受けることが出来なくなっていました。しかし、主イエスにつながるとき、私たちは良い実を結ぶブドウであり、まことの神の民イスラエルとして回復されると言うことが、この『私はまことのブドウの木』と言う言葉の中に暗示されているのです。
そして、私の父は農夫です。・・農夫は天の父を指します。
そして、枝について二通りのものがあると言われています。ひとつは、豊かに実を結ぶ枝です。そしてもうひとつは、実を結ばない枝です。豊かに実を結ぶ枝に対しては、さらに豊かに実を結ぶように、農夫である天の父が、手入れをなしてくださる。そして実を結ばない枝に対しては、農夫である天の父が取り除かれると記されています。さて同じ枝として実を結ぶか、結ばないかの決定的な違いは一体、何なのでしょうか。・・・それは、その枝がまことのブドウの木につながっているかいないかと言うことです。実を結ぶ条件はただ一つ、その枝が木につながることなのです。まことのブドウの木につながってさえいれば、どんな小さな枝であっても実を結ぶことが出来るのです。
果樹の剪定の時期は、早春の寒い時期に多く行われるようです。私もこれからの時期にブドウの剪定をします。ブドウの剪定は比較的簡単で、昨年伸びた枝の2芽を残して切り落とします。これと同時に、重なり合った枝は元から切り落としますし、弱く細い枝も切り落としてしまいます。剪定の際には、このようにしますが、2節に記されている、「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。」この言葉を見るとき、ブドウの枝であるはずの私は、取り除かれてしまうのではないだろうかと言う、不安がないわけではありません。実を結ばない枝というのは、まことのブドウの木につながることのない枝、まことのブドウの木から命の養いを受けていない枝、さらに言うならば、まことのブドウの木から命の養いを受けようとしない枝です。まことのブドウの木から命の養いを受けようとしない枝、これはキリストとの関係を絶ち、自分本位に自己中心に生きようとする人間の姿かもしれません。
エレミヤ書にこのような言葉が記されています。
『私はあなたを、甘いブドウを実らせる確かな種として植えたのに、どうして私に背いて悪い野のブドウに変わり果てたのか。』<エレミヤ書2:21>
この言葉はイスラエルが神との契約を破り、みだらな行いをしたり、バアルと言う異教の神を礼拝する行為に走ったことに対して、預言者エレミヤに臨んだ神の言葉です。
イスラエルと神との間に結ばれた契約とは、神がイスラエルを御自分の民となさり、イスラエルが神をイスラエルの神とするということです。神はイスラエルの神として、彼らを愛し、守り、助け、導くことを約束し、その約束を忠実に守り行われます。それに対して、イスラエルもまた、神をおのが神とし、神を愛し、神のみに従い、その戒めを守ることを約束するものでした。イスラエルは、その契約を破ったのです。実に神に対する背信行為です。神の嘆きが聞こえてくるような気がします。
さて、見てまいりました1節から2節は、私、つまり主イエスと枝との関係について譬えて語られた箇所でした。続いて4節以降を見てみましょう。ここでは、ブドウの木である私主イエスと、枝であるあなた方つまり弟子たちの関係について語られるのです。ここでは、あなた方は枝ですと明言されています。今ここにいる私たちも、キリストの弟子であることは間違いありません。
枝がブドウの木につながっていなければ、決して実を結ぶことは出来ません。このことと同様に、私たちも主イエスにつながっていなければ、実を結ぶことは出来ないと語られています。そして主イエスは、人が私の中にとどまり、私もその人の中にとどまっているなら、そう言う人は多くの実を結びます。私を離れては、あなた方は実を結ぶことも何もすることが出来ないからですと、さらに具体的に主イエスと弟子たちとの関係を示されました。
6節です。主イエスにつながっていないない人がいれば、実を結ぶことが出来ない他の木の枝と変わらないので、人々はそれを集めて火に投げ込む。この箇所は、2節と合わせてみてみましょう。2節には、私の枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除きと記されています。神は、実を結ぶことの出来ない、かよわい者を切り捨ててしまわれるのでしょうか。もしそうだとしたら福音と矛盾することになるのではないでしょうか。
私が学んだJTJ宣教新学校の岸学長も、このところの解釈に苦慮されたそうです。
岸学長は、ある人から悩み事の相談の手紙をもらったことがありました。その内容は、『牧師夫人から、「あなたはしっかりした信仰に立ち、教会奉仕にも心を入れて励まないと、実を結ばない枝として切り捨てられるのですよ。」と言われて悩んでいます。もう教会に出かける勇気も失いました。心配と恐れと自信喪失で、半病人のような毎日です。』と言ったものであったそうです。岸学長は、考えて悩んだ末に、確信を持って返事を書きました。
『絶対に大丈夫です。安心してください。イエス様の福音全体の真理から明確なことは、イエス様は病人を救うため、罪人を訪ねて救うためにこられた方です。小さい者、弱い者、愚かな者、迷い出た者、無きに等しい者、成績のないものをこそ、切り捨てないで、養い育て救いの完成へ導いてくださる方ではありませんか。安心してください。実を結ばない枝とは、成績・実績のことではなくて、キリスト信仰と言う実を結ばない者、つまりキリスト信仰を捨ててしまった者のことを意味しているはずですから。』と返事を書かれたのです。
岸学長は、『私の枝で、実を結ばないものは、父がこれを取り除き・・』この文には、意味の解釈や実際のブドウ園の現場から、『取り除き』と訳されている言葉、『切除』『切り捨て』と訳されていることに問題があることが、ひとりの神学生のレポートによってわかったと言われました。
その神学生のレポートには、このように書かれていたそうです。
『取り除き』と訳される用語は、ギリシャ語の『アイロー』でその意味は、取り除くと言うことの前に、『(十字架を)背負う』『持ち運ぶ』などと言う意味がある。
実を結べない弱い枝、病気の枝を丁寧に養い育てる農夫なるお方、父なる神は、その枝をそっと持ち上げて、汚れや土を丁寧に洗い落とし、まさに治療を施し健康を回復させてくださる。
この神学生の解釈は、岸学長にとって目からうろこ、人生最大の発見の一つになったと言われます。
主イエスの時代のユダヤのブドウ畑は、現代の私達が身の回りで目にするような、高い棚での栽培は行われていませんでした。ブドウは地に這わせ、栽培されていたのです。そのような状況で栽培されているブドウの弱い枝を、父なる神はそっと持ち上げて枯れてしまわないようにと手厚く扱われるのです。『取り除かれる』と言う翻訳とは正反対の神の愛が示されるのです。
続いて6節の、私につながっていない人がいれば、枝のように外に投げられて枯れる。この言葉です。冒頭にお話しましたように、この譬えは弟子達を前にして語られたものです。
ここでは、私につながっていない人、と言う表現がされており、私につながっていない枝とは言われていません。ここでは、人について具体的に示されているわけです。では、枝のように外に投げられ枯れ、そして集められて火に投げ入れられて焼かれてしまう人とは、どのような人を意味するのでしょうか。それは、キリストを捨てた人のこと。ユダを指していると考えるのです。この譬えの後、主イエスは、裏切られ迫害を受け、十字架への道をたどります。主イエスは、ユダの裏切りを、この時にはもう察しておられたと思います。ユダは、かつては主イエスの弟子でした。しかし、どこかで主イエスを捨ててしまったのです。主イエスにつながっているようには見えても、まことの信仰を失ったとしたら何の意味もありません。
『主よ、主よと言うものが皆、天国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである。』マタイによる福音書のこの言葉が思い起こされます。ただ天の父の御心を行うこと、それはキリスト信仰です。
エゼキエル書15章2節から5節をご紹介します。」
『人の子よ。ブドウの木は森の木々の中で、枝のあるどの木よりも優れているであろうか。ブドウの木から、何か役立つものを作るための木材が取れるだろうか。それで、何かの器物を掛ける釘が作ることが出来るであろうか。それが火に投げ込まれると、火はその両端を焼き、真ん中も焦がされてしまう。それでも何かの役に立つだろうか。完全なとき木でさえも何も作れないのに、まして火に焼かれ焦げてしまったら、もはや何の役にも立たないではないか。』
このように私たちは、キリストを離れては何も出来ないのです。
私たちの信仰を見つめなおしてみる時、私たちが主のもとに留まり続けるとことは決してたやすい事ではありません。だれもがそう言う弱さを持っているのです。弟子たちの生涯について、私たちは聖書を通して知ることができますけれど、あの弟子たちの信仰も、それは弱さを抱えたものであることが記されています。しかし、私たちの信仰というのは、私たちが主イエスにつながっているということの背後に、主イエスが私たちにしっかりとつながっていてくださるという、主イエスは決して私たちの手をお放しにならないという、恵みの事実があります。
そのことは主イエス・キリストがお生まれになり、十字架へと歩み、よみがえられる、その出来事によって更に明らかにされていきます。主イエスを十字架につける、そのような罪人のために神が、御子を世に遣わしてくださり、その十字架の死と復活、昇天によって、神の側から、神のもとへと至る道、救いの道を与えてくださったのです。私たちの救いというのは、まず神の側から差し出されているのです。
農夫である天の父は、弱い枝を決して見捨て、切り捨てられるようなことはなさらない。主イエスにつながる枝、ただキリストを信じる信仰があれば天の父は、刈り込みをして、手入れをして、養い育て、より多くの実を結ぶようにしてくださるのです。それは、神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する、この三つの愛に生きる実なのです。