2012年5月6日
田瀬教会
捨てなければ得られないもの
マルコによる福音書10章17節〜31節
イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。
金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、
今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
毎年この時期になりますと同じ門下でいけばなを学んでいた方が、ワラビを採らせて欲しいと訪ねて来てくださいます。最近ではワラビの生える場所も限られ、皆こぞってその場所へと向かうものですから、採れる量もそんなに多くはなくなりました。
私が幼い頃は、ワラビは我が家の現金収入源のひとつでもありました。母に連れられてワラビ採りに山野を這い回ったものです。母は採ってきたワラビの長さを揃えて切り口に灰を付け、一握りくらいの本数をワラで縛って行商人に買ってもらうのです。はるか昔の話、当時一束20円から30円で買ってもらっていたと思います。竹やぶのある家では、タケノコを掘って買ってもらっていました。
皆さんもご存知の通り、福島の原子力発電所の事故以来、食品への放射性セシウム汚染が社会問題となっており、このことは健康にとって重要な問題で包み隠すことなく明らかにして欲しいと思います。食品に限ることばかりではなく、いまや国中揃って何につけても安全安心をうたっている昨今です。人として人の道を踏み外すことなく物事に対処したとすれば、安全安心などと声高らかに言うまでのことはないのではないと私は思うのです。スーパーでもワラビが店頭に並ぶ時代です。やがてはワラビにも産地表示が必要になる時代が来るかも知れません。
聖書は私達に、人としてあるべき道を示し教えてくれます。それは人を創造された神の人に対する愛に基づくものです。日本キリスト教団信仰告白の文言の中に、『旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて、全き知識を我らに与うる神のことことばにして、生活との誤りなき規範なり。』と記された箇所があります。聖書が一貫して教える事柄は神の愛についてです。そして聖書は創世記の天地創造の記事から始り、ヨハネの黙示録の神の国の完成で終わります。
本日はマルコによる福音書から、神の国に入る者はどういう者であるかを学びたいと思います。
私達の心は、何によって満たされ幸福を感じるのでしょうか。おそらく多くの場合、人との比較によってと言うことがあると思います。有名な会社に勤めていることであったり、高い給与を受けていたり、あるいは多くの財産を持っていたりと人よりも勝ることに喜びを感じることもありましょう。また多くの家族に囲まれて家族団欒の日々に幸せだと思うこともあると思います。このように見ると、時として私の人生はなんと寂しいものかと思うことがあります。結婚はしましたが離婚をし、この年になっても家庭を持つことが出来ず、また父母をも亡くしてしまいました。母は、私の行く末を案じると言いつつ、病床にあっては、病室に来る看護師に家の嫁に来てくれないかと言っていたことを知った時、生前にせめて孫の顔を見せてやりたかったという悔やみにさいなまれます。
しかし人の人生は、他の人との比較の上にはありません。ましてや信仰者であればそれは歴然としています。私達の人生は神との関係の中にあり、神が私達一人ひとりの人生を導いてくださるのですから、他の人と比べることは意味のないことなのです。いつも喜んでいること、絶えず祈ることが、神との関係を豊かにしてくれるのです。神が伴われる人生、これほど幸福な人生はありません。
因みにこのような研究発表があります。それは他人が不幸になったことを、不謹慎であるとは理解しつつも喜んでしまうことを「他人の不幸は蜜の味」という言い方をしますが、独立行政法人 放射線医学総合研究所と東京医科歯科大学、日本医科大学、慶應義塾大学は共同で人が「妬み」を持つ感情と他人の不幸を喜ぶ感情に関する脳内の仕組みを明らかにしたそうです。実際に他人の不幸を喜ぶ脳内の仕組みが脳科学的に証明されまた、「妬み」の感情と他人の不幸を喜ぶ感情の関連性についても解明されているそうです。
幸福な人生には優越感が伴い、貧しい人生には羨む思いが伴うことが多いように思います。
さて、先ほど朗読していただいた箇所は、マタイによる福音書とルカによる福音書に平行記事があります。ここに出てくる金持ちの男は、この記事から生真面目な人であったと察します。また記されている通り多くの財産を持ち裕福であったことは言うまでもありません。友人も大勢いたことだと思います。しかし何と言って不自由なく思うがままの暮らしをしていても、心が満たされない。そのわだかまりを携えてイエスのところへ来たのだと私は思うのです。
マタイによる福音書ではこの金持ちの男を、富める青年と記しています。そして今日のこの10章は、8章34節から続く物語です。その箇所を見てみますと、“それから群衆を弟子達と共に呼び集めて言われた。「私の後に従いたい者は、自分を捨てて、自分の十字架を背負って私に従いなさい。」”このように記されています。
カファルナウムから旅に出ようとするイエスのところへ、ある人が走り寄ってひざまずいて尋ねました。ある人とは、金持ちの男を指します。イエスがカファルナウムに滞在していることを耳にして、旅立たれる前にイエスにお会いし、何が何でも聞いておかなければならないことがある。このような状況であったと思います。急で行かないとない旅立たれ、聞くことも出来ず、そうだったとしたら後悔が残る。このような気持ちで走り寄って来たのだと察することが出来ます。
「善い先生、永遠の命を受け継ぐには何をしたらよいのでしょうか。」と尋ねたのです。ここでこの人は、善いという言葉を使っています。この言葉について、イエスはこの男に尋ねています。どうして私を善いというのか。この後に、イエスが言われるように神お一人のほかに善い者は誰もいないのです。“善い”と訳されているこの言葉は、他の聖書では尊いと訳されていますが、善いと呼べるものは、神を基準にし、神に由来することを意味するものでした。善い先生と言う呼び方は、先生に対するユダヤ人の呼びかけとしては極めて珍しいもので、おそらくお世辞的意味であったと考えられています。
イエスの答えは、律法に示されている通りのものでした。この人にすれば、そのようなことは今更教えてもらわなくても、十戒とレビ記18章5節を読めば判ることでした。因みにレビ記18章5節をご紹介しますと、そこには、『私の掟と法を守り、これらを行なう人はそれによって命を得ることが出来る。私は主である。』このように記されています。
イエスが答えられたことに、「そう言うことはみな、子供の時から守ってきました。」とこの人は言うのでした。この人がイエスのところに来て求めた答えは、このような答えではなく、これ以上の答えを求めてきたのです。実際に、幼い時から自分なりに十戒を守ってきました。しかし、心の中には未だ永遠の命についての確信を得ることが出来ず、まだ自分に欠けているものがあるはずだ。そのことをイエスに教えてもらいたかったのです。
イエスはこの人の心の中を見抜かれるかのように、慈しみのまなざしで言われたことは、「帰って持ち物を全部売り払い、貧しい人に施しなさい。その上で私についてきなさい。」 この言葉に悲しみながら去ってゆくこの人の後姿は、富がこの人の心に深く根を張っている事実と、弱い者、貧しい者を愛するという神の教えに倣って、神の御子であるイエスに従うという内容が、自分の期待していた答えに合わず立ち去りました。
イエスはそばにいた弟子達に、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と誇張した表現で、富に対する執着心がある限りは神の国には入る事は難しいと言っています。富だけでなく、人をこの世に縛るものは、安易な愛情、名声、簡単に手に入る楽しみなどが挙げられます。その未練を捨てることの難しさは、「ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われる通りです。
金持ちの男が求める、この世に合わせた基準や、悔い改めのないまま、神の国に入ることは絶対に無理であり、「人間にできること」ではありません。全世界を手に入れるような富があっても、命を買い戻すことは出来ないのです。それなのに人は、富こそが命を豊かにし、幸せの目標であるかのような錯覚に陥り易いのです。
悔い改めは、自分中心の生き方から神様中心に生きる生き方に方向転換することです。
この世への執着を捨てることは「出来ない」と考えている人でも、悔い改めをもって真剣に救いを願うならば、「何でもお出来になる神」は、どのような者でも救われます。
「世界の主権は神にある」ことを再確認し、そのような神に、私達は眼を懸けていただいている、その恵みに感謝して歩みたいと思います。
財産を捨てることが出来ずに去っていった男とは対照的に、弟子達は何もかもを捨ててイエスに従ってきました。ペテロは、それを誇示するかのように「この通り私達は、何もかも捨ててあなたに従って参りました。」と言うのです。これに対してイエスは、弟子達に教えます。「イエスご自身のために、また福音のために失うものがあり、迫害を受けることもある。」しかし、これらの犠牲にはるかに優る報酬を約束されたのです。それは、今の時代には、新しい家族と新しい使命が与えられ、来るべき世では、永遠の命が与えられるのです。新しい家族とは愛する兄弟姉妹であり、新しい使命とは神の御心を行なうことです。
このような報酬の約束と共に、弟子達に厳しい言葉を告げています。「先にいるものの多くが後になり、後にいるものの多くが先になる。」先の者とは、何もかもをすえてイエスに従ってきた弟子達であり、後の者とは、イエスに従う群衆の一番最後にいる幼子達であり、また盲目の人であり、また取税人や遊女などを指します。
弟子達の間で誰が一番偉いのかなどと議論し、今ここで去って言った金持ちの男を尻目に、私達は何もかもを捨てて、あなたに従って参りました。」と得意げになっている弟子達への警告であったのです。
子供でも入ることの出来る神の国に、裕福で道徳的に熱心な男が入れないとしたら、またこの男が神の国に入ることの出来る可能性よりも、ラクダが針の穴を通る方が優しいと言われるのなら一体誰が救われるのと言うのでしょうか。そしてこの金持ちの男が、永遠の命を得るためにと期待した答えとはどういうものだったのでしょうか。
この男が今期待していたことは、何か困難なことか非常に功績のあることをして、欠けているものを補うようにとイエスから告げられることであったのです。この男が頼りにしているような人間的な業績は、神の前には何の意味もありません。
律法を破ることも、律法から外れることもなく、完全に律法に従うことが永遠の命を意味することに変わりはありません。この男にある重大な誤りは、「そう言う事はみな、子供の時から守ってきました。」と言いつつも、十戒の最大の戒めを破っていたことにあります。それは、この男にとって財産こそ神であったからです。財産があるとするならば、これも神から与えられたものなのです。
マタイによる福音書には、神と富、両方に使えることは出来ないと記されています。ここでイエスは、財産を犠牲にする引き換えに永遠の命を約束されたのではありません。虫がつくこともあるでしょうし、価値がなくなってしまうこともあるこの世の不確実な宝の代わりに、確実な宝を約束されたのです。命の道は、邪魔物を一切取り除き、ただ神のみを頼みとして、ひたすらその道を歩くことです。この後、この男が考え直してイエスに従ったかどうかを知る術はありません。
神は自分の固執した考えや信念、また、こだわりや自尊心を捨てるとき、素晴らしいものを与えると約束されています。それは“永遠のいのち”です。ヨハネ17:3では「永遠のいのちとは、唯一のまことの神と、神のお遣わしになったイエスキリストを知ることです。」と記されています。私たちは、捨てないと与えられないものがあるのです。大切なもののため、私が、また私達が、今日捨てるものは何か神に問うてみましょう。