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身を委ねる
 

夕方、薄暮の空を見ていると一等星の瞬きと共に、飛行機の灯火の点滅が空を横切ってゆきます。ともすると名古屋に着陸するのかなと、客室の窓の明かりがわかるほどに低空を飛んでゆく飛行機もあります。どこから飛び立って、どこに着陸するのか。また、どんな人が、どんな思いを胸に乗っているんだろうと思いを巡らします。僕は飛行機と電車が好きな乗り物です。いくら好きでもこれからの人生で、飛行機に乗ると言うことは恐らく無いと思いますが。

 

飛行機に最後に乗ったのは、ヨーロッパを旅行した時でした。名古屋空港からフランクフルトまで、約11時間の空の旅です。乗り物の中で、事故件数が少ないものの中に数えられるもの、つまり安全な乗り物として飛行機が挙げられるそうです。確かに新聞やテレビニュースを見聞きしていても、飛行機事故の報道は少ないです。その反面、事故が起きたときの被害は、27年前の日航機御巣鷹山墜落事故を思い起こせば悲惨なものであることがわかります。

飛行機に乗る時、この飛行機が事故を起こすなどと言う事を考えて乗る人はおそらくないと思います。安全性に絶対的信頼を寄せて乗ることは間違いないと思うのです。

 

 

今週は、2名の教会員の方が、天に召されました。そして時を同じくして、僕の叔母も亡くなりました。神の御許で安らかでありますように。復活の時には、また会い見まえることが出来ますようにと願ってやみません。

この世に生を受けてから僕達の人生の全ては、喜びも悲しみも、楽しみも苦しみもその一切は、神の御手の中にあります。信仰者の生活が日々、喜びに満ちて楽しいことばかりがあるかと言えば、決してそのようなことありません。



信仰者である者が、神を信じつつもこのような思いをしながら信仰を捨てず、それどころか日に日に、神への思いを篤くしてゆくことができるのは、神と人との間にある未来への約束があるからです。

 

飛行機が空港を離陸すれば、命を翼に委ね目的地に到着するまで何があっても飛行機から降りることは出来ません。信仰の歩みは、人生の全てを神に委ねることです。喜びの日も、悲しみの日も。雨の日も、晴れの日も。

 

このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。

それだけではなく、艱難をも喜んでいる。なぜなら、艱難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。<新約聖書 ローマの信徒への手紙 5章:15>

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豊かに生きることへの源泉
 

 これから時期は、一雨ごとに寒さが増してゆきます。やがて雨が雪に変わり本格的な冬の到来へと時が移り行くのですね。子供の頃を思い起こしてみると、母の働く姿が目に浮かびます。ダイコンやハクサイを収穫しては、冬を越すための漬物つくりに精を出していました。当時は、漬物と言えば家で漬けるものでした。この時期に冷たい手作業であったと思います。漬物だけではなく、年末ともなれば正月を迎えるために、正月料理を作り餅をつきと、風物詩であったと思います。

 時は移り、今や手間をかけなくても、その時期に店に出向けば何でも手に入れることが出来るようになりました。先日、ホームセンターに買い物に出かけたのですが、もう鏡餅が店頭に並べてありました。いかにも早すぎるのではと言う思いで見てきました。

 人の生活は時代の変遷と共に、豊かに便利に変わってきたことは誰もが認めることです。

 その反面、失ってきたものも多いと思うのです。かつては、あることが有り難く感謝であったものが、あって当たり前。人の心が薄っぺらなものになってしまったような気がするのです。感性も薄れてきたような気がします。

 
 日々のニュースからは、いじめ、殺人、強盗などの報道が聞こえない日はありません。年の瀬が迫れば迫るほど、事件は多くなるでしょう。慌しく過ぎてゆく日の中で、時と流行に流されることが、生活に無理を産むのではと僕は思うのです。人に笑われても良いと思います。自らを吟味し自分流の生き方をしてゆく勇気を持つことが、もしかしたらこの先の人生を豊かにしてくれるかもしれません。

 

 


 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分の体のことで思いわずらうな。命は食物にまさり、体は着物にまさるではないか。

 空の鳥を見るがよい。蒔くことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、誰が思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。

 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
今日は生えていて、明日は炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。

 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、明日のことを思いわずらうな。明日のことは、明日自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。<マタイによる福音書6章25〜34>

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励まし
 

 今年もユキムシが舞う時期になりました。真っ白なふわふわの綿毛に包まれて舞う様子はまさに、雪です。舞っているユキムシを捕まえて手のひらに置いてみると、以外にふわふわの綿毛はもろく、取れてしまいました。宙に放り上げてみましたが、もう飛ぶことは出来なくなっており、地に落ちてしまいました。

 悪いことをしてしまったと、うりしろめたい気分でした。家のはるか遠く正面に見える、天照大神が衣を置いたと言わる恵那山の山頂も今年初めての雪化粧です。これからの風に木々が葉を落とされ、枯れ木と化せば本格的な冬の到来です。



 冬来たりなば、春遠からじ。いつもこの時期になると思い起こされる言葉です。厳しい冬がくれば、春はすぐその隣にあり、人生の厳しい時代もいつまでも続くわけではなく、希望に満ちた未来がすぐ後ろに控えているのです。と励ましの意味を持つ言葉です。

 よしんば人を陥れてでも這い上がろうと言う野心にもがき、人は自己中心的思考に傾いている。正直に生きていたら馬鹿を見ると言ってもいいかも知れない今日日の世の中で、人に未来への希望と、励ましを与えられると言うことは、なかなか出来ることではありません。

 寒い冬に向かう時期にあるからこそ、人の心の温かさに触れたい。その温かさを育むものは、神の言葉であると思うのです。
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目には目を、歯には歯を。
 

2012114

 

聖書:マタイによる福音書538節〜48

 

『目には目を、歯には歯を』

 

「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。

しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。

自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」 

 

 

  先日、テレビを見ておりましたら、アフガニスタンの食糧事情について語られていました。

アフガニスタンの人々の主食は小麦粉を練ったものを窯で焼き上げて作ったナーンと呼ばれるものが一般的だそうです。ですからナーンを作るためには原料となる小麦が必要となるわけです。ところが現在、アフガニスタンは小麦の80%を海外からの輸入に依存しなければならない状態に陥っているそうです。その原因は農地の荒廃ですが、それをもたらせたものは、長引く紛争あるのです。アルカイダとアメリカの戦いは皆さんもよくご存知の通りです。これらにより農地は荒廃するばかりか、農民の多くは紛争を避け国外に逃れなければ、命を繋ぐことすら出来ない状況が続いているのです。

 このような中にあっても国外に逃れていた農民のひとりはアフガニスタンに戻り、かつての農地を耕し小麦栽培を始めたのです。テレビに映し出されたその土地の光景は一目で乾燥していることがわかり、決して肥沃な農地とは思うことが出来ませんでした。もちろん自前の種となる小麦はありません。アメリカから提供された種を蒔いての栽培です。ところがアメリカの小麦の種は、アフガニスタンの様な雨の少ない気候に合わず育たないのです。

 テレビでは、50年前のアフガニスタンの小麦畑の映像が映し出されていました。一面青々とした小麦畑です。運がいいと言いましょうか当時、日本の大学の研究者がアフガニスタンから持ち帰った、小麦の種が大学に保存されていたのです。乾燥地帯であっても育ち収穫をもたらせてくれる小麦の種です。現在、その種を使ってアフガニスタンの小麦栽培の復興のための事業が進められているそうです。

 

  国破山河在   国破れて山河在り
  城春草木深   城春にして草木深し
  感時花濺涙   時に感じては花にも涙を(そそ)
  恨別鳥驚心   別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
  烽火連三月   烽火 三月(さんげつ)に連なり
  家書抵万金   家書 万金に(あた)
  白頭掻更短   白頭 掻けば更に短く
  渾欲不勝簪   (すべ)(しん)()えざらんと欲す

 

これは、中国の唐の時代の詩人である杜甫と言う人の「春望」と言う漢詩の最初の一句です。国は戦いに敗れてしまったけれども、山や川はそのままの姿を残していると詠っています。しかし、アフガニスタンのように紛争、内戦などにより国土が荒廃してしまった国は少なくはありません。イスラエル、パレスチナはもとより、殊に中近東の諸国の多くは、このような争いの火種が絶えません。報復が報復を繰り返し報復の応酬となると、歯止めが利かなくなります。次の時代を担うべき子供たちが、教育を受ける機会は多くはないと思います。国土の荒廃と国家の衰退を誰が止めることが出来るのでしょうか。

 

私達も何気なく過ごす日々の生活の中で、様々な問題を抱えながら生きてゆかなければなりません。特に人間関係の問題は心を痛め、精神を疲弊させ人生を消極的にする傾向があります。誰も争いを好むものはありません。出来得る限り、接する全ての人と平和でありたいと願うものです。杜甫は、国敗れて山河ありと詠いました。人のいさかいでは、なにが残るのでしょうか。

 

目には目を、歯に歯を、この言葉を耳にして、なんとも恐ろしい言葉だろうと思う人は数多いと思います。この言葉が最初に出てくるのは、バビロニアの王であったハムラビが制定したハムラビ法典と言われるものの中にあります。この法典は世界で2番目に古い法典と言われているものです。この法典のあとがきには、「強者が弱者を虐げないように、正義が孤児と寡婦とに授けられるように」との文言があり、社会の秩序と正義を守り、弱い者を救済するのが法の原点であることを世界で2番目に古いと言われる法典が語っていることは注目されるべきことであると思います。因みに世界で一番古いとされる法典は、ウル・ナンム法典と呼ばれるものです。

「目には目を、歯には歯を」との記述は、ハムラビ法典では196・197条にあるとされています。この条文の目的は、無限な報復を禁じて同害報復、つまり被害を受けた分と同じだけの報復までに限度を制限したものです。この言葉は現代社会では、「やられたら、やりかえせ」の意味で使われたり、復讐を容認するものと理解されたりすることが一般的ですが、「倍返しのような過剰な報復を禁止して、同等の懲罰にとどめて報復合戦の拡大を防ぐこと。」これを目的としているものなのであって、あらかじめ犯罪に対応する刑罰の限界を定めることがこの条文の本来の趣旨であります。

 

イエスは山上の説教の中で、「あなた方も聞いているとおり、『目には目を、歯に歯を』と命じられている。」と語られています。イエスの語られた、あなた方も聞いているとおりと言うことは、あなた方は旧約聖書に書かれていることを聞いているだろうと言うことを示しています。「目には目を、歯に歯を」今日は、この言葉を聖書を通して見てゆきたいと思います。

 

「目には目を、歯には歯を」この言葉は、出エジプト記21章24節25節に記述があります。「目には目、歯に歯、手には手、足には足、火傷には火傷、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷を以って償わねばならない。」またレビ記24章20節には、「骨折には骨折を目には目を、歯には歯を以って人に与えたと同じ障害を受けなければならない。」と記され、更に申命記19章21節には、「あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。」と記されています。

 これらの記述をよく見てみますと、「償わなければならない。」「同じ障害を受けなければならない。」「報いなければならない。」と規定されています。このことから、報復をせよと規定されているのではないことがわかります。これは加害者としての償いのあり方を示したものと言う事が出来ます。これらは復讐ではなく、償いなのです。レビ記19章18節にこのような規定があります。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい。私は主である。」

 

神の御心は復讐をなくすこと、人が仕返しをしてやろうと思う心から、解き放たれることにあります。このことをイエスは教えようとしているのです。39節以降では、勧めをしています。イエスは、このように言われています。

『悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。誰かが、1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。』

 このように、なされたことに対して抵抗することなくそれに従い、そればかりかそれ以上のことをするように言われているのです。イエスの勧めは、悪や不正に従いなさいと言うことではありません。ヨハネによる福音書には、イエスが役人に不当な平手打ちをされたことに対して抗議をした記録があります。

それは、ユダに裏切れら逮捕されたイエスが、大祭司の下で尋問を受ける場面です。大祭司の質問に対して、イエスの返事の仕方が悪いと下役の役人がイエスを平手打ちにしたのです。これに対して「何か悪いことを言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜ私を打つのか。」とイエスは抗議の声をあげています。

 

「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」人を平手打ちにする場合、普通は利き腕である右手で打つと思います。その時、相手の右の頬を打つには、手の平ではなく手の甲で打つことになります。ユダヤ人社会では手の甲で打たれることは、ひどい侮辱を意味していました。ユダヤ人にとっては「右の頬を打たれる」ことは、その痛みよりも侮辱を受けることの方が問題であったのです。それに対して「左の頬をも向けなさい。」と言うのは、その屈辱から解放された人の姿を現しています。

また、マタイは訴訟の場面で「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。」と記しています。当時の習慣では何着か持っている下着は、担保に要求されることがありました。しかし夜具に使われる上着は、質に取ることが禁止されるほど大切なものでありました。イスラエルの貧しい人々にとって上着は唯一の夜具であったのです。それでモーセの律法は次のように規定しています。「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに帰さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。」しかし、イエスはこの法を拠り所にして、抵抗することなく上着をも差し出しなさいと言うのです。

 

さて、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」これは律法の専門家がイエスを試そうとして、イエスに問うたことに対するイエスの答です。

 目には目を、歯には歯を。この事柄もこの二つの掟に基づくものであることは間違いありません。

 

 「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」と言うの戒めは、イエスによると、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と言うことにまでに及ぶものです。神を信じる者は、平和をつくる者とされます。そして平和をつくる者の生き方はそこまで行き着くと言われているのです。神は全ての人に分け隔て無く太陽の温もりを与え、雨を降らせ、地に実りをもたらせて下さいます。この様な神の恩寵、そしてその事実に気付かないなら、その人は神の愛にも、神の慈しみにも決して気付くことはないでしょう。

しかしイエスに出会い、神の愛に触れた者は、本当の意味で隣人を愛する人、平和をつくる者となって、敵さえも愛し、迫害する者のために祈るようにと導かれ、変えられてゆくのです。これは信じるものに与えられる神から賜る恵みです。平和をつくる者としての働きをなすことが出来ますように、日々祈りを重ねつつ信仰の歩みを続けて参りましょう。

 

“『あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者となりなさい。』”

 

唯一の絶対者である神を敬い、イエスをキリストと信じる私達が、人を恐れることなく愛の一歩を踏み出す知恵と勇気が与えられますように。平和をつくる者として生きることが出来るように導かれている私たち一人一が、平和をつくる者として生きることが出来るように、神を信じ、主イエスに心から従う者でありたいと願います。

 

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神の言葉
 

 11月ともなりカレンダーを一枚めくると、今年も残すところこの2ヶ月になってしまったのかと、時の流れの早さに今更ながら今年は何をしたのだろうと考えてしまいます。

晩秋から初冬への変遷です。朝晩は随分冷え込むようになり、暖をとるために今日はとうとうファンヒーターを出しました。気がついてみれば夜鳴く虫の声は、いつの間にか止んでしまっています。

 マスコミが伝えるのは、原発問題と震災復興。そして政局は国会解散の与野党攻防、これは傍から見ていると恥ずかしささえ感じます。そして事件の多いこと。時代は人の心とは無縁のように、どんどん変化してゆきます。何もかもがデジタル化、そして世の中の尺度は、お金によって測られます。人の心の通じない社会は空しさに満ち、疲弊した人の心は何を拠り所にしたら良いのかと思わざるを得ません。

 神の言葉が、人の心を潤して下さることを僕は願ってやみません。それは、僕が牧師だからと言うだけの心から思うのではないのです。神の言葉は、すべての人に開かれるためにあるからです。何に対しても無力な僕が昨日も今日も、そして明日も生きてゆけるのは、神の言葉が僕の魂を揺さぶり続けていてくれるだからだと思っています。



 
初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。

この言は初めに神と共にあった。全てのものは、これによって出来た。出来たもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。<新約聖書:ヨハネによる福音書1章1〜5>

             
http://www.youtube.com/watch?v=d_ZHBmexctc&feature=related

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