2012年8月5日
レビ記19章9節〜18節
「 二つの掟 」
穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落穂を拾い集めてはならない。ブドウも摘み尽くしてはならない。ブドウ畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これは貧しい者や寄留者のために残しておかなければない。私はあなたたちの神、主である。
あなたたちは盗んではならない。嘘をついてはならない。互いに欺いてはならない。私の名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。私は主である。
あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神を畏れなさい。私は主である。
あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。民の間で中傷したり、隣人の生命に関わる偽証をしてはならない。私は主である。
心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分を愛するように隣人を愛しなさい。私は主である。
あなたたちは私の掟を守りなさい。二種の家畜を交配したり、一つの畑に二種の種を蒔いてはならない。また二種の糸で織った衣服を身に着けてはならない。
母の死から一年の歳月を経ました。カラスの鳴かない日はあっても、母のために祈らない日はありませんでした。母の死の現実を受け入れる心が与えられるまでには、相当の日数を費やしたように思います。墓標に母の名を刻んだ時、この時が私にとっての一区切りの時となりました。人によっては、肉親或いは親しい者の死が、その後の人生に蔭を落とすことも少なくはないと思います。人の死について考えさせられることの多かった一年でもありました。
さて、滋賀県大津市での学校でのいじめは、いじめられた当人が自ら命を絶ち、いまや警察が介入するほどに深刻な事態にまで重篤な問題になっていることに衝撃を受けています。学校や教育委員会の対応は、組織擁護ではないのかと思われた方も少なくはないようです。いじめによる自殺は、客観的に考えてみれば、殺人とも言えると私は考えています。
最近のニュースによると、韓国でも同様ないじめがあり、社会問題となっているそうです。
いじめは、私が中学校の頃にもありました。当時は、“いじめ”と言う言葉ではなかったように記憶していますが、差別であったり、無視であったりと本質的にはいじめと変わりはないと思います。
私の友達の一人が中学校の時、いじめに合っていたことを話してくれたことがあります。その境遇は、私と同じでした。私もいじめられたひとりです。そして登校拒否もしました。そう言う私の傍らで、両親と担任教師の困惑を垣間見ながらも、学校に行こうとする気が全く起こらなかったことをよく覚えています。
そんな頃、私が心にしていたことは、“大人になったら奴らを見返して、私の前でひざまずかせてやる。”こう言う思いでした。今となっては遠い過去の話ですが、私の友達も同じことを考えたそうです。そのために私達がしたことは、まず勉強をすること。そして多くの資格を取ることでした。ですからいじめられていても、自らの命を絶とうと言う考えに及ぶことはありませんでした。いじめの質も時代と共に変化があり、陰湿になってきている傾向は強く顕れています。袋小路に追い込まれ、もう逃げ道がなくなってしまった。おそらくこういう状況に悲観した結果が死の選択なのだろうと思います。
この国の将来を担う青少年が、自らの命を絶とうと言う思いに至る社会ではなく、自らの将来に夢を抱き、大きく羽ばたける社会をつくることが、この国の国民としての責任でははないかと思います。そう言う私に何が出来るかと問われれば、今は、祈ることしか出来ません。
逃げることがよい意味に使われることは多くはありません。しかし、逃げる勇気が必要なこともあります。その逃げ場が家庭であり、社会でなければならないと考えるのです。家族関係さえもが希薄になってきている時代となって来たことは否定できません。社会について見ればなおさらの事です。私もその社会を構成する者のひとりです。私達がその受け皿になることが出来るでしょうか。人の心の奥底には、厄介なことには関わりたくないと言う思いが必ずあると思います。そう言う思いは少なからず私にもあります。
昨今は人を蔑んで見ることを、上から目線と言う言葉で表現することが多くなってきました。人の深層心理には、他の者より上でありたいと思うところが見え隠れするもののように思います。他の者より優位でありたい。或いは、自分は他の者より優れていると言わないにしても、その仕草に垣間見られることがあるものです。そう言う人の思い上がりの心とは対照的に、神であるキリストは、仕えられる者ではなく、仕える者となられたのです。
ここで創世記から、神が人をどのように創造されたかを思い起こして見ましょう。
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うもの全てを支配させよう。」神は、ご自分に象って、人を創造された。男と女とに創造された。
神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物全てを支配せよ。」
神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、あなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、全て命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」
このように人は、神のかたちに象られ、神に似せられた者として造られ、神の祝福を受けたものなのです。それにも関わらず、何の善きことがあって人が人を傷つけなければならなのでしょうか。
いじめの構造を見る時、いじめる側といじめられる側が一対一である場合と、ひとりを多くの者がいじめる場合とがあると思います。いずれにしてもいじめられる側はひとりです。いじめる側の者の中には、本心はそうしようと思ってはいないのに、加担しないと自分もいじめられることになるかもしれないと言う心理が働いて、いじめの仲間に加わっている者もいると思うのです。集団心理とも言うのでしょうか、こういう事例が現実にあるようです。
マタイによる福音書23章でイエスは、律法の専門家にこのように語っています。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な掟である。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しない。」
律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。
ハイデルベルグ信仰問答の第5問は、あなたはこれら全てを、完全に守ることが出来ますかと問うています。そしてその答は、いいえ。私は生来、神と隣人を憎む傾向を持っているからです。と明言しています。続く第六問では、それでは、神が人間をそんなに悪く、心のねじれた者に創造されたのでしょうか。と問い、いいえ、そうではありません。と答えています。
因みにハイデルベルグ信仰問答は、ドイツのハイデルベルグと言う町で編纂されたことからこの名前がついているものです。
社会の中で引き起こされる多くの事件は、到底受け入れがたい自己中心、自分本位、そして欲が自らを惨めにさせると共に、当人を取り巻く人々をも巻き込み、種々の問題の火種となっている事例が多いように思います。
人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。洪水の後、神は御心に言われました。このような人間の腐敗した性質は、人類の最初の先祖であるアダムとエバの堕落と神への不従順によるものであると聖書は私達に教えています。
罪の根源は自己中心であり、神から離れ、神に背を向けることです。消臭剤でどれだけ匂いをごまかしても、匂いの元を断たなければ問題の解決にはなりません。猫を追うより皿を引けとも言います。行いとしての罪は私達が世にある限り、切っても切れるものではありません。
人がエデンの園にあったとき、神の言いつけを破ってしまったその瞬間に、人にあった霊が、その行いによって消滅してしまい、その代価として死が与えられました。罪に対する報酬は死の他ありません。しかし私達は、どうやってもその罪の根源を断ちきる事ができないのです。
ローマの信徒への手紙の中で、パウロはこのように記しています。
私は、自分のしていることがわかりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。私は、自分の内には、つまり私の肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうとする意思はありますが、それを実行できないからです。私は、望む善は行なわず、望まない悪を行なっている。もし、私が望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはや私ではなく私の中に住んでいる罪なのです。
私達はどうでしょうか。時に、あんなことをしなければ善かった。言わなければ良かったと、そのことによって何か問題が引き起こされたとき、良心の呵責にさいなまれることはよくあることです。私達、人は罪に対しては無力なのです。だからと言って責任転嫁をすることが出来ることではありません。全ては自らの責任です。
このようなたとえ話があります。私達は罪を犯したり、人に対して悪い思いを抱いたりすると胸が痛む思いをするものです。胸が痛む原因は、罪の類は鋭い角があるからです。そう言う思が湧き上がったり行なったりとすると、心の中に鋭い角のある物が突き刺さるので傷みを感じることになります。しかし、これが幾つも心の中に入ってくると、角と角とが触れ合う内に角が取れて丸みを帯びてくるのです。こうなると痛みを感じなくなり、これが罪意識を鈍感にしてしまうのです。この結果が罪を犯したり、人を傷つけたりと言うことに対して、心に痛みを覚えない悲惨を招いているのです。
パウロの言葉を続けます。
善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっていると言う法則に気付きます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、私の五体にはもう一つの法則があって、心の法則と戦い、私を五体の内にある罪の法則の虜にしているのがわかります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救い出してくれるでしょうか。私達の主イエス・キリストを通して、神に感謝いたします。このように、私自身は神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。
ローマの信徒への手紙のパウロの言葉としてご紹介しましたが、神の御前に謙虚に佇むとき、私達の口からも出るべき言葉であると思います。私達は罪ということに対して、おのおのが持ち合わせた理性と教養によって、物事の善し悪しを判断することが出来ます。しかしこれは、罪からの救いとは質を異にするものです。神の前にはあっては、いくら善きことを思い図っても、罪人なのです。しかし、このことに落胆することはありません。
私たちは「土の器」であると言われています。土の器はやがて壊れてしまいます。私たちはこのままでいれば、脆くも壊れて死んで滅んで行く者でした。「わたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされて行く。」という御言葉があります。土の器である私たちの外なる肉体は日々古び、衰えて行きますが、内なる人、すなわちキリストの救いによって生まれ変わった私たちの霊は日ごとに新しくされ、キリストに似るものとされているのです。ですから肉では罪の律法に仕えていると言う惨めさを担いながらも、希望に満たされ生きてゆくことが出来るのです。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。これは新約聖書のフィリピの信徒への手紙の一節です。キリストの愛を知る私達の心を鋭く刺し通す言葉であります。
私達はキリストを仰ぎ見ても、キリストは私達を見下すことはありません。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。このことは、見上げるのでもなければ、見下ろすのでもない、その人と同じ高さでものを見、また感じた時に出来得ることではないでしょうか。
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」「隣人を自分のように愛しない。」イエスが示されたこの掟を深く心に刻み、キリストを証する者としての働きが出来るように。そして救われた者として、この救いの喜びを命の限り宣べ伝えることが出来るように祈りましょう。
この国の将来を担う若者が、自らの命を絶たなければならないような悲惨が続くことがないように。そして全ての人に、神より賜る平安がありますように。このことを心に刻み、今週も信仰の歩みを進めて参りましょう。