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塩の柱
 

 10年ほど前に種を蒔いたササユリが、今年初めての花をつけました。ササユリは日本固有の種で、清楚な姿と芳しい香りには日本的なものを感じます。僕が子供の頃には山野のいたるところで目にすることが出来ましたが、今となっては希少種のようです。欧米に持ち出され多くの百合の育種に使われたそうです。

 625日は、昨年亡くなった母の誕生日でした。生きていることが出来たならば、80歳の誕生日であったのにと心の内に思いを巡らしました。死んだ子の年を数えるとは、まさにこのようなことなのだろと思うのでした。

 


 旧約聖書の創世記に、アブラハムの甥であるロトと言う男の家族が暮らすソドムと言う町がありました。ヨルダン川の低地一帯であり、ツォアルと言う町に至るまで主の園のように、エジプトの国のように見渡す限りよく潤った町であったと聖書に記されています。

 しかし、ソドムの住民は邪悪で、主に対し多くの罪を犯していました。神のもとには、ソドムの町の罪状が届いていました。神は、『ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。私は下って行き、彼らの行跡が果たして、私に届いた叫びのとおりかどうか確かめよう。』と神ご自身が確かめに行かなければならないと思うほどに、乱れた状況であったのです。ソドムと言う町はこのような町でありました。そして神は、ソドムの町を滅ぼす決心をしたのです。

 しかし神は、神の前に正しかったロトの家族だけは、この滅ぼしから救いだすことにされたのです。『命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにも留まるな。山に逃げなさい。さもないと滅びることになる。』神はロトにこのように告げました。ロトの家族が逃げ切ったとき、神はソドムの上に天から、神のもとから硫黄の火を降らせ、町と町の全住民、そして地の草木もろともに滅ぼされました。この時、ロトの妻は、後ろを振り向いたので、塩の柱となってしまったのです。

 ロトの妻はどうして、神の言いつけを守ることが出来ず、後ろを振り向いてしまったのでしょう。

昨日までの生活があった町です。住んでいた家があり、それなりの財産もあったに違いありません。親しかった人もいたことでしょう。

 ロトの妻は、神の言いつけよりも、滅びさるこの世のものに心を奪われて、振り向いてはならないと言う後ろを振り向いたのです。

 誰も過去に未練を残す人生を送って生きていると思います。しかし、いつまでもそのことに心を奪われていては、塩の柱と化したロトの妻と同じです。

 

 私は裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。

 主が与え、主が取られたのだ。

 主の御名はほむべきかな。
 <旧約聖書:ヨブ記1章21>
 
 

 

 母の死より間もなく一年の歳月が過ぎようとしています。僕もこの辺りでけじめをつけよう。

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失いたくないものがある
 

 梅雨の晴れ間の一日でした。明日からは梅雨空が続くと言う天気予報です。花好きは僕にとって梅雨の時期に似合う花は、やはりアジサイです。随分長い間僕の記憶から遠のいていましたが、いつものように家の近くを散策の中で、コアジサイの花が咲いているのを見つけました。このコアジサイは、日本固有種だそうです。

 花の種類の好みこそあれ、誰も花を見て美しいと思わない人は恐らくないのではないかと思います。何千年も前の人の墓から、花の花粉が見つかったと言う話題がありました。亡き人に花を手向ける心は、古今東西を問わず人の心に培われたものと言えるでしょう。




 亡き人のために花を手向ける、お祝いに花を贈る、客人のために花を飾る。このような心は、人の心の内に秘めた思いの表に現われたしるしです。僕は自己流で茶を楽しむことがありますが、茶道の作法はその所作のひとつひとつに意味があり、奥の深い心からのもてなしであり、作法を杓子定規にこなすことには、全く意味がないのです。

 いまや時代はデジタル化、人の心が通じ合わなくなってしまったとも言える社会と言っても大きな間違いではないと思います。こんな時代にこそ神の霊感に触れ殺伐とした心の内に潤いを求め、命あることへの感謝を捧げたいものです。

 

 あなたを知る人の上に 慈しみがありますように。

 心の真直ぐな人の上に 恵の御業がありますように。

             <旧約聖書:詩篇3611>
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友なるイエス
 

 今夜も外に出て暫くの時間を過ごしていました。今夜は曇り、月星の瞬きはありません。闇の中に杉木立が黒く浮かんで見えています。

このところは金環食そして、金星の太陽横断を観察することが出来ました。神の天地創造以来の秩序のうちにある天体の軌跡に、神の力の偉大さを改めて思い知りました。そう思うと人間の存在はなんとも小さなものなのだろう。神が創造されたものから人間を測ったとすれば、砂漠の砂の一粒にも満たない存在なのかもしれません。そのような人間のために、神の独り子であるイエスをこの世に遣わされました。僕のために、あなたのために。

 


 悲しみに浸るとき何もしてくれなかった。寂しいときにも、辛いときにも何もしてくれなかった。そう思えることがあります。しかしイエスは、いつもかたわらにいて僕を、あなたを見ていてくださいます。証拠は必要ありません。僕は、そしてあなたは、かたわらにいてくださるイエスに、気がつきませんでしたか。声を聞きませんでしたか。

 周囲の人々と比較して、どうして僕だけが、私だけがこんな思いをしなくちゃ生けないのだろうと思ったとしたら、それは自己中心的思考です。へりくだれば見えてくるものがあります。共に悲しみそして慰めを与えて下さる、寂しいときには友となって、辛いときには励ましを与えてくださるイエスがいて下さるのです。

 

天は神の栄光を物語り

大空は御手の業を示す。

昼は昼に語り伝え

夜は夜に知識を送る。

話すことも、語ることも

声は聞こえなくても

その響きは全地に

その言葉は世界の果てに向かう。


新しい週に神の祝福と守りがありますように。
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苦難の僕(しもべ)
 

2012年6月3日
 

聖書   ローマの信徒への手紙 129節〜21

 

「 苦難の僕(しもべ) 」

 

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。

あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。


 

 

先日テレビ番組で、自殺防止に尽力する牧師の働きを放送していました。私はもしや教会の働きではと思ったのです。私の思い通りその牧師は、和歌山県にある教会の牧師でした。番組の中では、教会とか牧師と言う点に具体的に触れることはありませんでした。自殺防止対策として、いのちの電話などというものがありますが、この牧師の働きは、それらとは全く質を異にするもので、行政などからも注目されているそうです。

私が調べた統計によりますと、年間の自殺者数は3万人とも言われています。年代は幅が広くまたその原因は比率の高い順に、健康問題がもっとも多く、生活経済問題、そして家庭問題となっています。殊に平成10年以降自殺者数は多くなる傾向にあり、無職男性の自殺率がもっとも多いのです。

この教会の近くには、いわゆる自殺の名所と言うところがあるのです。その場所に公衆電話があり、この牧師はその公衆電話に小銭を置きに行くことが仕事でもあるのです。自殺しようとしている人は、お金を持っていないことが多いそうです。そして教会の電話番号がわかるようにしてありました。教会に電話がかかってくるとすぐにその場所に駆けつけ、教会に連れてくるのです。そして話を聞き、自殺を思いとどまらせ、その人が落ち着きを取り戻し、社会に復帰できるまでの世話をするというのです。教会での共同性生活が始まります。職を探し定職について社会に復帰するということは、今の社会の状況からしてみても並大抵のことではありません。本人はもとより、牧師にも相当の忍耐が求められると感じました。

自殺をしようと思う心の内を理解し、その思いを解きほぐし、命の尊さを説いて聞かせ生きてゆくことに希望を見出させ、牧師ではなく当のその本人が、社会に復帰しようと決断するまでの時の経過は測りがたいものであると思います。自殺をしようとした者が、社会に復帰し自立できるまで添い遂げる。こういう働きをこの牧師はされているのです。これは、社会的にも高く評価されるべき働きであると思います。しかしこの働きは、慈善事業でも社会貢献でもなく、神の愛に礎を据えたものの上にあるのだと私は思うのです。人を愛せなければ出来ない仕事です。そして教会に身を寄せるこの人たちと牧師とが同じ線の上にあるのです。そうでなければ、救った者と救われた者。世話をした者と世話になった者と言う話で終わります。

 

命の尊さと言うことについては、私の思うところを申し上げるまでもなく、皆さん一人ひとりが理解され、大切にされていることです。私達ひとりひとりの体も魂も、ひとりひとりのものではなく、それを自由にすることは出来ません。ですから自殺と言うことは、神の前には大罪であるのです。

ハイデルベルグ信仰問答第一問をご紹介します。

第一問       生きるにも死ぬにも、あなたの唯一の慰めは何ですか。

答え   私の唯一の慰めは、生きるにも死ぬにも、私の体も魂も、私のものではなく、私の唯一の救い主イエスキリストの所有であると言うことです。

     主は尊い血をもって、私のすべての罪の代価を完全に支払ってくださり、私を悪魔のすべての支配から贖いだしてくださいました。

     主は今も、天にいます私の父の御心でなければ、私の頭から髪の毛一本も抜け落ちることのないように、いな、すべてのことが私の救いに役立つように、私を護っていてくださいます。

     それゆえ、主はご自身の聖霊によって、私に永遠の命を保証し、今から後は主のために生きることを、心から喜び、進んでそうすることが出来るようにしてくださるのです。

聖書はこの様に私達に神の救いを説き、私達はこの様に、神の救いに与っているのです。

昨今は蔑んで見ることを、上から目線と言う言葉で表現することが多くなってきました。人の深層心理には、他の者より上でありたいと思うところがあると思います。他の者より優位でありたい。或いは、自分は他の者より優れていると言わないにしても、その仕草に垣間見られることがあるものです。そう言う人の思い上がりの心とは対照的に、神であるキリストは、仕えられる者ではなく、仕える者となられたのです。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。これはフィリピの信徒への手紙の一節です。キリストの愛を知る私達の心を鋭く刺し通す言葉であります。

 

 自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。・・・・私達はキリストを仰ぎ見ても、キリストは私達を見下すことはないのです。

 

さて、イザヤ書53章は苦難の僕と呼ばれ、メシアの苦難の預言が記されている箇所です。そのところをご紹介します。

 

「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。
見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 

このところは、新約的に解釈すれば私達罪人のために、罪人である私達が一人として滅びることがないようにと、この世に遣わされたキリストの生き様を物語っている箇所であると理解できます。そしてこの苦難の僕の苦難は、彼自身に原因があるわけではなく、キリストがそうであったように、他の人々の代償なのです。

 

聖書の神は「慈しみ」「憐れむ」神です。

出エジプトの後に、神はシナイ山でモーセに「主、主、憐れみあり、恵みあり、怒ること遅く、慈しみとまこととの豊かな神」。とご自身の名を顕わされました。聖書の「憐れむ」と言う言葉は、「苦しむ者があれば、一緒になって共に苦しむ」と言う意味があります。この苦しみを担い、共感する神は、新約聖書ではイエス・キリストの姿の中に「神、われらと共にいます」ことを示されました。

新約聖書の記事の中からイエスの憐れみを見てみましょう。
イエスは町や村を残らず回って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気や煩いを癒された。また群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て深く憐れまれた。(マタイ9:36)。

重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて癒しを願った時には、イエスは深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われ重い皮膚病を癒されました。(マルコ1:41)

ナインと言う町のある母親が一人息子を亡くした時も、イエスはこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくても良い」と言われ、若者よ、あなたに言う。起きなさい。と言い息子をその母親にお返しになられました。(ルカ7:13)

ベトサイダの池では、38年も病気で苦しんでいる人に、良くなりたいかと問い、起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。と命じ、病気を癒されました。

新約聖書を紐解けば、イエスが人々とどのように接しられたか、苦難にあえぐ者、悲しみに浸るもの、病に悩むもの、このような人々は社会の底辺で、いわばはじき出され、社会の端に身を隠す様に生きていた人々です。しかしこのように、イエスは苦しむ者と共に苦しみ、飢える者と共に飢え、病む者と共に病を負われ、共に涙を流してくださる「苦難の僕」であったのです。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣かれるお方なのです。

 

 上から見れば同情となります。見上げれば傍観者となります。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。これは我が事の様にその者と同じ目線で物事を捉え感じた時になしうることなのだと思うのです。私達にはそれが出来るでしょうか。これは出来るとか出来ないとかと言う問題ではなく、その心が培われるように、ひとりひとりが神の愛を真心から受け入れ、自らも喜ぶ者であり、泣く者であることに自らの目が開けたときに養われる心であると思います。

 最後に、作者も題もわかりませんが、私の心に響く詩がありましたのでご紹介します。

 


気軽になにかを与えるということ
それはなにかを取り上げることよりも辛く大変なことだ。
この地上で一人の人に全てを捧げるということ
それは世界の全てを手に入れることよりも
恥ずかしく難しいことだ。
あなたは、なに一つ持っていないから、あげられるものがなにもないと
心を痛める人を愛します。
彼はすでに多くのものを誰かに与えた豊かな人だからです。

 

 苦難の僕、メシア。十字架への道をたどるキリストが、虐げられた者に寄り添い、悲しむ者に寄り添い、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣いてくださる。このことを深く心に刻みたいと思います。
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私は世の光である。
 

 久しぶりに一日降り続いた雨もあがり、月の光が美しい夜となりました。満月なのか、月の光が明るいので今夜は星を多くは眺めることが出来ません。

 外に出て月の光を浴びながら、旧約聖書の創世記の記事を思い起こしました。
「大なる光に昼をつかさどらしめ、小さき光に夜をつかさどらしめたもう。」

天地創造の記事のひとこま、そして内村鑑三の著作、洪水以前記の一説です。洪水とは、ノアの箱舟の時に神が起こされた洪水を言うものです。



 内村鑑三は、この聖書の一節をこのように解説しています。

 

余はよく大光をもって昼をつかさどらしめたまいし神の聖意を解す。されども小光をもって夜をつかさどらしめたまいし神の慈愛にいたっては、余の推測以外にあり。

 もし夜にして全くの暗黒ならんか、なにものかこれにすぐるものあらんや。あたかも頭上に黒板を述べしがごとき状、晦冥のうちに一点の希望なく、日入りてより日いずるまで、宇宙はふたたび暗黒の淵と化して、夜来るごとに吾人は深淵の恐怖に圧せられて、青天の光輝もためにその喜楽を失するに至らん。されど神は夜の来ると同時に吾人を去らず。彼は穹蒼に月と星とを懸けて暗黒のうちに、なお神助の灼々たるを知らせたもう。

 神は
7日をかけて天地を創造されました。そしてその一日は、夕方から始ります。夕方は一日の終わりではなく、一日の始まりであり夜明けへの希望を持ち、光を待望むときです。夜の闇は何かと人の心を不安にするものです。悪がはびこるのも闇の内です。しかし闇の向こうには、「私は世の光である。」と言われたキリストが私達を招いていてくださいます。静寂な夜にも感謝を捧げ平安が与えられますように。闇の内に輝くキリストの光が僕達の救いとなるのです。


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