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思いに報いる時
 

 2月も残り少なくなってきました。暖かな地方からは、春の便りが聞こえてくるこのごろです。先日、倉庫を整理していたところ、母方の祖母の写真が出てきました。生きていたとしたら130歳になります。母の実家は長野県の木曽です。南木曽町蘭(あららぎ)と言う地の生まれです。因みに明治時代の文壇・あららぎ派の名前の“あららぎ”はこの地名に由来するものです。

 

 この地では、おばあさんのことを“ばば”と言い、おじいさんのことを“じじ”と言っています。しかし今はあまり使われなくなっているかもしれません。僕は、ばばが大好きでした。門徒宗の信徒で、いつも囲炉裏に座り南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏を唱えていました。古い話ですが、NHKにふるさとの歌祭りと言う番組がありました。その番組にも出演し、「おりゃ、宮田輝と話をしたよ。」と自慢げに話している姿が今でも目に浮かびます。宮田輝とは、当時のHNKのアナウンサーで、ふるさとの歌祭りの司会をされていました。他にも何度かテレビ出演し、一時は有名ばあさんでした。

 



 

僕は母の実家、つまりばばの家で生まれました。その日ばばは、僕のへその緒を手水(ちょうず)の入り口に埋めてきたと母に告げたそうです。手水とは、平たく言えばトイレです。この地では、トイレのことを手水と言っていたようです。ばばの家の手水は、母屋とは離れた場所にありました。言ってみれば玄関に次いで人の出入りの多い場所です。ばばがどうして僕のへその緒を手水の入り口に埋めたかについては、小学校の頃であったと思いますが、母から聞かされました。

 

 それには、ばばの僕に対する思いが託されていたのです。出入りする手水の入り口で、多くの人に踏まれて、頭の高い人間にならないようにと願ったのです。また玄関の入り口ではなく、手水と言う場所を選んだばばの思いもわかるのです。僕は生涯をかけて、ばばの思いに報いたいと願っています。時には高慢になることもないとは限りません。

 

 へりくだることは、聖書においても繰り返し記されている事柄です。神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを給う。(新約聖書:ヤコブの手紙224節)

 この世の価値観に飲み込まれ、高望みと欲をはらませ、自分を楽しませることは神への反逆です。万物の創造者、父なる神に従いへりくだる第一歩を踏み出すことは勇気のいることかもしれません。そうして躊躇している僕達に、『さあ、まず踏み出しなさい。』と主イエスが背中を押してくださいます。その一歩を踏み出してみましょう。
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我が恵み 汝に満てり
 

 2月も半ば、光陰矢の如しと言いますが、まさにその通りだと実感します。しかし、過ぎ行く時間が早いのに対して、待つ時間はなかなか訪れないものです。昨日は古くからの友達の誕生日でした。60歳。もう還暦になったのです。

 

 僕は子供の頃から花が好きで高校も農業高校へ通い、園芸科で草花園芸を専攻しました。特に熱を入れたことは、洋ランの無菌培養です。少しばかり専門的な話になりますが、洋ランの一種、シンビジウムの新芽から成長点を無菌的に摘出して、成長点の成長に必要な養分を配合した培地と言う物をフラスコの中に作り、その中に成長点を植えつけて培養し、同じ遺伝子を持ったシンビジウムを育成すると言うことをやっていました。

 これを英語では、メリステムと言う単語とクローンと言う単語を合成して、メリクローンと呼んでいます。

 今、僕が育てている洋ランは、デンドロビウムです。薄黄色の物と桃色の物と2種類を育てているのですが、それぞれ個性があって思うように花が咲いてくれません。2種類とも今年ようよう花を付けてくれましたが、丹精込めて育てたこの一年の結果は、僕の思いとは少しばかり違うものでした。しかし、美しさには変わりありません。

 

 

 この世の中で、物事を思い通りに出来る人がいれば、そうでない人がいます。また何をするにしてもうまくいかない人もいるのです。何が違うのでしょうか。

 悪く言えば、この世にはお金や権力を使って物事を思い通りにする人が少なからずいます。勤勉に働いて誠実な暮らしを営んでも、報われない人の方がおそらく多いと思うのです。両者のうち、神のもとに立ち返ることのできる者はどちらでしょうか。

歴史を振り返ってみる時、栄華が長く続いたことは稀です。必ず終焉が訪れます。今の世を見て、高望みをする人は多いのでしょうが、苦労を望む人はおそらくいないと思います。もしいたとしても極めて少ないに違いありません。

人間よりも偉大な誰か」を認めることで「不遜や尊大」から離れ「謙遜さ」が身についてくるのです。不思議にも礼拝の中で、それが継続されるとなおさらのこと「神に生かされている。 自分がわかってくる。」ようになるものです。

やがて実を結ぶ時が来た時、より善き実を結ぶ者がどちらかは神が定められる事です。大抵は思いとは違う道にそれてします人生です。しかしそんな時も『我が恵み、汝に満てり。』と神は応えられるでしょう。

 

 明日から始る新たな週、折を得ても得なくても、日々より善き事を成すことが出来ますように祈りましょう。神の導きを祈りつつ。
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私もその中にいる。
 

 暦は立春を過ぎ、日も長くなってきました。春に向かって確実に時が進んでいます。しかしまだまだ寒さの中にあり、早春賦の歌詞が思い起こされます。“春と聞かねば知らでありしを、聞けばせかるる胸の思いを・・・・。”早春賦は、 長野県大町市、安曇野あたりの早春の情景を歌ったものだそうです。

 暦の上ではもう春になったと聞かされてなければ、まだ春だとは思わなかったのに、聞いてしまったので、もう、春が待ち遠しくなってしまい、季節の移り変わりさえ遅く感じ、春よ早く来いという待ちが心の中をはやし立てます。

 来週はバレンタインデーが控えています。もう随分前から量販店では、バレンタインデーのセールが始っていました。バレンタインデーの本来の意味は、確実なものは無いようです。マスコミによりますと、時の変遷と共に恋人への贈り物から、最近では、友達同士、親への感謝の気持ちを込めて贈る人が多くなってきたそうです。また自分へのご褒美にと言う人もいるとか。

 

 

 谷の百合キリスト教会を立ち上げてから、間もなく3年の月日が流れます。今日に至るまで、インターネットのこのブログによって、神の言葉を告げて来ました。感謝することは、アクセス数が確実に増えてきていることです。当初は1ヶ月に400件くらいでしたが、最近では800件から1200件のアクセスも珍しくなくなりました。

 

 教会には目に見える教会と、目には見えない教会があります。谷の百合キリスト教会は、言わば目に見えない教会、アクセス者との霊的繋がりによって存在しているものであると考えています。そのよう中にあっても、教会との直接的繋がりを期待して下さっているひとりの青年があります。

 

当初より構想を練って来てはいましたが、本日、谷の百合キリスト教会に礼拝堂が完成しました。家の一部を改造した本当に小さな礼拝堂ですが、この場所から世の中に伝えるものは、最大のものにしたいと思っています。神がこの礼拝堂を豊かに用いてくださることを願ってやみません。

 

『二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる。』(マタイによる福音書18章20節)とキリストは宣言してくださいました。僕達の、真ん中にキリストがお立ちくださる。僕達の真ん中にキリストがお立ちくださる群れ、それが教会です。僕達皆がキリストに直接結びついているのです。

 キリストの福音は、教会の大きさに比例するものではありません。僕はこのことを世の教会に伝えたいのです。
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栄光の器
 

  今日は節分、子供の頃は母にせかされて豆まきをしたものです。豆まきについてふと思ったのは、僕の家では夜に豆まきをしていましたが、他の家でもそうだったのだろうかとなんともたわいない疑問です。隣家ではご主人が禰宜であったせいか、ヒイラギにイワシの頭を刺して玄関先に打ち付けてありました。邪気を払い、悪しき物を遠ざけ、家庭に、自らに福を招きたいと言う心情は、古来より様々な形として表れ伝統として受け継がれて来ました。

 僕はキリスト者であっても、日本古来の伝統や文化を学ぶことについて、それが礼拝の対象とならない限り積極的であっても良いという立場をとっています。奈良、京都方面に出かければ、歴史のある寺院が多くあり、そこならではの文化があります。僕も20代には奈良、京都の寺院めぐりをしてまわったものです。



 一番印象深いものは、三十三間堂です。何体あるのかは分りませんが、数え切れないほどの仏像をどんな人の命によって、どんな人々が作ったのかと言わば歴史ロマンです。東大寺然り、法隆寺然り。またその由縁を知ることも面白いものです。

 『わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである』というイエスの言葉は、マタイによる福音書の中心的テーマでもあります。律法と預言者は旧約聖書全体を意味するものです。

 イエスの福音によって、律法は完成されました。人々には自由心が解放されました。僕たちは何でも出来るのです。ただ一つ条件があります。僕たちが何をするにしても、神の栄光を顕すためでなければなりません。

 

 明日は立春です。とは言えまだまだ寒い日が続きます。しかしこのところ少しばかりか日差しが強くなってきたように感じているのは、僕だけでしょうか。今日は畑でホトケノザが花を咲かせているのを見つけました。

 

 今週も日ごとに、より善き事に励むことが出来るように祈りを重ねて行きましょう。
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主を畏るるは知恵の始まり
 

201323

 

旧約聖書:箴言 11節〜9

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『主を畏るるは知恵の始まり。』

 

イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。これは、知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するためであり、正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するためであり、わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためである。
 知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る。これは箴言と、比喩と、知恵のある者のことばと、そのなぞとを理解するためである。主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。
 わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである。

 

 

本日は箴言のから御言葉を学びたいと思います。皆さんがご存知の通り箴言は『旧約聖書』の中の一つの書であります。1章1節には「イスラエルの王ソロモンの箴言」とありますが、しかし実際には、古代イスラエル人の間に伝えられていた教訓や格言をさまざまに収集し・編集して成立したものが箴言です。

人生や社会生活のさまざまな場面において、善と悪、公正と不正、真理と虚偽、賢明と等を分別し、慎みをもって神に仕えることを具体的に教え勧める箴言は、全体として、人々に「知恵」を得させることを目的としています。そこには、「知恵」の獲得こそが生命と救いとをもたらし、逆に「知恵」の欠如は死と滅びを招く、と言う人生観がうかがわれます。また、「主を畏れること」、すなわち神との生きた関わり、つまり信仰こそが、実はこのような人生の根本をなすとも記されています。

 

まず初めに「箴言」という表題の意味を取上げてみましょう。ヘブライ語の原典では「マーシャール」という表題がついていますが、マーシャールとは「類似」あるいは「比較」という意味があります。それは一つの事実を他の類似の事実と比較することによって、その意味を深く悟らせることを意味するものです。

 では、なぜ日本語の聖書では「比較」としないで、「箴言」と訳したのでしょうか。それは明治時代の初期に漢文の聖書が日本に渡来して、広く読まれた影響によるのです。
 よく知られている逸話によりますと、長崎奉行の村田若狭守の家臣が長崎港内に浮いていた英文の聖書を持ち帰って奉行に見せましたが、読めなかったので、漢文の聖書を上海から取り寄せて学だのでした。これを比較したところ、この漢文の聖書では「箴言」と訳されていたのです。それは鍼灸師が用いる鍼のように「人を生かす針」のような言葉であるという意味です。

 

世の中には人を生かす針もあれば、人を傷つけたり殺したりする針もあります。そのように、神の御言葉は「ちくり」と痛く感じる所がありますが愛情のこもった、人を生かす針、これが箴言でなのです。


 箴言に限らず、世の中には人を導く言葉が多く残されています。あるものは諺として、またあるものは訓戒と呼ばれることもあります。その多くは自分には出来ないと感じ、自分には程遠い理想とでも言う事柄が記されているものです。私が知るそう言うものの中のひとつに、福澤諭吉の心訓といわれるものがあります。
これは全部で七か条からなり、「一、世の中で一番楽しく立派なことは一生涯を貫く仕事をもつことである。」云々で始まるもので、福澤諭吉の数多い箴言のなかでも、今日では多くの人に最も良く知られた言葉となっているようです。ここで述べられているのは、きわめて解りやすい表現で、しかも現代人にも抵抗なく受け入れられる教訓であることから、意外に多くの人々によって語り継がれ、結婚式でのスピーチなどにも、しばしば引用されるそうです。その心訓をご紹介いたします。

 

一:世の中で一番 楽しく立派な事は 一生涯を貫く仕事を持つと云う事です
一:世の中で一番 惨めな事は 人間として教養のない事です
一:世の中で一番 寂しい事は する仕事のない事です
一:世の中で一番 醜い事は 他人の生活をうらやむ事です
一:世の中で一番 尊い事は 人の為に奉仕し決して恩にきせない事です
一:世の中で一番 美しい事は 全てのものに愛情を持つ事です
一:世の中で一番 悲しい事は 嘘をつく事です


私がこの心訓を知ったのは、通っている病院の庭先で診察の順番を待っているときでした。この病院の庭に、この言葉を刻んだ石碑が建てられていたのです。ところが残念とでも言うべきか、この心訓は福澤諭吉の言葉ではないそうです。このことは福澤諭吉が起こした慶應義塾大学も公式に偽作であると認めています。どこかの智恵者が、それもどうやら戦後になってしばらくしてから作り上げ、それをさも福澤諭吉の言葉であるかのように「福澤心訓」などと勿体らしく銘打ったにすぎない真赤な偽作であることが判明しているのです。
 そう思って読むと、この心訓にはなかなか味な表現があります。最後の一条に「一、世の中で一番悲しいことは嘘をつくことである」と記しています。この心訓の作者は、最後に「嘘」をつくことは「世の中で一番悲しいこと」だと自らを記したのだろうかと思いを巡らします。偽作だからこの言葉に、威厳とか価値が無いなどと言う事はありません。作者が誰であれ、人の道を全うする為の方向付けとなる言葉であることには違いないと思います。

人の心理は不思議なもので、この心訓が福澤諭吉のものであると信じて疑わなければ、確かに福澤諭吉らしい立派な心訓だと思います。ところが、これが福澤諭吉の名を語った偽作であると知ると単なる格言のように思ってしまう心の弱さを持っています。

 

本日選んだ箴言の言葉は、箴言の序章、或いは序言と言われるところです。31章にも及ぶ箴言の中心主題が、ここに記されているのです。『主を畏れることは知恵の始め。無知な者は、知恵をも諭しをも侮る。』・・・7節の言葉です。これと同様の言葉は、910節、詩篇11110節にも記されています。

主を畏れると言うことは、恐怖心を持つと言うことではなく、人間として、主権者である神に畏敬の念を持つということです。聖書が私達に示していることは、神は創造者であり、人間は神によって造られた被造物であると言うことです。ですから人間は、神に対して神の絶対的主権を認めて、神の前に畏れもってひれ伏し、神にことごとく服従しなければならなのです。ここにこそ人間の真のあるべき姿があるのです。しかしながら人間は、自己中心であり、神に対して不従順なために、このあるべき姿から遠い存在であるのです。

人間のあるべき姿を知り、認めることが人間が生きていく上で基本的な事柄です。箴言はこのことを読者に知らしめるために書かれたものであるのです。単なる人間的な道徳的教訓を記したものではありません。

 

『主を畏れることは知恵の始め。』ここで言う知恵とは、単に人間的な知識をさすものではありません。

今の時代は、何もかもを数値として表し、それによって価値を判断する傾向にあります。物の価値を数値に置き換えることで、そのものの持つ価値が他とどの程度違うのかを知るに明解であることは、間違いの無いことです。

しかし、人間の価値も知能指数とか偏差値で計ろうとし、学校教育も単なる知識の詰め込みにすぎなくなっていると言われています。聖書が教える知識とは、神に対する知識をさすものです。更に『始め』と言う言葉は、もともと頭を意味する言葉に由来するものでした。ここでの『始め』は、出発点と言う意味で使われています。ですから教育の基本は、神を畏れ神に服従することを教えることでなければなりません。

 

 イスラエルの家庭では、子供に対して父親が何よりも先ず、『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主を畏れること』を教えたそうです。主を畏れることこそ、あらゆる人生の出発点であり基礎であります。

 

 さて、主を畏れることは知恵の始め。と記された7節の後半部分には、無知なものは、知恵をも諭しをも侮ると記されています。愚かな者とは、主を知ろうとしない者の事を指しているのです。このような者は、霊的な知恵と訓戒を受け入れる態度が無いので進歩も成長もありません。

 私達には主の訓戒を受け入れる、砕かれた柔らかい心が必要となります。箴言は、未熟な若者達だけではなく、成熟した知恵ある者や悟りある者にとっても、人としての品格と教養を深めるために侮ることは出来ません。人間がこの地上にある限り、完成と言うことはあり得ないからです。知恵ある者も油断することなく、たゆまず学び続けてゆく必要があります。

 

 主を畏れることは、知恵の始め。この知恵から私達は命を頂いているのです。

 

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。』それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神は御心によって、宣教の言葉の愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。』コリントの信徒への手紙 第一 118節〜21の言葉です。

  
 この聖書の一節をお読みになられてどのようにお感じになられるでしょうか。コリントはギリシャの一大都市でありました。ギリシャは当時の世界における文化の中心地でありました。そこに住む人々はこの世の哲学的な知識を重んじるあまり、キリストの十字架の福音を浅はかな愚かなものとして、軽蔑していたのです。この世の知恵によっては、神の奥義であるキリストの十字架の福音を理解することはでません。だからこそパウロは、この十字架のことばにこそ、「神の力」があると大胆に力説したのです。

 

私たちはそれぞれが持っている尺度で物事の判断を繰り返し、日々を過ごしています。その判断がなければ、何事も進んでゆくことはありません。しかし、自分が善いとし、正しいと判断したことが、周りの人々や状況にとって善いこと、正しいこととは限らないのです。まして、私たちの尺度は常に形を変え、長さを変えます。

神の前に謙る時、自分の持っている尺度が正しいものとは限らないと言う謙虚さは、私たちを自分以外の声を「聴く」ことへと導いてくれるものです。自分以外の声を「聴く」姿勢は、私たちの尺度をより豊かに、より深いものへと変えて行きます。謙虚に「聴く」姿勢が、私たちに知恵を与える源となっていくものだと思います。
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