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欲の種類
 

人には、七つの欲があると言われています。食欲、金銭欲、物欲、色欲、権力欲、名誉欲、睡眠欲です。人は意識するかしないかに関わらず、いつも何らかの欲望を持って生きています。欲がなかったとしたら人ではなくなってしまいます。動物にも欲求があります。人と動物に共通する欲求があり、それを称して生理的欲求とか一時的欲求と言うそうです。

 人にある七つの欲のどれか一つでも強く顕して生きている人があるとするならば、恐らくその人は決してよい評価を受けることはないでしょう。そして人としてとても見苦しいものです。キリスト教徒は心の綺麗な穢れから遠ざかった清い人と思われているとしたら、それは間違いとしか言い様がありません。到底そんなことはあり得ないからです。だからと言って偽善者ではないと思います。

 僕はこのごろ思うのです。それは地位とか権力を得た者は、どうして自分自身が偉い物の様に立ち居振舞うのか。権力とか名誉がそんなに尊いものなのでしょうか。自分がこの立場にある間に、功績を残して名を残したい。人々から賞賛されたい。若き日の僕にもこのような思いが湧きたったことがありますので、その気持ちは判らないでもありません。

 

聖書は、誰も高ぶった思いを抱かず、謙虚であるべきだと教えています。そして僕たち一人ひとりは、神の前に何の功績もないのに、神はそう言う一人ひとりを神の子とされるのです。神の御前には、この世の価値など何の意味もない事を知る日がきっと来ます。

もし、自分が偉いものだと思っているのなら、その分を偉くない者に分け与える様に、そして権力によって、地位や身分によって語る者があるとしたら、人の前には強くても、神の前には惨めであること神は示して下さいます。

神の姿に似せて創られた『人』の最高の目的は、『神の栄光を顕し、永遠に神を喜ぶこと』です。

『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。』 

このところ少しばかり凹んでいました。そんな気分からか、今日は話のキレが悪いですね。

 


さて、息子と共に浜松へ遊びに行って来ました。連れて行きたい所がいくつも頭に浮かび、その全部を回ることは出来ませんでしたが、フルーツパークを見てきました。以前行った時に、ドリアンがあったことを思い出し園内を捜しました。前に食べたときは全くといって良いほど、あの有名な『くさい』匂いは感じなかったのです。それでもう一度と思いドリアンの置いてある店を捜し、食べてきました。

目の前に出された途端に『クサッ!』と感じました。どんな匂いかと言えば、ガスのような、タマネギの腐ったような、肉の腐ったような、生ゴミのような匂いです。匂いを除けば味は甘くて僕好みです。息子はその臭いに拒絶反応を示して、食べるのを断念。僕は臭いと味に満足してきました。

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揺るがぬ平安のうちに
 

 言うまでのことはありませんが、今年も猛暑。蒸し暑い日の後は、このところの雨です。少し涼しくなって過ごし易いとは言うものの、雨降りの日は気分がすっきりしないものです。お天気屋と言う言葉があります。積極的に良い意味では使われません。

 日々、天気が変わるように、気分の変わり易い人のことを指して言う言葉です。そう思うと、誰も多かれ少なかれ、誰も天気によって気分が変わるものです。さわやかに晴れた日は、気分がいいし、梅雨の時期のように雨がシトシト降り続くと、気分が滅入ります。蒸し暑い日には、体がだるくなり何もする気にならないこともあります。

 気分は天気だけでなく、身の回りに起こる様々な出来事によって左右されます。少しばかり掘り下げて考えてみると、そこには自分を取り巻く環境があると言えます。ですから自分を中心に考えると自分を取り巻く周囲が、気分を支配すると言うことになりはしませんでしょうか。常に変化し、何一つ普遍と言えるものがない世の中に生きている私達は、その波の中に呑み込まれ喘ぎ、そしてその中にも自己の存在を主張しているのです。自己存在の主張は、度を越えるとエゴでしかありません。ここには、世の波との調和はないと思います。

 誰も自己を捨てることは出来ません。これは人の姿です。生まれ出る苦悩に心を奪われる、これも人の姿です。



 初めより終わりまで変わることのない神に身を委ね、確かなものの上にある心の平安は、揺るぐことなく信じる者を強くしてくれるのです。

 昼は物言うことのない神。夜には語られることのない神。しかし、声なき歌声が心に響いて来るはずです。

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あなたの隣人を愛しなさい。
 

 母の葬儀の前夜式で、木下牧師が語られた式辞の中の一説です。天国と地獄の話。この話を見ると、地獄とはまさに現代の私達の営みそのものの様に思われます。

 

『天国にも地獄にも食べ物は同じ分量,たくさんの食べ物があります。天国でも地獄でも,みんな丸いテーブルを囲んで座り食事を始めるのですが,その時両者とも1メートル以上もある長い長い箸を使って食べなければならないのでした。天国でも地獄でもその条件は全く同じなのでした。

ところがいざ食事を始めるとなると,天国と地獄ではその箸の使い方に大きな違いがありました。

 地獄にいる人はその長い箸を使って一生懸命食べようとするのですが,箸があまりにも長すぎるために,なかなか思うように食べ物を自分の口まで運ぶことができません。益々躍起になって自分で自分の口まで食べ物を運ぼうとするのですが,躍起になればなるほどうまくいかず,食べ物はポロポロポロポロと下に落ちるばかりでした。ですから地獄にいる人達はいつまで経ってもおなか一杯になることはできず,いつも空腹の状態に苦しまなければなりませんでした。

 一方,天国にいる人達はいつもおなか一杯の満足感を味わい,幸せを感じながら過ごしていました。天国にいる人達は,その長い箸を決して自分のためには使わなかったのです。その長い箸で食べ物をつまむと,その箸を自分の正面に座っている相手に向かって差しだし,「あなたからどうぞ」と言って相手の口元まで自分の箸を運ぶのでした。テーブルを囲むお互いがみんな同じように,「あなたからどうぞ」という箸の使い方をしています。相手のために働かせる箸をみんなが持っているのでした。決して自分のために使う箸ではなかったのです。相手のために自分を働かせることによって,相手もまた自分のために働いてくれる。天国ではそういうことが自然に行われているのでした。ですから天国にいる人達はいつもおなか一杯で,幸せいっぱいなのでした。』

 


 自分の欲求を満たすことだけを目的にし,そこから抜け出さずにいくら躍起になっても結局は空しさに苦しむだけです。しかし私達は、先ず自分の欲求を満たそうと言う思いを捨てきることはできません。人のありのままの姿であると思います。与えられている長い箸をどのように使うか。

『自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。』こう教えられた、主イエスの言葉に耳を傾けてみましょう。
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謙遜
  8月8日、立秋です。この暑さの中でも、時は来てこのごろはキリギリスの声を聞くようになりました 


 実るほど、頭を垂れる稲穂かなと言う言葉があります。

稲穂は実れば実るほど、重みで穂先を垂れ、頭を下げていきます。「学識や徳行が深くなった人ほど、謙虚になっていく」という意味で、力がついて、成功している時こそ、謙虚に生きていきなさい、という戒めを表現した言葉です。



 

  人間はある程度生きる為の力がついてくると、周囲への感謝を忘れてしまいがちです。「自分は経験もあり、お金も手に入れて一人前だ。何でもできるんだ」と勘違いしてしまいます。しかし、どれだけ優れていて、成功している人でも人の子です。多かれ少なかれ、両親だけでなく、誰かの小さな助けや親切、愛情の上に現在の自分が存在しているのです。そんなお世話になった方々の愛を感じ取る事のできる人は、年を重ねるごとに生きる姿勢も謙虚になっていくものだと思うのです。

 本田技研工業の創業者は以下のように述べています。
 『学問なり技術があるということは立派なことにはちがいないが、それを人間のために有効に使って初めて、すぐれた人間だということができるのだと思う。何よりも大切なのは人を愛する心ではないだろうか』

 自分を愛することは出来ても、隣人を愛することはとても難しい。

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