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彷徨うことのないように
 

 今日は快晴の一日でした。寒くても日差しがあるということは本当に嬉しい事です。そして日差しが少しばかり強くなったように感じられるこのごろ。今年もいつものようにマンサクの花を見に、いつもの場所に出かけてみました。今年はまだ咲いていませんでした。蕾の様子もまだ随分固いようです。自然のものは時を知っています。それは神から賜った知恵に従順であるのでしょうか。と僕は思うのです。

 カマキリが低い場所に卵を生む年は、雪が少ないと語り継がれてきたことを検証した学者がありました。その確立は相当高いそうです。そういった自然の営みを見ながら、古来人々は厳しい冬を越す工夫をしたのかもしれません。

 アナログからデジタルへ。人の知恵は衰退の一途をたどるのでしょうか。その一方、神への背信はますます増えてゆくように思うのです。快楽を求め、お金を求めるために今人がなしていることはなんでしょうか。人生は楽しければいい。確かにそうかもしれません。しかし楽しいだけの人生などありえないのです。一人でも多くの人が神に立ち返ることが出来ますように。

 

 
 先週、わが息子と称す卓也君と浜松へイチゴ狩りに出かけてきました。平日にも関わらず多くの人が訪れていました。春の味と春の気分を堪能して来ました。

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冬の時代
 

 2月も半ばを過ぎました。北陸、東北地方では豪雪になって、除雪や屋根の雪下ろしの様子をテレビで見るたびに気の毒に思います。市町村によっては除雪費の予算が不足したところもあるとか。雪国の苦労は、そこに住んでいる者でないとわかりません。ですから僕も、気の毒に思うとしか言えないのです。僕の住んでいる町にも雪が降ります。近年ではその量はめっきり少なくなりました。そして底冷えの町。春が待ち遠しい。そして世界情勢も冬の真っ只中。ギリシャ問題然り、中東問題然り、そして国内も。

 

どれも叙情的な歌詞がついている様に、春を待ち望む歌や唱歌は沢山あります。早春賦などは有名ですね。歌の題名は知りませんが、僕の好きな歌にこの様な歌詞の歌があります。その光景が目に浮かぶのです。

  ともし火近く 絹縫う母は、

  春の遊びの楽しさ語る。

  居並ぶ子供は、指を折りつつ

  日数数えて喜び勇む。

  囲炉裏火はとろとろ、外は吹雪。



 

 さて、話は植物に変わります。秋から初冬に芽を出し、冬を迎える植物の多くは冬越しをする為に、ロゼットと言う状態になります。葉をめいっぱい地に広げて、きっと少しでも多くの日の光を浴びようとしているのだと思います。

 ロゼット状態で冬を越す植物のように、雪国には雪国で暮らしてゆくための知恵、寒冷地では寒冷地で暮らしてゆくための知恵を僕達の祖先は編み出して来ました。しかし住宅事情が変遷する中で、これらの知恵を持った人々も少なくなってきていると思います。知恵に富むことは決して無駄ではありません。生活を豊かに、心を豊かにして行ける要素が十分にあるからです。




キリストが、『私は世の光である。』と言われたことが聖書に記されています。地は光に向かって巡ります。その巡る地と共に、ロゼット状態で光を浴び春を待つ植物のように、とかく暗く寒い冷たい思いに留まらず、光に向かって歩みを進めて行きましょう。世の光であるキリストは、光に向かって歩む僕達を祝福してくださいます。

 冬来たりなば、春遠からじ。この厳しい冬を耐え切った者には、春の喜びが更に喜びを呼んでくれることでしょう。この希望こそ、今年の冬そして冬の時代を乗り切る力です。
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故事成語 虎の威を借る

「いいえ、王様、
北の国々がなんで一宰相の昭奚恤などを恐れますものか。
まず、お聞きください。
もとより虎は百獣の王、ほかの獣を見れば、
ただちに取ってこれを食らいす。
 あるとき、この虎が狐をひっとらえたと思ったとき、
狐が虎に言いました。

天帝はこの狐をば百獣の長と定められているのです。ですから、もしこのわしを取って食らうなら、天帝の命にそむくものとなります。
 もしあなたがそれを信じぬなら、
まぁわたしのあとについて来てください。

わたしの姿を見て逃げ出さぬ獣は一匹とてありません。それを見れば得心が行きましょう……といったそうです。なるほど道理だ、と虎は思いました。
 
 さて、狐が先にたち、虎はそのあとについて行きました。

一匹の獣に出あいました。その獣はとんで逃げました。
 つぎの一匹、これもふるえあがって逃げだしてしまいます。

……はて、なるほど狐をおそれて逃げるのか、と虎は思いこんだそうです

その実、獣どもを恐れは知らせたのは、狐の後ろにいる虎の姿であったのです。
 
(「戦国策」楚宣王より)

一皮むいてみれば、やさしげな羊の皮の下に、狐がいるか、狼がいるか、虎がいるか、わかったものでない社会、はてはどれが狐で、どれが虎かもわからなくなる世の中…
虎の威を借る狐とは、他の権勢に頼って威張る小人(しょうじん)のたとえです。私達の身の回りにもこのような人物があふれているような気がしてなりません

 

私達は、虎の威を借るような愚かなことをしなくても、小さく弱いからこそ神の守りがあり、キリストの恵に与ることが出来るのです。弱さを誇りとして神への畏れを持ちながら歩みましょう。私達は弱いからこそ強いのです。

 

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負けないで。強く、雄々しく!
 

私達は他の人との関係の中で、様々な問題に直面することが少なからずあります。自分の非を認めることについて、自分が非だとわかってはいても素直になることはたやすいことではありません。言い訳と口答えをしながら、自己中心的な言うなれば慢性欲求不満病に浸ってしまいがちです。それが自分へのいらだちを作り、他の者への悲惨を考え出し、神への怒りを引き起こしているのです。私達は全ての者が、神の前には罪人なのです。
 ちょっと立ち止まって、神に「感謝」できることごとを探し出せたらよいのに
そして、わかった振りをしないで、自分の心に「清さ」と「知恵」を求めることができたらよいのにと思うのです。これは人前でではなく、場所と時間を問うことはなくても、私達は信仰者として、祈りの特権が与えられているのですから、この恵に感謝をすべきで、神と接する大切な時、そして幸福な時がここにあるはずなのです。

 


 今ここで罪人である私達が、何の功績もない私たちが神の前に義とされる唯一の道は、イエス・キリストを神の御子と信じることであり、この信仰により私たちは義とされ、神の祝福を受けることが出来るのです。

今もそして、この後も私たちの人生は様々な苦境にさらされることが少なからずあります。しかし神は死ぬほどの苦しみを与えられる方ではありません。

神の前に静かに佇み祈る時、きっと聞こえてくるのは、『強くあれ、雄雄しくあれ。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこへ行ってもあなたの神、私はあなたと共にいる。』神がヨシュアを激励したと同じ言葉がそこにあるはずです。
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