2013年1月6日
マタイによる福音書 4章1節〜11節
90.358
『ただ主にのみ仕えよ』
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、"霊"に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」
次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。
教会暦における、クリスマスの期間は今日で終わります。世の中の動きは、12月25日を境にしているようで、それまではクリスマスの華やかな雰囲気であふれていた街が、新年を迎えるいわば神社や寺院を中心とする厳かな雰囲気に一転します。そのような中にあってクリスマスは、その背後に隠れてしまいます。
公現日とは、東方の国、現在のイラク辺りから占星術の学者たちが、ベツレヘムを訪れ御子イエスを礼拝した日のことです。この日、イエスが限られた人のためだけでなく、全人類の救い主として「公に現れられた」ことが明らかにされました。
おそらく、12月24日の深夜、救い主の星を発見した先鋭術の学者たちは、星に導かれて旅に出たのであろうと思います。その道は予想を超えて、遠く険しく、イエスのもとに到着したのは、1月6日となったのです。
厳冬の日曜日の朝、あるいは日の沈んだ夕、教会に足を運ぶことは、イエスを我が救い主と覚える信仰告白そのものとなります。異邦人である東方の占星術の学者達が、黄金、乳香、没薬を携えてイエスを拝みに来られたのは、バビロン捕囚などによって東方に移ったユダヤ人からの影響が多分にあると思います。異邦人である占星術の学者がイエスを拝しにこられたことは、神の救いは人を選ばないことを意味するものであることを証するものであります。
さて、今日はイエスが悪魔から誘惑を受けると言う記事から学びの時を持ちたいと思います。この記事は共感福音書全てに記されており、ことさら重要なことの一つであると思うのです。
私達も日常の生活の中で、誘惑を受けることが多々あります。誘惑は何らかの不正な或いはよこしまな目的をもって他人を誘うことを言い、決して良い意味で使われることはありません。誘惑に負けたとすれば、それは負けた人の心の根底に欲がうごめいていた結果であると思います。皆さんも経験されたことがあるともいますが、不動産投資、金属や穀物の先物取引などのいかにも不審と思える電話がよくかかってきます。一時は無限連鎖講・いわゆるねずみ講の勧誘も多くありました。相手も然る物で一方的に話を続け、こちらが口を出す隙を与えないと言うのが手のようです。私達が経験する誘惑は、金銭に絡むものが多いようです。
話を少しずらしますが、教会の結婚式では、教派、教団或いは教職者にも寄りますが、会衆に対して、「この者達の結婚について意義あらば申し出よ。もしなくば後日何事をも言うべからず。」と問うことがあります。このことは結婚詐欺や重婚など不正な結婚を阻止するための確認の言葉です。このことは祝福されるべき結婚式を、悪魔からの誘惑を絶つために教会のなすべき業のひとつであると思います。
私達人間は、欲があるばかりに誘惑に惑わされたり、誘惑に陥り立ち直ることさえ困難な状況にまで追いやられることがあります。しかし、神の御子イエス・キリストがなぜ、悪魔の誘惑を受けなければならなかったのでしょうか。疑問に思うところです。
このことについてヘブライ人への手紙には、このように記されています。
『それでイエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、全ての点で兄弟と同じようにならなければならなかったのです。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることが出来るのです。』
ここにキリスト教の特徴とでも言うべき事柄が述べられているのです。一般的に考えれば、何もイエスをキリストとしてこの世に遣わせ、その生涯をかけて人を救済しなくても、
神ご自身が直接、困窮した人々を、罪に染まった人々を救えばよいと言う結論を導き出すことが出来ます。しかし、聖書が語る人類への救済は、真の神であり、真の人である者。そして何一つ汚れ無き者によらなければならないのです。
悪魔の誘惑をうけること、このことは、神による御子イエスへの試練とも言うべき事柄であると思います。そしてイエスが受けた誘惑は、私達が受けるこの世的な誘惑とは質を異にするものであります。ただし、神はイエスを罪に誘惑することはなさいませんでした。イエスは生涯、罪なき者でなければならなかったからです。ここで神が悪魔にイエスを罪の誘惑を許したとしたならば、イエスの十字架の死は意味無きものとなっていました。
ヘブライ人への手紙でご紹介いたしました様に、イエスが罪人の立場に立つだけでなく、人の受ける試みを自らも受けることによって、真の救い主となるためであったのです。イエスは神の子であるから誘惑に遇わないのではなく、神の子であるからこそ誘惑に遇ったのです。
イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒野に行かれた。この箇所の霊に導かれてと言うことから、このことが神の主権によるものであることを知ることが出来ます。
獅子は我が子を千尋の谷に落とすと言う故事がありますが、このこととは意味するものが全く違います。ここでイエスは、悪魔から三つの試みを受けます。
先ず最初の誘惑です。40日間断食し空腹を覚えたイエスに、『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』と言います。イエスは『人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るひとつひとつの言葉で生きる。』と答え悪魔の誘いを拒否しました。悪魔には、『自らの空腹を満たし、飢えている人を助けるなら救い主としての使命を容易に達成できるではありませんか。』と言うイエスの味方を装った裏心があったのです。
ここでイエスが答えた言葉は、申命記8章3節の言葉です。イスラエルの民は、モーセに率いられ荒野を40年もの間さまよいました。それは、エジプトから解放してくださった神を信頼しなかったからです。しかし神はイスラエルの民にマナを与え養われました。このことによりイスラエルの民は、神のまことの顧みを思い、パンも大切であるけれども、パンを与えてくださる神を知り、神の言葉によって養われることはもっと重要で価値があることを学んだのです。
悪魔はイエスに『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』と言いました。しかし、これは神をないがしろにして、自分の力で石をパンに変えて見ろと言うことなのです。ここには悪魔の間違いがあったのです。言葉に思慮が欠けていました。『あなたは神の子だから、父なる神にパンを祈り求めたらどうか。』と言うべきでありました。イエスはこのことを見抜かれていたのです。
先にも触れましたが、4章2節にイエスは40日間断食をされたと記されています。旧約聖書には40と言う数字がよく出てきます。この40日間の断食をしたと言う「40」という数字は、イスラエルの民が旧約の時代に荒野での40年のもの間の試練があったことと重なります。
イスラエルの民には40年の間、マナと言われるパンの代わりの食物が神によって天から与えられました。しかし、最初の民は、マナは飽きたから肉が食べたいとさんざんモーセを手こずらせ、神の前に不従順でありました。そうかと思うと、マサという場所では喉が渇いて死にそうだ苦い水しかない、こんなものを飲ませるために、神はエジプトから導き出したのかと民は文句を言ったこともありました。
さらに何とモーセが十戒を授かりに、シナイ山へ上っていて留守の時に、人々は金の仔牛を鋳造して、真の神以外の神を拝むという最大の不信仰を行ったのです。このことと悪魔が主イエスになされた3番目の誘惑とが重なります。主以外のものに身を委ねると言うことです。
2番目に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」
神の言葉しか語られないイエスに対して、今度は聖書の言葉から誘って来ました。それに対して、イエスは、やはり申命記の6章から引用して『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある。」と言われ悪魔に立ち向かったのです。
ここで悪魔は最後に本性を現します。前の2番目の誘惑の時には、聖書にこう書いてあるではなかと言いながら、この3番目の誘惑は言い方を変えれば、単刀直入に『わたしに仕えよ。』と言っているのです。ほかでもなく、これは私たちがみな、陥るところであると思います。『あなたが救い主なら、私の私の願いを叶えて見せてください。』そんな心が起きることはないでしょうか。
3番目の誘惑はこのようなものです。悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。』と言ったのです。ここでもイエスは申命記6章13節の言葉によって悪魔に応えました。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」と悪魔の誘惑を退けたのです。申命記6章13節にはこのように記されています。『あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。続く14節には、他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならないと戒めの言葉があります。
もし神が悪魔や私たちに頭を下げると言うことになったら、それこそ神が神でなくなります。そこには救いなどあり得えません。真実の神にのみに頭を垂れ、その御言葉に忠実に従う時に、被造物である私たちは神の栄光のうちを歩み生きることができるのです。
そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。と記されていますが、この後、二度と悪魔の試みを受けなかったと言うことではないのです。ルカによる福音書の並行記事によると、悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。と記されているように、悪魔は一端離はイエスから離れますが、「その時」が来たときには、猛威をふるってイエスに襲いかかります。しかし、悪魔の誘惑に打ち勝った者としてイエスは、公の働きをはじめたのでした。
私達の周囲には、実に様々な誘惑が身を潜めています。そのような中で私達には誘惑に打ち勝つ力は、移ろう花に誘われるごとく弱いのです。私の知る牧師にひとりは、テレビを見ないと言っておられました。テレビには誘惑が多すぎると言う理由からです。
私達人類の唯一最高の目的は神を褒め称え、その栄光を表すことです。日々、ひたすらただ主にのみ仕え、この目的をなすことが出来るように祈り続けてゆきましょう。