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一粒の麦

関東甲信越東海地方が梅雨入りしました。5月に梅雨に入るということは、僕の人生の中では始めてのことです。これからの気象が心配です。

 ブログを通して、22歳の青年と知り合いました。僕がきちんと結婚していたとすれば、きっとこのくらいの年頃の子供がいたのだろうなと思います。彼は、農業に興味があるそうです。そして野菜を栽培する農園を持ちたいと夢を語ってくれました。そうした折、僕も畑を作っていて、もてあました畑があると話したところ、その畑を彼に使ってもらうことになったのです。早速、畑仕事に取り掛かりました。草をとり、耕し、畝を作り肥料を入れて種を蒔く。野菜栽培は、一粒の種を蒔くことから始ります。
 初めての畑仕事、楽しいと生き生きした彼の姿を見ることが出来ました。畑には、サツマイモ、獅子唐、バジルの苗を植え、枝豆、ニンジン、ゴボウとキュウリの種を蒔きました。





「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただ一つにて在らん。もし死なば、多くの実を結ぶべし。」<ヨハネによる福音書12:24  

これは主イエスが、御自分の十字架での死を、「麦」にたとえて語っておられるところです。主イエスは一粒の麦としてこの世に来られました。麦が地面に落されて、地面に落ち埋められてしまう。しかしそうすることによって、やがて芽を出し、成長し、多くの実を結ぶことになるのです。主イエスは、自らを献げて、すべての人に復活の命を与えました。ご自分が死んで、すべてを神様に献げることで、永遠の実が実ることを知っておられたのです。この主イエスの生き様は、私たちが豊かな実を実らせるために、二つの大切なことを教えてくれます。 

一粒の麦は、小さなものでしかありません。しかし、多くの実を結ぶことができる無限の可能性を持っています。一粒の麦は、実を覆っている殻を破らなければ、芽を出して、実を実らせることはできません。同じように、私たちが神の恵みである新しい復活の命に生きるためには、まず古い自分に死ななければならないのです。古い自分の生き方に固執していたのでは、新しい命に生きることはできません。  

そして、この「一粒の麦が地に落ちて死ねば」という死は、単に生き物としての死の話ではありません。愛による自己犠牲の話ですし、自分自身のプライドを捨てることや、自分自身の利己心を放棄することでもあるのです。そこにこそ、神の恵みが多く実るのです。

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救いの神か、滅びの神か
 

 春に花と香りを楽しませてくれた梅が実をつける時期になりました。もう少しすると梅雨入りです。奄美沖縄地方は、ここ10年間でもっとも早い梅雨入りでした。本州の梅雨入りも早まるかも知れません。そして田植えも始りました。神様、働く者の労を虚しくすることのないように、秋には豊かな実りを与えてください。


 

さて昨日のyahooニュースにこのような記事がありました。

 『与謝野馨経済財政担当相は20日の閣議後会見で、東京電力福島第1原発事故は「神様の仕業としか説明できない」と述べた。同原発の津波対策に関しても「人間としては最高の知恵を働かせたと思っている」と語り、東電に事故の賠償責任を負わせるのは不当だとの考えを重ねて強調した。今回の原発事故をめぐっては、安全対策の不備や人災だとの指摘が国内外から出ている。「最高の人知」や「神による異常な自然現象」という論理で東電を徹底擁護する主張には、「原発は安全」と説明されてきた地元住民らからも批判が出そうだ。』

 

 震災直後には東京都知事が、「天罰が下った。」と発言し問題となったことがありました。人の知恵の限界を感じると、神さまとか悪魔とかの仕業と責任を転嫁することは、神さまを冒涜すること、神さまに対して失礼だと思うのです。そう言う人が、臨在の神さまを信じているかと言えば、決してそうだとは思いません。

 このたびの事故を現実的に言うならば、危機管理の甘さを暴露したものだと言うことが出来ます。それにしても東京電力の会見の応答は、あまりにもお粗末にしか見えないのは僕だけでしょうか。

 ある人は飛行機を例にとって飛行機は大変便利な物ですが、その代償として墜落するかもしれないと言う危険をはらんでいることを承知して乗らなければならないと言いました。しかし、飛行機と原発では次元が違うのです。

 

 ローマ法王ベネディクト16世は、イタリア国営テレビの番組で、東日本大震災を経験した日本の少女の「どうして日本の子どもは怖くて悲しい思いをしなければならないの。」と言う質問に答えました。

 これに対し、ローマ法王は「私も自問しており、答えはないかもしれない。十字架にかけられたキリストも無実の苦しみを味わっており、神は常にあなたのそばにいる。」と答えました。

 神は常にあなたのそばにいる。あなたのそばにいる神、僕のそばにいる神は、滅ぼす神なのか、救いの神なのか。確かに旧約聖書には、神が堕落した人を滅ぼした記事があります。そして、私たちは最後の審判を受けなければなりません。ですが神は実に、「そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」このことを聖書は教えています。これが私たちの信じる神なのです。

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調和
 

 新緑が美しい時期になりました。広葉樹の新緑、そして杉の木も水を揚げ始め冬の間、赤茶色になっていた葉が緑を帯びてきました。

 僕の生活の身近にある多くの山は杉や桧が植林されてしまい、種々多様な木々の新緑の美しさを眺めることの出来る山は少ないです。山は複相林と言って、針葉樹、落葉樹などが混在している姿がいいそうです。植林された山は、必然的に単相林となってしまいます。これは山本来の姿ではありません。地に光が射さなくなり、下草も生えなくなってしまいます。このために地は保水力を失い、災害を引き起こすこともあるのです。ヨーロッパでは針葉樹の植林をする場合、その何割かを広葉樹にしなければならないそうです。人工林ながら調和のとれた山林を作ろうとしているのです。無くして来たものの復元と考えて良いかもしれません。自然から学ぶものは数多く、限りないと思います。

 デジタル化社会の中で、人は機器を使う者から機器に使われる者に変わって来ている気がします。アナログに立ち返れとは言いませんが、人本来のあり方を顧みることが時として必要なのではないでしょうか。大切なものは無くしてしまった時に、無くしてしまったものが、いかに大切なものであったかがわかると思います。

そのひとつ、悔いることのない様に、今を生きる人に求められるものは、神に立ち返ること。

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継続は力なるか
 

 5月には初夏と言う言葉が似合います。山は新緑に満ちて、さわやかな風が吹き抜けてと思っていたのですが、4月末からの不順な天候がだらだらしそうな雰囲気です。沖縄は梅雨入り。だいたい510日ごろだったように記憶しているのですが、今年は特に早いです。

さて、これからの天候がどうなるか気になります。去年のような猛暑はこりごりです。

 

 先日ふと街中で、警察官を見かけました。子供のころ親から悪さをすると、巡査に連れて行かれると脅かされたものです。警察官の制服は、国家権力の象徴のように思えてきます。福沢諭吉は、その中に武士がいたかどうか、様々な身分の人を集めたときに、人たちに着物を脱ぐように言い、裸になれば皆同じではないかと説いたそうです。身に羽織る物は、時として権威や身分を現すものです。警察官や医師のように職業を現すこともあります。

 『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。』これは、福沢諭吉の著書、学問の勧めの冒頭に出てきます。福沢諭吉は下級武士として、上級武士より何かと差別されるのに憤慨して、人間の平等を訴えた福沢諭吉の肌身から出た言葉のようです。


福沢諭吉についてネットで調べていたら、こんな文がありました

『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず。されど人は人の上に人を造り、人の下に人を造る。』随分な皮肉ですね。確かに身分の上下、富む者、貧しい者は人の世が生み出したもの。かつて室町時代には、有徳思想というものがあったそうです。これは、富を持てる者が持たざる者に施す。自らの富にあった施しを行う。見返りのためではない施しこそが徳であり、徳を持つ者こそ、富を持つ者という思想で、富む者が多く施しを行なったそうです。しかし、この後、戦国時代に入るとこの有徳思想も廃れていったとか。良いと思うことを継続することは難しいのも人の世ならではなのでしょうか
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