2012年9月2日
旧約聖書コヘレトの言葉 12章1節〜14節
「 神への畏れ 」
青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。
その日には家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。粉ひく女の数は減って行き、失われ窓から眺める女の目はかすむ。
通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。
人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負いアビヨナは実をつける。人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。
白銀の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壺は割れ、井戸車は砕けて落ちる。
塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と。
コヘレトは知恵を深めるにつれて、より良く民を教え、知識を与えた。多くの格言を吟味し、研究し、編集した。コヘレトは望ましい語句を探し求め、真理の言葉を忠実に記録しようとした。賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。ただひとりの牧者に由来し、収集家が編集した。
それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。
すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。
神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。
私達が使っている聖書は66巻の巻物から成り立っています。旧約聖書39巻、新約聖書27巻です。聖書を分類しますと、先ずは旧約聖書と新約聖書に分けることが出来ます。本日のコヘレトの言葉は、旧約聖書の中で更に知恵文学と言う分類の中にあります。『ヨブ記』、『詩篇』、『箴言』、『雅歌』、などがそれにあたり、人間が生きる上で味わう苦しみの意味を説き、神への感謝や賛美を詩や説教などの形で記しています。私は、人間味あふれる内容のものが多いと言う印象を持っています。因みにコヘレトとは人名ではなく、ヘブル語で伝道者を意味します。口語訳聖書では伝道の書となっていましたことは皆さんの記憶にあろうかと思います。著者については様々な議論がありますが、ソロモンであると言う考えが大勢です。
さて、本日選びましたコヘレトの言葉12章を読んでいますと、私の脳裏には“ゴンドラの歌”が思い起こされるのです。
命短し 恋せよ乙女
紅き唇 あせぬまに
熱き血潮の 冷えぬまに
明日の月日の ないものを
命短し 恋せよ乙女
黒髪の色 あせぬまに
心の炎 消えぬ間に
今日は再び 来ぬものを
人の人生には、時と言うものがついてまわります。それは聖書にも記されていることであります。
青春の日々にこそ、お前の創造主を心に留めよ。・・・汝の若き日に創り主を覚えよ。この表現の方がなじみがあるのかもしれません。
先ず神があり、最初から神を信じているユダヤ人にとっては、神を思い起こし、このことは意識せずともユダヤ人の心におのずと育まれたものであると思います。しかし創造主である神を知らない日本人にとっては、先ずそのような神の存在があること知らなければなりません。そしてその神を信じて自分のすべてを委ね、日々を生きるようにとすることから始ります。それも青春の日々にこそと言われているのです。これが神の定められた時のひとつであります。3章には、その時についてこのよう記されています。
何事にも時があり、天の下の出来事には全て定められた時がある。全ての出来事、全ても行為には、定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失う時、保つ時、放つ時、裂く時、縫う時、黙する時、語る時、愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時。
また新約聖書では、マルコによる福音書を見てみますと、イエスが最初に語った言葉は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と言う言葉です。ここでイエスが用いた言葉「時」と言う単語の原語はギリシャ語の「カイロス」と言う言葉が使われています。ギリシャ語の「時」という単語にはもう一つ、「クロノス」と言う言葉があります。このクロノスと言う言葉は、時計で計る普通の時間のことです。一方、先の「カイロス」は「実行の時・決断の時」を表し、ある出来事が起きる、主観的な「時」を表します。
これらの言葉を当てはめて見ますと、イエスはその宣教の最初の叫びとして、「カイロス決断の時は満ちた」と言われたのです。礼拝を始める時のように、「それではクロノス(時間)になりましたので、礼拝を始めます」と言ったのではありません。「カイロス」実行の時・決断の時が満ちた。と言われたのです。つまり、決定的なことが起きたのだ。決定的に重要な意味が私たちの人生に与えられたのだと言われたのです。それが何なのか。それはキリストによる福音の到来に他なりません。
ここで何年か前に木下牧師の説教で紹介された詩を思い起してみましょう。
『大きな事を成し遂げるために、
力を与えて欲しいと神に求めたのに、
謙遜を学ぶようにと、弱さを授かった。
偉大なことができるように、
健康を求めたのに、
よりよきことをするようにと、病気を賜った。
幸せになろうとして、
富を求めたのに、
賢明であるようにと、貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして、
成功を求めたのに、
得意にならないようにと、失敗を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが、
願いはすべて聴き届けられた。
神の意に沿わぬ者であるにもかかわらず、
心の中の言い表せない祈りは、すべて叶えられた。
わたしは最も豊かに祝福されたのだ。』
私達が送る人生のそれぞれの時は、善きも悪しきも運命ではなく、その時々に神が関与されているのです。私達の人生は、神の御手のうちにあるのです。
さて12章にもどりまして、どうして青春の日々にこそ、創造主を心に留めよと勧めるのでしょうか。3節以降にその理由が並べられています。それは、1節に記されているの苦しみの日を象徴的な表現で書き記るしたもので、人の生涯を多くの喩を使い悲観的に表現しています。3節から8節までをまとめてみますと、人の人生は最終的には死が訪れ、誰一人として死から逃れることは出来ません。死は人から全てものを奪い去るのです。このように人の人生は言いようも無いほど虚しいのだとコヘレトは言うのです。
私達はコヘレトが言うように、空しいままの人生でこの世を去らなければならないのでしょうか。そのようなことは到底考えられることではありません。それに私達は日々の暮らしの中で常に空しさに浸り、その思いを引きずって夜を迎え、明日の日の光を待つと言うようなことは無いと言っても間違いではありません。
なんと空しいことか、とコヘレトは言う。全ては空しいと。この言葉は、この書の出発点となります。
1章2節の言葉です。「コヘレトは言う。なんと言う空しさ、なんと言う空しさ、全ては空しい。」
空とは、元来「息」とか「水蒸気」を意味する言葉です。コヘレトの言葉では、これをすぐに消えてしまうもの。実態の無いもの。さらには信頼するに足らないものと言う意味に譬えています。また何の結果も生み出さない虚しさと言う意味をも含ませています。
物事に対する空と言う捉え方は仏教にもあります。般若心経は皆さんもご存知かと思いますが、その中には、一切皆空、色即是空などと言った文言がありますが、コヘレトの言葉の空と仏教の空には共通する思想はありません。調べたところをそのまま申し上げますと、仏教で言う空とは、仏教の因果論の究極形であり、因果および因縁の複雑な連関にあります。したがって、空を理解するにはまず因果と因縁を理解する必要があります。この世のすべての物事は相互に因縁によって結びつき、ある現象を構成しています。この因縁の関係性こそが「空」だという考えであるのです。仏教に疎い私にとって、わかりやすく説明できないことが残念です。
さて、エルサレムの王でありましたソロモンの晩年の作であると言われるこの書は、ソロモンは決して幸福に満ち、王として充実した人生を送った人ではなかったという事実を私たちに示しております。
私が神学生であった時のマルコによる福音書についての課題のひとつに、マルコによる福音書の中に何回“すぐに”と言う言葉が使われているかをまとめなさいと言うものがありました。このような課題が出るほど、マルコによる福音書にはすぐにと言う言葉が多くあります。
それで、これは私が調べたわけではありませんが、聖書を詳しく調べた方がありまして、それによりますと、旧約聖書に「空しい」を意味する語が、72回出て来るのですが、そのうちの約半分の37回は、この「コヘレトの言葉」にあるそうです。ですから栄華を極めたと言われるソロモンが、いかに空しいと感じる人生を送った人であるかが判ると思います。
この書を通して呼んでみますと著者であるソロモンが、幸福と満足を得るために試みた人生の記録であると言うことが出来ます。神を持たない生活がいかに空しいものか、その体験を詳細に記録したものであります。神は、ソロモンに権力も富も能力も与えました。そして、人生を探求する知恵と多くの機会を与えられたのであります。
そして、数多くの探求と経験の後に、ソロモンが下した結論は、「人は神から離れては、この地上の人生には確実な幸福を見出すのは困難であり、空しいものである。」と言う事でした。
またこの書は、何か厭世的な気分がしないでもありません。じっくり読んでみますと、確かにその通りだと思わされるところもあり、あたかも私の心の中を覗かれているような気がする言葉もあります。世の中のものはすべて、富も名誉も地位も快楽もすべてあらゆるものはいつかは過ぎ去ってなくなってしまう空しいものだ、と言うことがいろいろ格言を交えながら延々と綴られています。
空しい、空しい、空しい・・・で綴られてきたコヘレトの言葉ですが、ところがこの12章の後半、9節以降は内容が一転します。ここはこの書の結びになっており、空しい人生を歩んだが故に得た結論であると言うことが出来るのではないのかと思います。
「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。…これが人生の幸福と意味はどこにあるかを知るために、あらゆる事を調べ尽くしたというコヘレトの結論です。
思ってみれば、くどくどと12章にも渡って“空しい、空しい”と記して結論はこの一言です。しかし、この一言がもっとも重要であり、人にとっては到底行なうに厳しい言葉であります。
神の戒めは、先ず創世記に既に記されています。創世記を見てみますと、神の姿に象って創られた最初の人であるアダムとエバですら、神の戒めを守ることは出来なかったことが記されています。創世記2章16節で、神はアダムにこのように語っています。
主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』
しかし、アダムとエバは蛇に誘惑されてこの戒めを破りました。そこから罪に染まった人類の歴史が始まったことは、皆さんもご存知の通りです。
私たちも、そうと聞いてはいても、そうと知ってはいても、本気で神を畏れ、その戒めに従って生きようとするまでには、実に多くの罪や失敗を重ねなければならないと思います。それほど、私たちは自己中心で物分りが悪い者なのです。しかし、大切なことは、その経験から何を学ぶかということです。罪や失敗の苦しみを通して、謙虚にされ、神を畏れてその戒めに従う者とされることが大切なのです。
ですから、コヘレトはこう勧めたのです。青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。
そして聖書は、主を畏れるは、知恵の始めと教えています。旧約聖書の箴言にある一節です。聖書を通して信仰に導かれる者たちにとって、信仰とは、神への畏れをもって生きるということです。私たちが信じるから、私たちの信じる神が存在すると言うのではありません。それでは、私たちの手で神を造ることになってしまいます。神への畏れを忘れたそのような信仰のあり方を、聖書は偶像崇拝と言うのです。
神への畏れをもって生きるということは、聖書が語るイスラエルの民の歴史が示すように、人間である私たちには耐え難いことなのかもしれません。神への畏れをもって生きるとは、常に、私たちの「上」におられる神を意識して生きると言うことだからです。 そして神は、人が御旨に従うことが出来ないと言う人の弱さを知っておられます。
「主を畏れることは知恵のはじめ」。知恵とは、人間としてふさわしく、幸せに生きることが出来るための恵みです。張り切って人生を謳歌している間は、このような知恵の恵みに気付きません。何でも出来るということが、また自分の心の赴くままに生きることが必ずしも、私たちに幸せをもたらすわけではないのです。
では、最後に新約聖書を見てみましょう。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
イエスが示されたこのこの掟は、旧約の時代から示された人としての本分であります。そして今なお、私達に与えられている戒めです。謙りの心を以って神の言葉に聞き従うことが出来ますように共に祈りましょう。
神の言葉は、真であり、命です。神への畏れを忘れることなく、神を父と呼び、イエスを友として、御霊の神に支えられる人生の未来には、永遠の命が約束されています。そのことは復活の主が保証して下さいます。