かれこれ25年ほど前の話です。母が畑を耕していると、模様の入った焼き物のかけらがよく出てくると言うのです。このことは随分前からあったことでしたが、あまりにも出てくるので、地元の歴史に詳しい方にみてもらったそうです。そうしたところ、2000年ほど前の土器のかけらだと言うことが判りました。
僕は当時浜松に住んでいました。そう言ったものにも大変興味があり、帰省するたびに畑へ行って土器探しをしたものです。どんな物が出てくるか胸がドキドキする思いでした。畑からは、囲炉裏の跡が3箇所見つかり、焦げた壺が出て来たとも聞いています。出土した土器のかけらには文様が描かれており、緻密な線で飾ったものもあれば、くっきりした幾何学的模様のものもありました。
現代に通じる美的感覚があったのです。どんな人がここでどんな暮らしをしていたのか。何を食べていたのか。その末裔は現在もいるのだろうか。もしかしたら僕の先祖ではなかろうかなどと思いは膨らみます。歴史の教科書でこの時代のことを学びました。しかし、僕の考え方がひねくれているのかもしれませんが、当時の暮らしを目で見た人はいないので、出土品などから推測されるものでしかないと思うのです。
パウロは自らを土の器と言いました。弱く無価値な存在であると言うのです。
神は地の塵で人を造られました。このことが土の器の由来です。神は天地創造によってあらゆるものを造られました。その中で、人を地の塵から造られたのです。人を造るには金もあり、銀もあったはずです。神は人を神のかたちに似せて造られたと創世記に記されています。神のかたちに似せた人を地の塵で造られたのは何故でしょうか。
丈夫なもので造ると、人同士がどちらが強いかと争いが絶えないでしょう。美しく輝くもので造ると、人はその美しさの故にきっと高慢になります。
お互いの弱さを認め合うために、そしてお互いの弱さを担うために。高慢にならないために、お互いに謙遜を身につけるために。このようなわけで、地の塵を使って人を造られたのかもしれません。神は、天地創造の6日目にご自分の造られたものをご覧になり、極めて良いと言われました。神の祝福を受けた土の器。これはあなたであり、僕であります。
自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。
<マタイによる福音書19:19>