2012年12月2日
マタイによる福音書25章1節〜13節
95.117
『 目を覚ましていなさい。 』
「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人の乙女がそれぞれ灯火を 持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな 乙女たちは、灯火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢い乙女た ちは、それぞれの灯火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
ところが、花婿の 来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎え に出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、乙女たちは皆起きて、それぞれの灯火を整えた。愚かな乙女たちは、賢い乙女たちに言った。『油を分けてください。 わたしたちの灯火は消えそうです。』賢い乙女たちは答えた。『分けてあげる ほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
愚かな乙女たちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿 と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかの乙女たちも来て、 『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。 あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
12月に入り、年末商戦がテレビや街をますます賑わせる時期になりました。本当にあわただしい時期です。陰暦では12月を師走と言いますが、師走の師というのは僧侶を意味し、師走の語源は、家々で僧侶を迎えて読経などの仏事を行うため、僧侶が慌しくなることからだと言う説があります。
今年の教会暦では今日から待降節に入り、アドベントクランツの蝋燭に最初の火が灯りました。待降節とは文字通り、イエス・キリストの降誕を迎える心の準備期間です。待降節の4日の主日にはテーマがあり、それぞれ「再臨」、「洗礼者ヨハネ」、「喜べ」、「御言葉は肉となった」とされています。また、待降節はアドベントとも言います。アドベントという言葉は「到来」を意味するラテン語のアドべントゥスと言う言葉に由来するもので教会では、「キリストの到来」を意味します。
さて、待降節には二つの意味があります。ひとつは、イエス・キリストの誕生を待ち望むことであり、そしてもう一つはイエス・キリストの再臨を待ち望むことです。復活され、天に昇られたイエス・キリストが再びこの世に、私たちのもとに来られることを待ち望むことです。教会の業、そして私達の信仰生活とは、イエス・キリストの第一の到来である降誕を迎え、そこから第二の到来であるイエス・キリストの再臨への望みを置く歩みと言うことができます。
ではなぜ、再臨へと向かう歩みを進めるのでしょうか。それは聖書が、私達に教えているからです。使徒言行録1章に、このように記されています。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなた方から離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またお出でになる。』この言葉を拠り所にするのです。
この約束が弟子たちの希望となりました。そして今を生きる私達信仰者の希望でもあります。イエスがもう一度来てくださる。そして、この世に神の国を実現し、自分達を迎え入れてくださる。その希望を胸に、弟子たちはイエスの十字架、復活を証し宣べ伝えました。ユダヤ人からユダヤ教の異端として迫害を受け、ローマ帝国からは皇帝を拝しない者として捕らえられ、処刑されても、忍耐して信仰を守り、イエスの再臨を待ち望みました。それが当初の教会を支える希望であったのです。
初代の教会は、イエスの再臨はすぐにでも起こることだと考えていました。ところが、すぐにも来られると期待していたイエスは、待てど暮らせど来られないのです。私たちも、人と会う約束をしたときなど、待ち合わせの場所に出向き、約束の時間になっても相手が現れないと、時間を間違えたのではないだろうか。場所を間違えたのではないだろうかと不安になったり焦ったりした経験があります。時間の経過と共に、教会の中に疑いと不安が広がりました。イエスは来られないのではないか?あの約束は間違っていたのではないか? この疑いと不安によって希望と忍耐を失い、信仰を棄て、教会から離れる信徒が少なからずあったことだと思います。このような信徒たちの疑いと不安に聖書は、希望を失うなと励ましています。今日朗読いたしました十人の乙女の譬えもそのひとつです。
今日は、この10人の乙女の譬えから、キリストを迎えるために私達がなすべきことは何なのかを学びたいと思います。
当時のユダヤの習慣では、結婚式は夜に盛大に行われました。まず、花婿と婚礼に出席する人々は、花嫁を迎えに行きます。10人の乙女達は、花嫁の家で花婿の到着を待つのです。その際、灯火をかざして花婿を迎えることが、10人の乙女達の役割でありました。その乙女達は、その場を灯火で明るくして花婿を迎えると共に、花婿が花嫁を伴って花婿の家に移動する時、その行列を明るくする役割も担いました。イエスは、花婿の到着を思慮深く待つ姿を、この10人の乙女の譬えを通して教えられています。
この譬えの話の中で、これはおかしな話だと思われる点がいくつかあります。私達の尺度の中では、この様なことはあり得ない、起こりえないと思われる事柄です。
先ず、10人の乙女のうち、5人が愚かで、5人が賢い。こんなに綺麗に半々に分かれるものだろかと言う事。次に花婿の到着が遅れると言った不測の事態に備えて用意する油は、乙女たちを務めに就けた花嫁の家で用意するべきものであります。また、油が不足することを予期して、二人一組になって出迎えの務めに就くと言うような、助け合う友情と機転を利かすことが普通ではなかろうかと思うのです。更に、油を買いに行って帰ってきた愚かな乙女たちに対して、主人が「はっきり言っておく。私はお前達を知らない。」と断言して締め出すことなどあり得ない話です。非情というほかありません。
この譬え話は、24章を背景としています。24章は、マタイが集録した来たるべき日の預言です。来るべき日とは、イエスの再臨の日を指します。その中でとりわけ、この10人の乙女の譬えは、24章40節から41節の言葉に対して念を入れるものです。その箇所を見てみましょう。
『その時、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼を挽いていれば、一人は連れて行かれ、もう人は残される。』このように記されています。畑仕事も臼挽きも日常の仕事で、特別なものではありません。イエスの再臨はノアの洪水に似て、自分の生活に没頭していた者たちは、洪水が押し寄せるまでわかりませんでした。イエスの再臨は人々が何と言うことなく、ごく自然に普段の日常生活を営んでいるところに突然訪れ、その時には、一緒に畑仕事にいそしむ仲間でも、一緒に臼を挽く間柄でも、救われる者と滅びる者とに分けられる。このことがこの箇所の意味するところです。続く43節では、『だから目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主人が帰って来られるのか、あなた方には判らないからである。』と警告を発しています。
さて、愚かな乙女達と賢い乙女達との明暗を分けたものは、灯火と共に不測の事態を想定して油を持っていたか否かに尽きます。花婿が到着する時間について、おおよそわかっていたことは聖書から読み取ることが出来ます。しかし、乙女たちが皆眠り込んでしまったと言うことから、花婿の到着は相当遅れたのではなかろうかと思います。まだかまだと、いつ来るのか判らない人を待つことは、とても辛いものです。ましてや夜のことですから、眠気が差して寝込んでしまったとしても無理はありません。乙女達が眠り込んでいる間も、灯火は灯り続けていたのです。
この婚礼の場には、夜警についている人たちがいました。『花婿だ。迎えに出なさい。』と夜警の叫ぶ声がし、乙女たちは起きて、灯火を整え花婿を迎える用意に取り掛かったのです。ところが、愚かな乙女たちの灯火の油は、花婿が来られると言うのに充分な量が残っていないのです。賢い乙女たちに油を分けてくださいと頼んではみましたが、あなた方に分ける分の油は私達にはありませんと断られました。婚礼のような祝いの日には、夜であっても店を明けてくれる習慣がありました。賢い乙女達に店に油を買いに行くように勧められて、油を買い戻ってみると婚礼の場の扉は閉じられてしまっていたのです。主人に扉を開けて下さいと頼みましたが、主人は「私はお前達を知らない。」と言い扉は開かれませんでした。いつ花婿が来られても良いように整えが出来なかった愚かな乙女たちの結末です。
先ほど、この譬えの話の中で、これはおかしな話だと思われる点が幾つかありますとお話しました。このおかしな話、あり得ない話をひも解きながら、私達の姿がどのように見えるかを考え学びたいと思います。
7章21節の言葉をご紹介します。『私に向かって、主よ。主よ。と言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行うものだけが入るのである。』次に7章24節からには『岩の上に家を建てた賢い人と砂の上に家を建てた愚かな人がいる。』と言う話があります。
この譬えに出てくる、5人の愚かな乙女と、5人の賢い乙女の分け方は、7章からの一貫した警告の意味があるのです。それはパリサイ人、律法学者に対する警告と審判の通告であり、同時にこの後に受難と迫害の時代に進もうとしている弟子達に対する激励と警告でもあります。マタイによる福音書は、一貫して律法主義者との対決であり、同時に読者であるユダヤ人に対する文書です。
次に、乙女たちを愚かな5人と賢い5人とに分けていますが、これは人数ではなく救われる者と救われない者とを意味するものです。では救われる者と救われない者は何によって振り分けられるかと言う問題が出てきます。それは、予備の油を用意していたか、用意していなかったかによるのです。油は信仰に例えることができます。ごく普通に考えるならば、乙女たちの灯火にする油は、花嫁の家の主人が用意しておくものです。しかし、信仰に譬えられる油は、自分自身で用意しなければならないのです。
ここで、油は信仰を意味しています。信仰は、個人的なもの、主体的なものであります。誰かが用意してくれるものではありません。ましてや愚かな乙女達が、賢い乙女たちに油を分けてくださいと頼んでいますが、信仰は貸し借りをしたり融通したりすることがが出来るものではないのです。信仰とはあくまでも、個人の決断に基づく主体的なものなのであります。
愚かな乙女たちは油を買いに行きました。そうしている間に婚礼の場の戸は閉ざされました。そして帰ってきた愚かな乙女たちに対して、主人が「はっきり言っておく。私はお前達を知らない。」と言っています。このことが予備の油を持っているか、いないかの区別のはっきりされるところです。即ち、信仰があるかないかの基準であったのです。『はっきり言っておく。私はお前達を知らない。』油を持たないものに対して、信仰のないものに対しての、あまりにも厳しい主人の審判の言葉です。
『だから目を覚ましていなさい。あなた方は、その日、その時を知らないのだから。』
いつ訪れるのか判らない人を心待ちにし、眠ることなく灯火を絶やさずに待つということは、たやすく出来ることではありません。しかし、常にその時のために、その日その時のことを覚え、心の内に刻み付けておくことは出来るのです。厳しく冷淡にさえも思える主人の言葉は、「信仰を持ちなさい。」と言う勧めの言葉と受け取ることは出来ないでしょうか。
10人の乙女をキリスト教徒として、最終的にはキリスト教徒の半分は救われないと言う立場をとる教えがあります。その立場をとる人々は、「救われる信仰と、救われない信仰がある。」「本物の信仰と偽りの信仰がある。」と言います。さらに「キリスト教徒の半分は残念だが、偽りの信仰の持ち主である。最後の日にそれが明らかになる。」と言うのです。
これは、キリストを信じるだけでは救われないと言うのですから、聖書全体を貫く最も重要な、「信じて義とされる。」と言う恵の真理、福音の真理に反する教えであります。
私たちは、イエス・キリストの再臨が起こることを聖書の記述を拠り所にして信じています。ですから、イエスが再びお出でになることを待ち望む希望と、そこから生まれる忍耐とキリストへの誠実さを失ってはなりません。
ペトロの手紙2の3章9節には、このように記されています。
『ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。』
主が私たちを最後まで待っていてくださる。どんな時にも待ち望んでくださっている。その主の御心を受け取って信仰の道を歩むこと。それが、今の時代に生きる私達がイエスの再臨を待ち望む信仰のかたちであると思います。