初めに、千利休と豊臣秀吉にまつわる逸話をご紹介します。
利休の屋敷の庭に、朝顔の花が一面に咲く様子が大変美しいという噂を聞いた秀吉は、利休に「明日の朝、そなたの屋敷へ朝顔を見に行く」と知らせました。
翌朝、秀吉が利休の屋敷へ行ってみると、朝顔は一輪として咲いていないのです。秀吉は、あの噂は偽りだったのかとがっかりして、「朝顔の花が咲いていないなら咲いていないと、はっきり言えばいいものを」と思いながら、茶室を覗いてみると、一輪の朝顔が生けてありました。それを見た秀吉は、庭一面に咲いている朝顔とは違う、独特の美しさに深く感動したのです。
利休は早朝に、庭にある朝顔の花を全部摘み取ってしまい一輪だけ残しておいて、それを茶室に生けたのです。
私がいけばなを学ぶために最初についた師匠は、招かれて人の家を訪ねた時に、一日花が生けてあったら、あなたの為に生けてくれた花なのですよ。と教えてくれました。朝咲いて、夕には萎んでしまう花を一日花といいます。朝顔はもとより、芙蓉もそのひとつです。客人を招く、その一時の為に生けてくれた、もてなしの心を花に託したものです。
また私が浜松市在住中に、アルバイトをしていた会社の取引先のお客さんの話ですが、商品を配達する為に、この時間にお伺いしますと連絡しておくと、その時間に合わせて香を炊いて待ってくれていました。そしてテーブルの上には、花一輪、葉一枚が小さな器に生けてあったのです。このような、なんとも奥ゆかしいもてなしの心です。
ルカによる福音書7章には、罪深い女が涙で主イエスの足を濡らし、その髪の毛で拭ったと言う記事があります。客人の足を洗うと言うことは当時の社会習慣では歓迎を表し、最高の謙遜であり、愛の表現でありました。
ほんの小さな物、所作に託された人の思いをくみとることが出来たなら、人はもっと優しくなれるかもしれません。