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賛美歌
 

このところ急に暑くなり、春というより初夏と言う感じがしています。気候も良くなってきたので、何と言って目的があるわけではないのですが、夜に庭先に出て過ごすことが多くなりました。そう言えば、沖縄地方は去年と同様に、はや4月に梅雨入りしたそうですねそして多くの街で夏日となったり、季節に先取りはありませんよね。今年も猛暑になるのかと心配しています。

 月星の光のほかにあるあるものは、闇に浮かんで見える山並みや木々の姿。そして庭先を流れる水の音と、カエルの声です。僕にとっては一日の終わりの至福の時間です。そして賛美歌を思い浮かべています。

 

 輝く日を仰ぐとき、月星ながむるとき

()いかずち鳴り渡るとき、まことの神を思う。
 わが霊 いざ讃えよ 聖なる御神を。

<賛美歌2編66番-1>




信仰者には一つや二つ、愛唱賛美歌というものがあります。僕には幾つあるかなと数えてみれば、10くらいはあるかもしれません。僕にとって賛美歌は、いうまでもなく神を讃える歌、同時に慰めを与えてくれる歌でもあります。

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次世代への贈り物
 

梅の花が終わり、桜の花もおそらく明日の雨で終わることになると思います。レンギョウ、モクレン、コブシと次々に花が咲き競うようです。上ばかりでなく地面を見れば、シバザクラ、菜の花などがあちらこちらで目を楽しませてくれます。

 今年も畑を耕し始めました。今年の手始めは、イチゴ、キャベツ、カリフラワー、レタスです。これらを植える為に(種からではなくて、ホームセンターで苗を買ってきます。)畑を耕し、さぁ一休みしようと畑近くの山を見ていたときのことです。モクモクと白っぽい煙状のものが漂うのです。近くの家でゴミを焼いている煙かと思ったのですが、その出所はヒノキでした。要するにヒノキ花粉なのです。そう思いつつ四方を眺めてみると、あちらでもこちらでもモクモクト花粉がヒノキから飛ばされています。不思議なものであたかも花粉を飛ばすタイミングを合わせたようでした。



 おかげさまで僕は花粉症ではないので、体には何の影響もないのですが、この花粉症もいわば時代の産物で、樹木の価格のよかった時代に広葉樹林を切り開き、ヒノキやスギなどの建築材となる木々を植林したのです。その後、樹木の価格は低下し地主には山林を手入れするほどの余力もなくなってしまったのです。植林された林は荒廃し、太陽の光さえ入らない。ですから下草も生えず、地面がむき出しになっています。その結果、地面は保水力を失い、地盤を弱くしてしまいます。災害を引き起こすことさえあるのです。

 そうした山林が僕の家の周囲には沢山あります。次の世代に残す環境を整えること。今の時代を生きる者達に課せられた問題であると思うのです。

 様々な知恵は、人類の欲望を満たすためではなく、神の栄光のために尽くすべきなのではないでしょうか。
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安全、安心
 

 4月も半ば。こちらでは桜の花が5分咲きから満開です。僕がつけている4年前の記録を見るとこの時期には、桜の花は散り始めいています。それを思うと今年は寒い時期が長かったことを実感しています。花冷えと言う言葉通り、桜の花は咲いても夜の冷えは少し堪えますね。

 野原でワラビが出ているのを見つけ見つけました。ワラビが出るようになると本格的な春です。僕の幼い頃、ワラビは我が家の現金収入源でもありました。母に連れられてワラビ採りに山野を這い回りました。母は採ってきたワラビの長さを揃えて切り口に灰を付け、一握りくらいの本数をワラで縛って行商人に買ってもらうのです。はるか昔の話、当時一束20円から30円で買ってもらっていたと思います。竹やぶのある家では、タケノコを掘って買ってもらっていました。



 食品への放射性セシウム汚染が社会問題となっています。このことは健康にとって重要な問題で、包み隠すことなく明らかにして欲しいと思います。食品に限ることばかりではなく、いまや国中揃って何につけても安全安心をうたっている昨今です。人として人の道を踏み外すことなく物事に対処したとすれば、安全安心などと声高らかに言うまでのことはないのではないでしょうか。ISOとかSQFとか言う規格を設けて、規格化、同一化することが安全安心な物に繋がるかどうか僕は疑問です。

 スーパーでもワラビが店頭に並ぶ時代、やがてワラビにも産地表示が必要になる時代が来るかも知れませんね。
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イースターおめでとう
 

  4月になると言うのに、当地方では雪の舞う日がありました。今年の春の歩みはいつになくゆっくりしています。今日は復活祭。仏教では花祭り。また僕の母方の祖父の命日でもあります。

僕達の信仰の希望は、人の人生は死で終わることはないと言うことです。聖書は僕達に、キリストは人類にとって最大の敵である死に打ち勝ったことを教えています。キリストは、十字架に掛けられて死にました。しかし、三日の後に復活されたのです。死者の復活を他の言葉で言い表すとしたら、甦りです。甦りと言う漢字を分解してみると、更と生に分けることが出来ます。甦りとは、死んだ後も更に生かされることです。



キリストが死んだ後、復活までの三日間には何があったのだろうと疑問が湧きます。聖典としての権威はないのですが、トマスによる福音書にそのことが記されています。キリストは死んだ後に陰府(よみ)に行き、キリストが死ぬ前に死んでいった人々に、神の救いを知らせたのです。

神の救いからは、誰一人としてもれることはありません。罪深いところにこそ、神からの手厚い恵が垂れるのです。


神は、その御子を遣わすほどにこの世を愛された。それは御子を信じるものが一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。(ヨハネによる福音書 3章17)

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キリストのこころ
少しずつ春の訪れを身に感じながら、4月と言うのに天候不順で本格的な春と言うまでには、もう少しの時間がかかりそうです。今日は日中に雪が舞いました。
マスコミは世界の状況を刻々と私たちに知らせてくれます。貧困と飢餓、内乱内戦を逃れての避難民の人々。社会の底辺にある一番大切にされなければならない人々が、社会から、世からはじき出されてしまう現実があります。このような中で、平和を望まない人がいないはずがありません。しかしこう言った生活が日常となると日々の命を繋ぐことだけで精一杯で、幸福とか日々の平安などと言った他のことなど考えている余裕は心のうちから忘れ去られているのかもしれません。



 人類の歴史は、この地上のどこかしらでこのような悲惨を繰り返してきました。なぜでしょうか。その原因のひとつは、そもそも人は自己中心であるからです。これが即ち罪深い人の姿です。利己心は、自らの利益のためのみに知恵と労とを費やします。虚栄心は自らの見栄です。虚栄とは虚しい栄と書きます。まさにその通りです。

冷静に考えてみれば、自分のことばからりではなく他の人のことをも考えることは、共に生きるものとして自然な感覚です。夫婦が互いのことを思い、親がこどもの事を思う心と重ね合わせはできないでしょうか。しかし出来ない、抑えられない欲求がその思いをかき消してしまうことは多分にあることです。自らの思いを成し遂げんがために、人を踏み台にすることさえあるのです。これが現実です。しかしそう言う者たちが強いわけではありません。

世に勝つ者は誰か。イエスを神の子と信じる者ではないか。聖書はこのように教えています。すでに世に勝っておられるイエス・キリストを信じる者は、その人自身がすでに世に勝っているのです。それは、他の人や他の国と比較・競争して勝つという意味ではなく、もっと根本的な意味で、この世に生きることに勝っているということです。

 
この恵みを噛みしめつつ、新約聖書フィリピの信徒への手紙2章3節4節の言葉をご紹介します。
 「
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分の事だけでなく、他人のことにも注意しなさい。」
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