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よみがえり:復活祭に寄せて
 

 今日は復活祭でした。キリストが十字架にかけられ殺された後、3日目に甦った日です。

以前にもこのブログに書いたことがあるかもしれませんが、漢字はその意味を確かに僕たちに伝えることの出来る文字です。甦るとは、更と言う漢字と生きると言う漢字が組み合わされています。つまり、更に生きることが甦りなのです。

 

 キリストは人類の最後の敵である死に打ち勝ち、死人のうちから最初に甦ったのです。死を克服すればもう何も恐れるものはありません。そして永遠の命が約束されているのです。創造主である神は、キリストを十字架にかけてまで、人類の救済に徹しておられるのです。


 

 
 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。

それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
              新約聖書:ヨハネによる福音書3章16

 

 またキリストは、『友の為に命を捨てること、これより大きな愛はない。』と語られています。キリストは僕たちを友と呼んでくださる。そこで僕たちは、友であるキリストの為に何が出来るのでしょうか。

 それはそんなに難しいことではありません。キリストを神の御子、救い主と信じることから始まります。自己中心的生活、自己義認の人生の方向をほんの少し変えてみることで今までに経験しなかった喜びの心に満たされる時が必ず訪れます。そんな喜びを携えて僕たちと共に歩んでみませんか。

 

 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニヤはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。

 

マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。

 

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」 

          
新約聖書:ヨハネによる福音書1117節〜27

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受難週に思うこと
 

 ここ暫く、足元と言うより爪先ばかりを見ながらの生活の中で、僕は多くのものを見失っていた様な気がします。ふと気がついてみればもう梅の花が咲いています。東京では桜の花が満開と知りました。

 

 来週の日曜日は復活祭です。キリストは十字架にかけられ、人の罪の代償として自らの命を神に捧げ人を罪から解放してくださいました。その3日後に死から甦られたことを記念する日が復活祭です。キリスト教会には、教会暦と言うものがあり、毎年、春分の日の後の最初の満月の直後の日曜日が復活祭として定められています。

 

 

 

復活祭の3日前、その日を受難日といいます。キリストが十字架にかけられた日です。キリストには12人の弟子がいましたが、この日、弟子達はキリストの仲間であることが判るとキリスト同様、十字架にかけられることを恐れてか皆逃げてしまっていました。

 

 弟子の一人にペテロと言う人がいました。キリストが生前にペテロに告げた言葉があります。『あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度私を知らないというであろう。』そんなペテロは、その夜、外にいました。一人の女中が来て、『あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた。』と言いました。ペテロは、『何のことを言っているのかわからない。』と答えました。

 

また他の女中が『この人は、ナザレのイエスと一緒にいました。』と言ったのです。ペテロは『そんな人は知らない。』と答えたのでした。更に他の人々も近寄ってきて、『確かにお前もあの連中の仲間だ。言葉使いでそれがわかる。』と言ったのです。おそらく言葉に訛り、方言があったのでしょう。三度目です。ペテロは『そんな人は知らない。』と答えました。すると鶏が鳴いたのです。『鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないというであろう。』と言われたイエスの言葉を思い出し激しく泣いたのでした。

 

キリストを師として何もかもを捨てて、後に続いたペテロの信仰は十字架の前に消え失せてしまったのです。この時ペテロは、何よりも自分を愛したのです。

しかし誰もペテロを責めることは出来ません。僕達もその場にいたとしたら、イエスを捕らえようとした群衆と同様に、イエスを罵ったかもしれません。或いはその場から逃げ去ったかもしれないのです。確たる心を持ってキリストに従った者のいないこの記事は、時を越えて、今を生きる僕達の姿を描写してはいないでしょうか。誰も心は弱いのです。

 

聖書に記されたキリストの十字架での死と復活は、物語ではありません。人類の救済への神の恩寵に他なりません。僕達は自分の命をいかにすべきかを考えさせられる時であります。

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指導する者は熱心に指導し、
 

 このところ一気に気温が上がり春めいてきました。サクラの開花も予想以上に早そうです。陽だまりにシバザクラの幼苗が花をつけているのを見つけ思わず写真に撮り、こんなに小さなものでも時を知るのだと生命あることの意味を考えさせられました。

 

 学校での教師による体罰の話題が明るみに出てから随分と時を経ました。

体罰とはウィキペディアによると、『父母や教員などが、子供や生徒などの管理責任の下にあると考えられる相手に対して、教育的な名目を持って肉体的な苦痛を与える罰を加えることを指します。この場合の苦痛とは、叩くなどの直接的なものから、立たせたり座らせるなどして動くことを禁ずるなど間接的なものも含みます。

体罰に明確な定義はありません。一般的に身体刑や虐待や暴行や訓練とは異なる行為とみなしますが、該当することもあります。軍隊や部活動等における先輩から後輩への指導が肉体的苦痛を伴う時も、体罰とみなされます。

 

体罰は古くより「注意をしても聞かない・もしくは理解できない」という子供に対する教育的な指導と認識されていました。方法としては多くは動物に対する躾と同様に、手で叩く・殴る・鞭で打つなど直接的な痛みを伴うものでした。また体罰を肯定する側には、明確な賞罰の形として、長く記憶に残りやすい体罰は、より教育効果が高いと言う考え方があります。

 

しかしその一方で、その罰がしばしば当人の人格否定に繋がったり、重大な負傷に至る事例が挙げられるにつれ、社会的に問題視され、その効果に疑問が投げ掛けられるようになってきました。また、体罰の実施者に、そもそも罰を与える権利があるのかも問題となっているのです。』


 

 
 体罰が是か非か。こう問われると僕は非と言わざるを得ません。いかなる理由があるにしても、体をも心をも人が人を痛めつけることは赦されることではないからです。ただし犯罪を犯した者に対しては、相当の代償を以って償わせる必要があります。このことは体罰と意味を異にするもので混同してはなりません。

 

 体罰の効果は何かと言えば、何もあり得ない。僕はこう考えています。その多くは、父母、教師などが自らの思いに反した者、或いは思い通りにならない者に対する矛先を力によって押さえつけるだけのものでしかないからです。その結果が良い方向に向くとはとても考えられることではありません。恐怖心をあおるだけです。

 

 体罰を苦にして自らの命を絶った少年を思う時、多くの友人らと共に日々の暮らしの中で将来の夢や希望があったのだろうにと思うのです。

 体罰を行なった教師を調査し、処分を加えた教育委員会もあります。教師は、教諭とも言われます。教諭、つまり教え諭す者です。教師だけでなく、僕たち一人ひとりが自らを吟味しなければならない時代ではないでしょうか。

 

わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。


 
このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。
 

あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、のろってはならない。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。
 

だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。


 
むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。
 
悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。

                   新約聖書:ローマの信徒への手紙123節〜21

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経済成長の背面で
 

 3月も10日を過ぎ桜の開花予想によると、早い地方では後10日もすれば開花となるようです。花見を楽しみして既に計画している方々も多いのではないのではないでしょうか。
 

僕の記憶で一番綺麗だったと思う桜は、浜松市に住んでいた頃、市内の小豆餅と言う地名のところの道路に沿って咲いていた桜です。時は夜。提灯にの明かりに浮かび上がる桜の花は、幻想的で夜桜がこんなにも美しいものなのかと感動を覚えました。

 

 これからの時期は花粉症の方にとっては、辛い日々が続くと思います。幸い僕は花粉症ではないので、その辛さを理解することが出来ません。このほかに飛散する物は、ゴビ砂漠からの黄砂、そして中国からのMP2.5と自然現象に由来する物だけでなく、人為的なものまでが気流に乗ってやってくる時代になりました。
 

 


 最近のニュースを聞いて、今の中国の環境汚染の様子は、かつての日本と同じ様に思いました。40年以上前になると思います。水俣病、四日市喘息、イタイイタイ病を知らない人はいないと思います。また光化学スモッグと言うものもありました。光化学スモッグ注意報と言う言葉があったように、日本の大都市、工業地帯は高度成長の名の下に人の健康を損なう事態が起きていたのです。公害訴訟も多く起こされました。そしてそれは今も、解決を見ないまま継続しています。判決を前に亡くなられた方も数多い事実があります。
 

 日本はこのような中で、名も無い多くの方々の犠牲の上に環境に対する規制を取り入れ、現代の日本は見た目には平穏となりました。公害と言う言葉が出来たのも、この頃ではなかったかと思っています。

 

 現在の中国は、かつての日本の姿です。高度経済成長は国政として誰もが成し遂げたいと思うことのひとつであると思います。国家の成長を望まない国はありません。しかし経済大国と言われた国々が経験してきた失策を繰り返すようなことはあってはならないのです。かつての日本は、追いつき追い越せの勢いで成長を遂げました。しかしその背面には、犠牲となるものがあったこと認めないわけにはゆきません。

 

 今、目の前の豊かさを求めるのか。そうであってはなりません。この世は時を越えて、次の世代に継承しなければならないからです。世の中の底辺を支える人々が安心して暮らせる社会を造ること、健全な社会を造ることが現代を生きる僕達に課せられた義務であると僕は考えています。

 自己の利益を追うのではなく、与えられた賜物によって神が創造されたこの世のための働きが出来ますように。

 

欲望は孕んで罪を生み、罪が熟して死を生みます。(ヤコブの手紙 115節)
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得るもの、失うもの
 

早や3月になりました。光陰矢の如しと言いますが、まさにその通りだと実感します。しかし、過ぎ行く時間が早いのに対して、待つ時間はなかなか訪れないものです。昨日は古くからの友達の誕生日でした。60歳。もう還暦になったのです。思い返してみれば30年以上の付き合いをしてきたことになります。私自身もそれだけ年を経たと言うことになりますが、年月の経過と自らの成長は必ずしも一致しないと情けない思いです。

 

228日にローマ法王、ベネディクト16世が、法王の座を退位去れました。共同通信は、このことを次のように伝えています。

 

『11日に突然、今月末で退位することを表明したローマ法王ベネディクト16世(85)は13日、バチカンのパウロ6世ホールで水曜恒例の一般謁見を行い、詰め掛けた信者ら約3500人を前に「法王職を果たすための体力がもはやないと自覚した」と、あらためて退位の理由を説明した。退位表明後、公の場に姿を見せるのは初めて。

 法王は「長い祈りをささげ神の御前で良心に照らして検討した後、教会の利益のために自由な意思で退位を決めた。皆の愛と祈りに感謝する」と述べた。聴衆からは大きな拍手が巻き起こった。

 法王庁によると、2月27日に法王による最後の一般謁見が行われる。

 ベネディクト16世は、11日の枢機卿会議で高齢を理由に2月28日に退位すると表明。存命中の法王の退位は約600年ぶり。3月半ばごろに法王選挙会が行われ、次期法王が選出される見通し。』





 僕は、あくまで個人的な見解として、ローマ法王の職は終生と言う法王庁の規則のなかにあって、ベネディクト16世の退位の理由は法王にとって適切なものであったと思っています。世の中にはあの年になってまで、仕事をこなせるかと思うほどの権力欲、名誉欲の強い人が少なからずいます。さぞ周囲の方々も迷惑ではなかろうかと思ってしまいます。

 

 世代の交代は、いつの時代にもついて回るものです。旧約聖書:申命記によると、イスラエルの民をエジプトから解放し、神が約束された約束の地へと民を導いくために務めたモーセも、死を前にヌンの子、ヨシュアに手を置き、その後イスラエルの民はヨシュアに従い約束の地へと向かう旅を続たと記されています。 

旧約聖書:ヨシュア記は、冒頭にこのように記されています。

主はヨシュアに言われた。一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。私はモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。あなたは、私が先祖達に与えると誓った土地を、この民に継がせた者である。

ただ、強く、大いに雄々しくあって、私の僕モーセに命じた律法を忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすればあなたはどこへ行っても成功する。この律法をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることを忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先で栄え、成功する。私は強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこへ行ってもあなたの神、主は共にいる。(旧約聖書:ヨシュア記119

 

 力を与えられた者こそ、よこしまな思いを抱かず、後に続く者の手本となり、取りまとめる役を担う責任があります。ところがいつの時代も、神の思いに従うことなく、自己中心に振る舞い、罪過を日に日に大きくしているのです。

 このような憐れな人をも神は、日々養い、命を繋いでくださるのです。

 

 歴史を振り返ってみる時、栄華が長く続いたことは稀です。必ず終焉が訪れます。栄華を極めた平家一族も、平気物語の冒頭には、

   祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
 
 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす

  おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとし
   
たけき者も遂には滅びぬ
偏に風の前の塵に同じ

 
と詠われ世の無常さを物語っています。

 

今の世を見て高望みをする人は多いのでしょうが、苦労を望む人はおそらくいないと思います。『若い時の苦労は買ってでもせよ。』と言う諺があるほどに、苦労がもたらすことは悲惨だけではなく、自分を鍛え、必ず成長に繋がるもので古くからの言葉には、知恵と経験が含まれているものです。
 私達の人生は、「人間よりも偉大な誰か」を認めることで不遜や高慢から離れ「謙遜さ」が身についてくるものです。不思議にも礼拝の中で、それが継続されると尚更のこと神に生かされていることを現実のこととして受け入れることが出来るように、そしてまた、自分がわかってくるように、自分の意思とは関係なくそのように変えられてゆくのです。

 

高慢な者達よ。自らの姿を鏡に映してみなさい。あなた方が蔑んでみている者とどこが違いますか。権力や名誉は鏡に映っていますか。どんな形、どんな色をしていますか。

神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵を給うのです。世の権力や名誉と神が給う恵を比べた時、あなた方はどちらを選択するのでしょうか。

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喜びの服従
 

 2013年3月4日

ヤコブの手紙4章1節〜10節

330.284

『 喜びの服従 』

 

何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、欲しがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。
 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。
 しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。
 あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。 主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。

 

 

早や3月になりました。光陰矢の如しと言いますが、まさにその通りだと実感します。しかし、過ぎ行く時間が早いのに対して、待つ時間はなかなか訪れないものです。昨日は古くからの友達の誕生日でした。60歳。もう還暦になったのです。思い返してみれば30年以上の付き合いをしてきたことになります。私自身もそれだけ年を経たと言うことになりますが、年月の経過と自らの成長は必ずしも一致しないと情けない思いです。

 

 私は子供の頃から花が好きで高校は農業高校へ通い、園芸科で草花園芸を専攻しました。特に熱を入れたことは、洋ランの成長点培養です。少しばかり専門的な話になりますが、洋ランの一種でありますシンビジウムの新芽から成長点を無菌的に取り出して、成長点の成長に必要な養分を配合した培地と言う物をフラスコの中に作り、その中に成長点を植えつけて育て、同じ遺伝子を持ったシンビジウムを増殖すると言うことをやっていました。
 これを英語では、メリステムと言う単語とクローンと言う単語を合成して、メリクローンと呼んでいます。

 今、私が育てている洋ランは、デンドロビウムと言う種類のものです。薄黄色の物と桃色の物と2種類を育てているのですが、それぞれ個性があって思うように花が咲いてくれません。2種類とも今年ようよう花を付けてくれましたが、丹精込めて育てたこの一年の結果は、私の思いとは少しばかり違うものでした。しかし、美しさには変わりありません。この世の中で、物事を思い通りに出来る人がいれば、そうでない人がいます。何が違うのでしょうか。単純に運の善し悪しと言う事ではないと思います。

 

 悪く言えば、この世にはお金や権力を使って物事を思い通りにする人が少なからずいます。その反面、勤勉に働いて誠実な暮らしを営んでも、報われない人がいるのも事実です。両者のうち、神のもとに立ち返ることのできる者はどちらでしょうか。歴史を振り返ってみる時、栄華が長く続いたことは稀です。必ず終焉が訪れます。栄華を極めた平家一族も、平家物語の冒頭には、

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり

沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ
偏に風の前の塵に同じ

 と詠われ世の無常さを物語っています。

 

今の世を見て高望みをする人は多いのでしょうが、苦労を望む人はおそらくいないと思います。『若い時の苦労は買ってでもせよ。』と言う諺があるほどに、苦労がもたらすことは悲惨だけではなく、自分を鍛え、必ず成長に繋がるもので古くからの言葉には、知恵と経験が含まれているものです。
 私達の人生は、「人間よりも偉大な誰か」を認めることで不遜や高慢から離れ「謙遜さ」が身についてくるものです。不思議にも礼拝の中で、それが継続されると尚更のこと神に生かされていることを現実のこととして受け入れることが出来るように、そしてまた、自分がわかってくるように、自分の意思とは関係なくそのように変えられてゆきます。

 

やがて実を結ぶ時が来た時、より善き実を結ぶ者がどちらかは神が定められる事です。大抵は思いとは違う道にそれてしまう人生です。このことに嘆き悲しむ事も多々あることです。それが自己中心の故に与えらた因果応報の結果であるにしても、或いは、神を慕い、御旨に沿いたいと願った結果であるにしても、『我が恵み、汝に満てり。』と神は応えられるでしょう。

 

さて、ややもすると農業に勤しむ私達の多くは、田畑の仕事に取り掛かる時期になります。種まきは収穫の始めです。自らが育てた物の味は、忘れられない味とでも言いましょうか応えられないほどおいしいものです。

この世の中にあるおいしい物と呼ばれる物は、数限りないと思います。世界三大珍味などと言う物もあります。『おいしい』と言うものは、口に入れ味わうものだけではないことを皆さんもご存知です。『味をしめた。』と言うその『味』です。例えば会社や団体などで地位、名誉、権力などを手にした者が、現役の時はもちろん、その立場から去った後にも、現役の頃に行使したおいしい味が忘れられず、人徳にではなく権力にものを言わせ、我がもの顔に振舞い、あたかも自らが偉い者のような錯覚に陥り、高慢に振舞う姿があります。

 

私が思うところは、これらのものを追い求め、手に入れた者に多くみられる姿です。先月お話いたしました福澤心訓を引用するとしたら、第二訓の『世の中で一番惨めなことは、人としての教養の無いことです。』この言葉を思い起こしました。まさに虎の威を借る狐です。自らの惨めさに気がつかないばかりか、更に惨めなことはこのような類の人は、間違っても人に仕えることを知りません。「人間よりも偉大な誰か」を認めることを知らず、また認めることが出来ないからです。

 

神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを給う。今日はこの御言葉を中心にして学びの時を持ちたいと思います。

 

ヤコブの手紙を読みますと、数多くの勧めが記されていることに気がつきます。私達はそれを何気なく読み過ごしてしますのですが、その中に注目すべき言葉があります。それは、224節の言葉です。『これであなた方もわかるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。』このように記された言葉です。これを神学的には、行動義認と言います。つまり人は行いによって神の前に義と認められると言う考え方です。

しかし私達は、ただキリストを信じる信仰によってのみ義とされるのです。このことを信仰義認と言います。そしてこのことを信じています。その上、教会はこのことを公にしています。

信仰義認は、宗教改革者であるルターの神学の中軸をなす教理であります。ルターは16世紀初頭の当時のカトリック教会の腐敗を、行動義認に由来するものと考えました。これに対して、人は善い行いではなく信仰によってのみ義とされるとパウロの書簡を拠り所にして説いたのです。

ヤコブとパウロの考え方は、全く異なるものですが、ヤコブの手紙とパウロの書簡の間には、執筆された年代差があります。ヤコブの手紙は、新約聖書の中でも初期に書かれているものと考えられています。このことから、行動義認として呼ばわれる224節の言葉は、『これであなた方もわかるように、人は行いによって神に喜ばれ、受け入れられるのであり、信仰だけにはよらない。』と訳すことが出来るのです。

主イエスも生涯の中で、神に喜ばれると言う言葉を少なくとも7回使っておられます。その時の意味は、『義と認められる。』ではなく、『神に喜ばれる。神に受け入れられる。その正しさを証明する。』と言うような意味で使われています。

私の私的見解ですが、信じる心のある者には、その信仰によって変えられてゆきます。そしてそれに価する行いが伴うものです。人はこれを見て、信仰に伴う善き行いを、偽善と呼ぶことはないでしょう。

 

ヤコブの手紙の特色は、他の書簡と比較してみる時、主イエスの人格と御業についての

記述がほとんどありません。信仰生活の倫理的、実践的な考え方が強調されている書簡です。このことはヤコブの関心が、これを読む者を教理的な誤りから守ることよりも、既に信仰を持ち、理解している信仰を生活の中で実践させることに重きを置いたからです。

 

 人が造った世の中には魅力的なものが数多くあります。このことに心を奪われて世を友とすることは、神の敵となることであるとヤコブは語っています。神は私達のうちに霊を住まわせた方であります。ですから私達が慕うべきは、この世ではなく神でなければならないはずなのです。こう言う私達に神は、悔い改めの機会を与えてくださっています。

『神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵をお与えになる。』だから神に服従し、悪魔に反抗しなさいと勧めておられるのです。

 

 因みに、服従に対して支配があります。とても簡単に言って言い回しをしますと、支配とは自分の望みをかなえたいと言う気持ちであり服従とは相手の望みをかなえたいと言う気持ちを指します。ヤコブは、創造者である神の御旨を理解しているはずのあなた方が、どうして神にではなくこの世に喜び、楽しみを覚えるのかと問うているのではないでしょうか。

 

 神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば悪魔はあなたから逃げてゆきます。神に近づきなさい。そうすれば神は近づいてくださいます。旧約聖書の時代は、司祭だけが身を清めて神に近づくことが許されていました。しかし今は、誰もが主イエスの恵の恩恵によって神に近づくことが出来るのです。ただ一つの条件は、悔い改めです。

悔い改めの第一歩は、神に服従して悪魔には敵対すると言う明確な態度をとる事です。ヤコブは、欲と世の背後には悪魔の存在があることを教えています。

 

世の楽しみと安楽は誰もが求めるものであると思います。信仰を持ちながらも、これらにうつつをぬかしている者たちへの悔い改めのあり方が最後に記されています。世への妥協と信仰と言う二心は、誰もが認めることであると思います。しかし、神のみ前に立ち返り、自らの姿を客観的に見たとき、自らがいかに惨めな者なのかが見えてくるのです。

罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者達、心を清めなさい。悲しみ、嘆きなきなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを憂いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。ここでは具体的に悔い改め、神に近づく姿が記されています。

手を洗い清めなさいとは、司祭が会見の幕屋に入る前に手足を洗ったことになぞらえたもので、内的、外的な汚れから離れること示しています。苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。とは自らの現実を見つめた時には、先ほど申し上げましたように、神の前に自らがいかに惨めな者なのかが鏡に映したように見えたときの姿を描写したものです。誰一人として神の御前に、身の潔白を誇ることができる者はいないのです。

後で悲しまなくても良いように、今この時、笑いを悲しみに変えてでも、喜びを憂いに変えてでも悔い改めなさいとヤコブは勧めているのです。

 

 神がへりくだる者を高く引き上げてくださることは、旧約聖書の一貫した教えです。箴言3章34節には、『主は不遜な者を嘲り、へりくだる人恵を賜る。』と記されています。また主イエスも繰り返してこのことを教えられています。

 

 「人よりも優位でありたい。私はあの人に劣ることはない。」と私達は口には出さなくても、心の隅にそんな思いがありはしないでしょうか。何もかもを捨てて、主イエスに従った弟子達のように、過の日に一切を神に委ねると決心した時を思い起こし、キリストの証人としてより善き働きに勤しむことが出来るように祈る日々を重ね、頭を低くしなければ入ることの出来ない信仰の門をくぐった日を生涯忘れることのないように心の内に刻み付け、喜びの心を以って神に服従する者となりたいものです。この心が育まれますように
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