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命の継続
 

いたるところに秋の訪れを感じます。春の訪れを感じたときとは異なる、少しばかり寂しい感じです。葉を落とした木をみると、落とした葉の跡に、ちゃんと来年のための小さな芽が着いています。


庭の柿の実が熟れてきました。今年はいつになく沢山の実をつけています。春に種を蒔き、夏を越したいま、収穫のときが訪れました。それもこれも、一粒の種から始った命です。

幼いころ母から、柿の実を取るときには、一番高いところになっている実を残しておくように言われました。動物へのおすそわけか、神への感謝の知るしか、其のところを聞いてみる知恵がありませんでした。数多くの実を干し柿にする為に毎晩柿の皮を剥いている母を思い浮かべます。大変な仕事だったろうと。これも茶菓子にしたり、子供の駄賃にするものでありました。

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祈りは届く
 

生前の母は、時々パチンコを楽しんでいました。遠州森町は森の石松の生地で、大千院と言う寺に行くと、森の石松の墓があります。それぞれに石松の博打の強さに与ろうと、石松の墓を欠いて持ってゆく人が後を立たないそうです。そんな大千院に行った折、母への土産にと、石松の墓のかけらが入ったお守りを買い求め、母に渡しました。そうしたところ、そのお守りをパチンコに行くたびに持ってゆくと勝つと言うのです。・・効果は長続きはしなかったようです。

 

私達は日々、神に祈りをささげます。真心からか、習慣としてか、苦しい時の神頼みなのか、それぞれでありましょう。祈りを捧げてもこれが神のもとに届くのか、本当に聞き入れて叶えてもらえるのか、こんなことを考える人も少なくはないと思います。

 

叩けよ、さらば開かれん。求めよ、さらば与えられん。門を叩かなければ決して開かれることはありえません。求めなければ、決して与えられることはありません。だからと言って一度や二度、門を叩いたところで開いてもらえることはないと思います。

叩き続けなさい。そうすれば開かれるでしょう。求め続けなさい。そうすれば与えられるでしょう。祈りには忍耐と継続が必要です。

 

僕は今までの人生で一番苦しかったときに、この苦しみから解かれることを3年間祈り続けました。そしてその間には、いくつもの神の取り計らいがあったと確信しています

神は救いの神。人を切り捨てるようなことは絶対なされません。どんなときでも、自分の力ではなく、私達一人ひとりに注がれる神の愛の力に身を委ねてみましょう。

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初秋の趣きの中で
 

9月も半ばに差し掛かりました。一昨日は中秋の名月であったそうです。そうとは知らずに確かに美しい月だと運転中の車の中で、息子と話したのです。ススキの穂が出始めました。朝晩は涼しくなり、人の世がどのようであっても、天地は神が創造された秩序にしたがって巡ります。

夏の賑わいは消えうせ、色あせてゆく山際や虫の声に過ぎし日を偲びます。そして少しばかり人恋しい気分になる時期です。



 



 美の中を歩かせて下さい。

赤と紫の夕日を見させて下さい。

私の手にあなたの創った物を愛でさせて下さい。

あなたが我人々に教えられた事を理解できる様に

 私を賢くして下さい。

あなたが葉っぱや岩の陰に隠した教えを
  学ばせて下さい。

私は力を求めます。

それは兄弟よりも強くなる為ではなく

一番手強い自分自身と戦う為です。

いつも清い手と素直な目で、
 あなたの下へ向かえる様に
  私を準備させて下さい。

消え行く夕日の様に、私の人生が消えてゆく時、

私の霊が、魂が恥じることなく
  あなたの下へ向かえる様に

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優しさにふれたい。
 

初めに、千利休と豊臣秀吉にまつわる逸話をご紹介します。

利休の屋敷の庭に、朝顔の花が一面に咲く様子が大変美しいという噂を聞いた秀吉は、利休に「明日の朝、そなたの屋敷へ朝顔を見に行く」と知らせました。
 翌朝、秀吉が利休の屋敷へ行ってみると、朝顔は一輪として咲いていないのです。秀吉は、あの噂は偽りだったのかとがっかりして、「朝顔の花が咲いていないなら咲いていないと、はっきり言えばいいものを」と思いながら、茶室を覗いてみると、一輪の朝顔が生けてありました。それを見た秀吉は、庭一面に咲いている朝顔とは違う、独特の美しさに深く感動したのです。
 利休は早朝に、庭にある朝顔の花を全部摘み取ってしまい一輪だけ残しておいて、それを茶室に生けたのです。



私がいけばなを学ぶために最初についた師匠は、招かれて人の家を訪ねた時に、一日花が生けてあったら、あなたの為に生けてくれた花なのですよ。と教えてくれました。朝咲いて、夕には萎んでしまう花を一日花といいます。朝顔はもとより、芙蓉もそのひとつです。客人を招く、その一時の為に生けてくれた、もてなしの心を花に託したものです。

また私が浜松市在住中に、アルバイトをしていた会社の取引先のお客さんの話ですが、商品を配達する為に、この時間にお伺いしますと連絡しておくと、その時間に合わせて香を炊いて待ってくれていました。そしてテーブルの上には、花一輪、葉一枚が小さな器に生けてあったのです。このような、なんとも奥ゆかしいもてなしの心です。

ルカによる福音書7章には、罪深い女が涙で主イエスの足を濡らし、その髪の毛で拭ったと言う記事があります。客人の足を洗うと言うことは当時の社会習慣では歓迎を表し、最高の謙遜であり、愛の表現でありました。

ほんの小さな物、所作に託された人の思いをくみとることが出来たなら、人はもっと優しくなれるかもしれません。

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