2013年2月3日
旧約聖書:箴言 1章1節〜9節
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『主を畏るるは知恵の始まり。』
イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。これは、知恵と訓戒とを学び、悟りのことばを理解するためであり、正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するためであり、わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためである。
知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、悟りのある者は指導を得る。これは箴言と、比喩と、知恵のある者のことばと、そのなぞとを理解するためである。主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。
わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。それらは、あなたの頭の麗しい花輪、あなたの首飾りである。
本日は箴言のから御言葉を学びたいと思います。皆さんがご存知の通り箴言は『旧約聖書』の中の一つの書であります。1章1節には「イスラエルの王ソロモンの箴言」とありますが、しかし実際には、古代イスラエル人の間に伝えられていた教訓や格言をさまざまに収集し・編集して成立したものが箴言です。
人生や社会生活のさまざまな場面において、善と悪、公正と不正、真理と虚偽、賢明と等を分別し、慎みをもって神に仕えることを具体的に教え勧める箴言は、全体として、人々に「知恵」を得させることを目的としています。そこには、「知恵」の獲得こそが生命と救いとをもたらし、逆に「知恵」の欠如は死と滅びを招く、と言う人生観がうかがわれます。また、「主を畏れること」、すなわち神との生きた関わり、つまり信仰こそが、実はこのような人生の根本をなすとも記されています。
まず初めに「箴言」という表題の意味を取上げてみましょう。ヘブライ語の原典では「マーシャール」という表題がついていますが、マーシャールとは「類似」あるいは「比較」という意味があります。それは一つの事実を他の類似の事実と比較することによって、その意味を深く悟らせることを意味するものです。
では、なぜ日本語の聖書では「比較」としないで、「箴言」と訳したのでしょうか。それは明治時代の初期に漢文の聖書が日本に渡来して、広く読まれた影響によるのです。
よく知られている逸話によりますと、長崎奉行の村田若狭守の家臣が長崎港内に浮いていた英文の聖書を持ち帰って奉行に見せましたが、読めなかったので、漢文の聖書を上海から取り寄せて学だのでした。これを比較したところ、この漢文の聖書では「箴言」と訳されていたのです。それは鍼灸師が用いる鍼のように「人を生かす針」のような言葉であるという意味です。
世の中には人を生かす針もあれば、人を傷つけたり殺したりする針もあります。そのように、神の御言葉は「ちくり」と痛く感じる所がありますが愛情のこもった、人を生かす針、これが箴言でなのです。
箴言に限らず、世の中には人を導く言葉が多く残されています。あるものは諺として、またあるものは訓戒と呼ばれることもあります。その多くは自分には出来ないと感じ、自分には程遠い理想とでも言う事柄が記されているものです。私が知るそう言うものの中のひとつに、福澤諭吉の心訓といわれるものがあります。これは全部で七か条からなり、「一、世の中で一番楽しく立派なことは一生涯を貫く仕事をもつことである。」云々で始まるもので、福澤諭吉の数多い箴言のなかでも、今日では多くの人に最も良く知られた言葉となっているようです。ここで述べられているのは、きわめて解りやすい表現で、しかも現代人にも抵抗なく受け入れられる教訓であることから、意外に多くの人々によって語り継がれ、結婚式でのスピーチなどにも、しばしば引用されるそうです。その心訓をご紹介いたします。
一:世の中で一番 楽しく立派な事は 一生涯を貫く仕事を持つと云う事です
一:世の中で一番 惨めな事は 人間として教養のない事です
一:世の中で一番 寂しい事は する仕事のない事です
一:世の中で一番 醜い事は 他人の生活をうらやむ事です
一:世の中で一番 尊い事は 人の為に奉仕し決して恩にきせない事です
一:世の中で一番 美しい事は 全てのものに愛情を持つ事です
一:世の中で一番 悲しい事は 嘘をつく事です
私がこの心訓を知ったのは、通っている病院の庭先で診察の順番を待っているときでした。この病院の庭に、この言葉を刻んだ石碑が建てられていたのです。ところが残念とでも言うべきか、この心訓は福澤諭吉の言葉ではないそうです。このことは福澤諭吉が起こした慶應義塾大学も公式に偽作であると認めています。どこかの智恵者が、それもどうやら戦後になってしばらくしてから作り上げ、それをさも福澤諭吉の言葉であるかのように「福澤心訓」などと勿体らしく銘打ったにすぎない真赤な偽作であることが判明しているのです。
そう思って読むと、この心訓にはなかなか味な表現があります。最後の一条に「一、世の中で一番悲しいことは嘘をつくことである」と記しています。この心訓の作者は、最後に「嘘」をつくことは「世の中で一番悲しいこと」だと自らを記したのだろうかと思いを巡らします。偽作だからこの言葉に、威厳とか価値が無いなどと言う事はありません。作者が誰であれ、人の道を全うする為の方向付けとなる言葉であることには違いないと思います。
人の心理は不思議なもので、この心訓が福澤諭吉のものであると信じて疑わなければ、確かに福澤諭吉らしい立派な心訓だと思います。ところが、これが福澤諭吉の名を語った偽作であると知ると単なる格言のように思ってしまう心の弱さを持っています。
本日選んだ箴言の言葉は、箴言の序章、或いは序言と言われるところです。31章にも及ぶ箴言の中心主題が、ここに記されているのです。『主を畏れることは知恵の始め。無知な者は、知恵をも諭しをも侮る。』・・・7節の言葉です。これと同様の言葉は、9章10節、詩篇111編10節にも記されています。
主を畏れると言うことは、恐怖心を持つと言うことではなく、人間として、主権者である神に畏敬の念を持つということです。聖書が私達に示していることは、神は創造者であり、人間は神によって造られた被造物であると言うことです。ですから人間は、神に対して神の絶対的主権を認めて、神の前に畏れもってひれ伏し、神にことごとく服従しなければならなのです。ここにこそ人間の真のあるべき姿があるのです。しかしながら人間は、自己中心であり、神に対して不従順なために、このあるべき姿から遠い存在であるのです。
人間のあるべき姿を知り、認めることが人間が生きていく上で基本的な事柄です。箴言はこのことを読者に知らしめるために書かれたものであるのです。単なる人間的な道徳的教訓を記したものではありません。
『主を畏れることは知恵の始め。』ここで言う知恵とは、単に人間的な知識をさすものではありません。
今の時代は、何もかもを数値として表し、それによって価値を判断する傾向にあります。物の価値を数値に置き換えることで、そのものの持つ価値が他とどの程度違うのかを知るに明解であることは、間違いの無いことです。
しかし、人間の価値も知能指数とか偏差値で計ろうとし、学校教育も単なる知識の詰め込みにすぎなくなっていると言われています。聖書が教える知識とは、神に対する知識をさすものです。更に『始め』と言う言葉は、もともと頭を意味する言葉に由来するものでした。ここでの『始め』は、出発点と言う意味で使われています。ですから教育の基本は、神を畏れ神に服従することを教えることでなければなりません。
イスラエルの家庭では、子供に対して父親が何よりも先ず、『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主を畏れること』を教えたそうです。主を畏れることこそ、あらゆる人生の出発点であり基礎であります。
さて、主を畏れることは知恵の始め。と記された7節の後半部分には、無知なものは、知恵をも諭しをも侮ると記されています。愚かな者とは、主を知ろうとしない者の事を指しているのです。このような者は、霊的な知恵と訓戒を受け入れる態度が無いので進歩も成長もありません。
私達には主の訓戒を受け入れる、砕かれた柔らかい心が必要となります。箴言は、未熟な若者達だけではなく、成熟した知恵ある者や悟りある者にとっても、人としての品格と教養を深めるために侮ることは出来ません。人間がこの地上にある限り、完成と言うことはあり得ないからです。知恵ある者も油断することなく、たゆまず学び続けてゆく必要があります。
主を畏れることは、知恵の始め。この知恵から私達は命を頂いているのです。
『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。』それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神は御心によって、宣教の言葉の愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。』コリントの信徒への手紙 第一 1章18節〜21の言葉です。
この聖書の一節をお読みになられてどのようにお感じになられるでしょうか。コリントはギリシャの一大都市でありました。ギリシャは当時の世界における文化の中心地でありました。そこに住む人々はこの世の哲学的な知識を重んじるあまり、キリストの十字架の福音を浅はかな愚かなものとして、軽蔑していたのです。この世の知恵によっては、神の奥義であるキリストの十字架の福音を理解することはでません。だからこそパウロは、この十字架のことばにこそ、「神の力」があると大胆に力説したのです。
私たちはそれぞれが持っている尺度で物事の判断を繰り返し、日々を過ごしています。その判断がなければ、何事も進んでゆくことはありません。しかし、自分が善いとし、正しいと判断したことが、周りの人々や状況にとって善いこと、正しいこととは限らないのです。まして、私たちの尺度は常に形を変え、長さを変えます。
神の前に謙る時、自分の持っている尺度が正しいものとは限らないと言う謙虚さは、私たちを自分以外の声を「聴く」ことへと導いてくれるものです。自分以外の声を「聴く」姿勢は、私たちの尺度をより豊かに、より深いものへと変えて行きます。謙虚に「聴く」姿勢が、私たちに知恵を与える源となっていくものだと思います。