2012年6月3日
聖書 ローマの信徒への手紙 12章9節〜21節
「 苦難の僕(しもべ) 」
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。
あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
先日テレビ番組で、自殺防止に尽力する牧師の働きを放送していました。私はもしや教会の働きではと思ったのです。私の思い通りその牧師は、和歌山県にある教会の牧師でした。番組の中では、教会とか牧師と言う点に具体的に触れることはありませんでした。自殺防止対策として、いのちの電話などというものがありますが、この牧師の働きは、それらとは全く質を異にするもので、行政などからも注目されているそうです。
私が調べた統計によりますと、年間の自殺者数は3万人とも言われています。年代は幅が広くまたその原因は比率の高い順に、健康問題がもっとも多く、生活経済問題、そして家庭問題となっています。殊に平成10年以降自殺者数は多くなる傾向にあり、無職男性の自殺率がもっとも多いのです。
この教会の近くには、いわゆる自殺の名所と言うところがあるのです。その場所に公衆電話があり、この牧師はその公衆電話に小銭を置きに行くことが仕事でもあるのです。自殺しようとしている人は、お金を持っていないことが多いそうです。そして教会の電話番号がわかるようにしてありました。教会に電話がかかってくるとすぐにその場所に駆けつけ、教会に連れてくるのです。そして話を聞き、自殺を思いとどまらせ、その人が落ち着きを取り戻し、社会に復帰できるまでの世話をするというのです。教会での共同性生活が始まります。職を探し定職について社会に復帰するということは、今の社会の状況からしてみても並大抵のことではありません。本人はもとより、牧師にも相当の忍耐が求められると感じました。
自殺をしようと思う心の内を理解し、その思いを解きほぐし、命の尊さを説いて聞かせ生きてゆくことに希望を見出させ、牧師ではなく当のその本人が、社会に復帰しようと決断するまでの時の経過は測りがたいものであると思います。自殺をしようとした者が、社会に復帰し自立できるまで添い遂げる。こういう働きをこの牧師はされているのです。これは、社会的にも高く評価されるべき働きであると思います。しかしこの働きは、慈善事業でも社会貢献でもなく、神の愛に礎を据えたものの上にあるのだと私は思うのです。人を愛せなければ出来ない仕事です。そして教会に身を寄せるこの人たちと牧師とが同じ線の上にあるのです。そうでなければ、救った者と救われた者。世話をした者と世話になった者と言う話で終わります。
命の尊さと言うことについては、私の思うところを申し上げるまでもなく、皆さん一人ひとりが理解され、大切にされていることです。私達ひとりひとりの体も魂も、ひとりひとりのものではなく、それを自由にすることは出来ません。ですから自殺と言うことは、神の前には大罪であるのです。
ハイデルベルグ信仰問答第一問をご紹介します。
第一問 生きるにも死ぬにも、あなたの唯一の慰めは何ですか。
答え 私の唯一の慰めは、生きるにも死ぬにも、私の体も魂も、私のものではなく、私の唯一の救い主イエスキリストの所有であると言うことです。
主は尊い血をもって、私のすべての罪の代価を完全に支払ってくださり、私を悪魔のすべての支配から贖いだしてくださいました。
主は今も、天にいます私の父の御心でなければ、私の頭から髪の毛一本も抜け落ちることのないように、いな、すべてのことが私の救いに役立つように、私を護っていてくださいます。
それゆえ、主はご自身の聖霊によって、私に永遠の命を保証し、今から後は主のために生きることを、心から喜び、進んでそうすることが出来るようにしてくださるのです。
聖書はこの様に私達に神の救いを説き、私達はこの様に、神の救いに与っているのです。
昨今は蔑んで見ることを、上から目線と言う言葉で表現することが多くなってきました。人の深層心理には、他の者より上でありたいと思うところがあると思います。他の者より優位でありたい。或いは、自分は他の者より優れていると言わないにしても、その仕草に垣間見られることがあるものです。そう言う人の思い上がりの心とは対照的に、神であるキリストは、仕えられる者ではなく、仕える者となられたのです。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。これはフィリピの信徒への手紙の一節です。キリストの愛を知る私達の心を鋭く刺し通す言葉であります。
自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。・・・・私達はキリストを仰ぎ見ても、キリストは私達を見下すことはないのです。
さて、イザヤ書53章は苦難の僕と呼ばれ、メシアの苦難の預言が記されている箇所です。そのところをご紹介します。
「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。
見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
このところは、新約的に解釈すれば私達罪人のために、罪人である私達が一人として滅びることがないようにと、この世に遣わされたキリストの生き様を物語っている箇所であると理解できます。そしてこの苦難の僕の苦難は、彼自身に原因があるわけではなく、キリストがそうであったように、他の人々の代償なのです。
聖書の神は「慈しみ」「憐れむ」神です。
出エジプトの後に、神はシナイ山でモーセに「主、主、憐れみあり、恵みあり、怒ること遅く、慈しみとまこととの豊かな神」。とご自身の名を顕わされました。聖書の「憐れむ」と言う言葉は、「苦しむ者があれば、一緒になって共に苦しむ」と言う意味があります。この苦しみを担い、共感する神は、新約聖書ではイエス・キリストの姿の中に「神、われらと共にいます」ことを示されました。
新約聖書の記事の中からイエスの憐れみを見てみましょう。
イエスは町や村を残らず回って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気や煩いを癒された。また群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て深く憐れまれた。(マタイ9:36)。
重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて癒しを願った時には、イエスは深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われ重い皮膚病を癒されました。(マルコ1:41)
ナインと言う町のある母親が一人息子を亡くした時も、イエスはこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくても良い」と言われ、若者よ、あなたに言う。起きなさい。と言い息子をその母親にお返しになられました。(ルカ7:13)
ベトサイダの池では、38年も病気で苦しんでいる人に、良くなりたいかと問い、起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。と命じ、病気を癒されました。
新約聖書を紐解けば、イエスが人々とどのように接しられたか、苦難にあえぐ者、悲しみに浸るもの、病に悩むもの、このような人々は社会の底辺で、いわばはじき出され、社会の端に身を隠す様に生きていた人々です。しかしこのように、イエスは苦しむ者と共に苦しみ、飢える者と共に飢え、病む者と共に病を負われ、共に涙を流してくださる「苦難の僕」であったのです。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣かれるお方なのです。
上から見れば同情となります。見上げれば傍観者となります。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。これは我が事の様にその者と同じ目線で物事を捉え感じた時になしうることなのだと思うのです。私達にはそれが出来るでしょうか。これは出来るとか出来ないとかと言う問題ではなく、その心が培われるように、ひとりひとりが神の愛を真心から受け入れ、自らも喜ぶ者であり、泣く者であることに自らの目が開けたときに養われる心であると思います。
最後に、作者も題もわかりませんが、私の心に響く詩がありましたのでご紹介します。
気軽になにかを与えるということ
それはなにかを取り上げることよりも辛く大変なことだ。
この地上で一人の人に全てを捧げるということ
それは世界の全てを手に入れることよりも
恥ずかしく難しいことだ。
あなたは、なに一つ持っていないから、あげられるものがなにもないと
心を痛める人を愛します。
彼はすでに多くのものを誰かに与えた豊かな人だからです。
苦難の僕、メシア。十字架への道をたどるキリストが、虐げられた者に寄り添い、悲しむ者に寄り添い、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣いてくださる。このことを深く心に刻みたいと思います。