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あがない
 

 震災から半月が過ぎます。日々、マスコミによって被災地の状況が伝えられ、被災した方々の苦悩を見聞きするたびに胸が痛みます。震災と原発、私たちは、それぞれに命をかけて働いている人がいることを忘れてはならないと思うのです。

 震災の日、津波の襲来を知らせ住民を避難させるために、町内を駆け巡った町内会役員の方々、・・・津波に呑み込まれ亡くなられたそうです。

町役場の防災担当の女性職員の方は、津波の襲来と避難を呼びかける広域放送を担当されていたそうです。「津波が襲来しています。高台に避難してください。港や海岸には近づかないで下さい。・・津波が襲来しています。高台に避難してください。港や海岸・・・・」

放送は途切れました。緊迫した放送の声に住民の人々は、ただ事ではないことを悟ったそうです。この女性は建屋ごと津波に呑み込まれ亡くなりました。町の住民に危険を知らせ避難させるために最後の最後まで自らの持ち場を離れることはなかったのです。この女性の両親は、「あなたの娘さんのお陰で助かった。」と多くの人が声をかけてくれるけれど、娘には生きていて欲しかった語られました。まさに命がけで人々の命を救ったのです。このように殉職された多くの方々の尊い命があることを風化させてはならないと思うのです。

 

 そして福島原発では、これ以上の被害を出さないための工事をされている人がいるのです。被爆し自らの健康を損なうかもしれないのです。昨日は、配線工事をしていた作業員3名が被爆する事故がありました。この方々の労が実を結び、そして無事に工事が完了することを願ってやみません。

 

・・・僕は昨年、按手を受けました。按手式の中で、『宣教のためならば、命を差し出すこともいとわないか。』と問われました。僕は他の神学生同様、『はい。』と答えたのです。これはその覚悟があるかと言うような精神論ではないと言うことを、このたびの震災で人を救うために犠牲となられた方の生き様を思うとき、深くこの問いの持つ意味を噛みしめています。

 

 イエス・キリストは、その生涯のうちに何一つ罪を犯すことはありませんでした。多くの人の癒し、新しく生きる命を人々に与えられたイエス・キリストを、当時の人々は罪に落としいれ十字架につけて殺したのです。十字架の上でイエス・キリストが死んだ。キリストが流された血によって、私たちの罪のすべては赦されました。一人の死によってすべたの人々が救われた。書き記すことが出来ないほど、語りつくせぬほどの神の恵みがここにあります。
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震災に寄せて
 

人の世がどうあろうと、季節は巡ってきます。三寒四温の時期を経ながら、春の気配が色濃くなりつつあるこの頃です。家の前の草むらにクロッカスの花を見つけました。東北太平洋沖地震で瓦礫と化した町にも、遠くない日にきっと花が咲き、笑い声が響くようになることを願います。

今日は2010年度のJTJ宣教神学校の卒業式でした。今年も、キリストの心を心とせよと教えられた多くの神学生が卒業し、それぞれ与えられた場所での働きを始められることと思います。

 東北太平洋沖地震からまもなく
10日が過ぎようとしています。被災された方々に、神からの慰めと励ましが与えられますように。そして犠牲となられた方々には、神の下で安らぎが与えられますようにお祈りします。

 

被災地に向けて、様々な救援物資が送られていることをニュースや新聞で目にします。その状況を見ていると、僕には何が出来るのだろうと考えない訳には行きません。現状では、直接的には何もすることが出来ない現実があります。やはり、救援募金がいいのかもしれません。被災地向けに多くの物資が送られる中で、この町でもガソリンの給油制限が始りました。トイレットペーパーなども思うように買えなくなりました。マスコミは、買いだめをしないようにと報道していますが、乾電池はどこの店に行ってもありません。入荷の予定もたたないそうです。被災地へ少しでも多くの物資を送るため、僕も無用な買いだめはやめて欲しいと思うのです。

 先日、時折訪問しているご老人から電話がありました。乾電池が買えないので、どこかに売っていたら買ってきて欲しいと頼まれました。しかし、どこへ行ってもないのです。被災地向けに多くの物資が送られ中で、無用の買いだめされてしまうと生活弱者と言われる方々が求めている物まで、無くなってしまうのです。買いだめしてどうするんですかと問うてみたいです。

 

復興までの道のりは、想像を絶するほど遠いように僕は思います。国を挙げて、国民が一丸となって支援をしなければなりません。被災地の復興のために多少の不便はあっても良いではありませんか。海外からの救援も多くあります。それを受けながら同じ国の国民が何もなさないでいられるはずがないと思います。喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣く。そんな心を培いたいと思います。

喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。

<ローマ人への手紙 1215節>
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時は満ちた。
  

 東北・関東地方の地震の被害の様子には言葉がないくらいです。山国に住む僕は津波に遭うことはおそらくないと思いますが、津波の恐ろしさを改めて知りました。被災された方々にお見舞いを申し上げます。

 僕が幼いころ、家の台所の柱に“あわてずまず消火”とかかれた札が貼ってありました。火事のときの心得だと思います。まだ文章をどこで区切るのかが判らず、そして漢字を読むことが出来なかった僕は、“あわてずまず◎×△□???”と読んでいました。当然どういうことが書いてあるのかは、理解できていませんでした。

 

 当地でも、あちらこちらで梅の花が咲く時期になりました。この時期に咲く梅の花を見て春を実感するのですが、それと同時におもうことは、“咲き急がないように、時期を待って”と言うことです。早くから花を咲かせると、その後に必ず訪れる寒波や雪に花が痛んでしまい、実をつけることが出来なくなってしまうからです。あせることなくじっと時の満ちるのを待つこと。人の人生にも当てはまることかも知れません


 僕の知る中で、この世の中に既に時が満ちていることがひとつあります。イエス・キリストがガリラヤと言うところで、語られた言葉です。『時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』。福音とは、嬉しい知らせ。イエス・キリストが教えられた神の国について・・神の救いについて。現在もなお満ちている時、福音に触れる旅を始めてみませんか。
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青春を生きるとき
 

 今年の復活祭はいつになるかと暦を見てみました。復活祭は、春分の日の後の最初の満月の後の日曜日になります。今年は、4月25日です。

人生を季節に譬えると、冬は忍耐のときとなるのでしょうか。冷たく寒く、そして暗い時期を乗り越えてやがて花咲くとき。春の訪れです。人生の春・・青春のときかもしれません。僕の青春は、怖い者知らずでした。仕事にも遊びにも、日々充実感を味わっていました。歳を重ねた今、そんな青春のときにも神は人生の礎をしっかりと固めるようにと、僕に働いていてくれたことを思うのです。感謝。



『大きな事を成し遂げるために、

  
力を与えて欲しいと神に求めたのに、
 謙遜を学ぶようにと、弱さを授かった。

 

  偉大なことができるように、健康を求めたのに、

  よりよきことをするようにと、病気を賜った。

  幸せになろうとして、富を求めたのに、
 
賢明であるようにと、貧困を授かった。

 

  世の人々の賞賛を得ようとして、成功を求めたのに、
 
得意にならないようにと、失敗を授かった。

 

 求めたものは一つとして与えられなかったが
 願いはすべて聞き届けられた。

 

  神の意に沿わぬ者であるにもかかわらず、

  心の中の言い表せない祈りは、すべて叶えられた。
 
わたしは最も豊かに祝福されたのだ。』

 

ニューヨーク大学リハビリテーション研究所の壁に刻まれた一遍の詩

 

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新しい人生の始まり
 

今日は県内の高等学校の卒業式でした。僕の卒業した高等学校では、在校生が卒業生の制服の胸に、シンビジウムの花で作った小さなコサージュを付けてくれるのが伝統でした。12年間の生徒と言う名の中で、親や学校に守られながら過ごした期間に区切りをつけて、新しい一歩を踏み出そうとしているわけです。若者の希望を踏みにじるような社会であってはならないと思います。


 

 
  そして今日は、身近な方が亡くなり葬儀がありました。平和の主、慰めの主がご家族の上に臨まれますように祈ります。

 聖書は、人の人生は死によって終わらないことを教えています。『わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない』。と教えています。私とは、イエス キリストです。

 亡くなった方は、天に召され神のもとでの新しい人生が始るのです。
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