付知教会の会員の方が天に召されました。94歳だそうです。この方は以前は田瀬教会にご夫婦で通っておられました。とても仲の良いご夫婦に見え、羨ましい思いで見ていました。ある時の礼拝で、ご主人が説教の途中で居眠りをはじめたのです。そしたら隣に座っていた奥さんが、ご主人の肩をそっと叩いて、目を覚ませました。そして二人でニッコリ笑って目を合わせていた光景を思い起こします。ご高齢になり、車の運転も止められて、僕が付知教会の礼拝説教に行くようになってからは、礼拝には出席されていませんでした。
さて、死んでしまったら、すべてが終わってしまう。そのように考えてしまうならば、なんとむなしい人生でしょうか。しかし聖書は人の人生は、死では終わらないと教えます。死は眠りであって、御使いがラッパを吹き鳴らす時に、その眠りから覚め、甦る日が来るのです。
主イエスは眠った者の初穂として、死者の中から甦ったと聖書は語ります。甦るという事は、その文字を分解してみると、更に生きると書きます。まさに、この漢字の示すとおり、死んでも更に生きること、これが甦りです。もうひとつの『よみがえる』と言う漢字、『蘇る』とは意味を異にします。『蘇る』は、一時的な蘇生を意味します。主イエスは、人の世の最後の敵である『死』に勝ったのです。この恵みに僕もあなたも生かされているのです。
しかし、すべての人が復活するのですが、その復活が祝福になるとは限らないと聖書は教えています。「善を行った者は、甦って命を受け、悪を行った者は、甦って裁きを受けるのです。」(ヨハネによる福音書5章29節)
私たちが善を行うというのは、善い行いをすると言う狭い理解ではなく、(もちろん善い行いをすることは、とても大切なことですが。)自分の罪を悔い改めて、主イエスを受け入れ、神に従い、神にこの身を捧げて生きるということです。罪と言うと犯罪を思い起こしますが、具体的な犯罪行為ではなく、神の言葉を無視し、神に背を向ける自分本位の自己中心な生き方です。このことが神に対しての罪であり、悪なのです。
僕もあなたも、やがて死んで復活する時が来ます。その復活の日を、希望を持って迎えることが出来るでしょうか。
今、目の前にある二つの門があります。狭い門と大きな門です。そしてこれに続く二つの道があります。狭い門から続く命に至る道と、大きな門から続く道で、この道のいたるところは滅びです。人は誰もどちらかの門から入り、どちらかの道を歩んでいるのです。どちらの門から入り、歩みを続けるかと言う選択と決断を迫られる場面が、この先の人生に幾度となく訪れます。
二つの土台があります。岩の土台と、砂の土台です。賢い者は岩の上に家を建てています。愚かな者は、砂の上に家を建てます。
ともし火をともして花婿を迎える、賢い女たちと愚かな女たちがあります。賢い女たちは、予備の油を持っています。愚かな女たちは、予備の油を用意しません。
選択と決断は、一人ひとりに委ねられており、今日の選択が、永遠を決めてゆきます。
しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。