2013年3月4日
ヤコブの手紙4章1節〜10節
330.284
『 喜びの服従 』
何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、欲しがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。
願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる。」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。
しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。
あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。 主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。
早や3月になりました。光陰矢の如しと言いますが、まさにその通りだと実感します。しかし、過ぎ行く時間が早いのに対して、待つ時間はなかなか訪れないものです。昨日は古くからの友達の誕生日でした。60歳。もう還暦になったのです。思い返してみれば30年以上の付き合いをしてきたことになります。私自身もそれだけ年を経たと言うことになりますが、年月の経過と自らの成長は必ずしも一致しないと情けない思いです。
私は子供の頃から花が好きで高校は農業高校へ通い、園芸科で草花園芸を専攻しました。特に熱を入れたことは、洋ランの成長点培養です。少しばかり専門的な話になりますが、洋ランの一種でありますシンビジウムの新芽から成長点を無菌的に取り出して、成長点の成長に必要な養分を配合した培地と言う物をフラスコの中に作り、その中に成長点を植えつけて育て、同じ遺伝子を持ったシンビジウムを増殖すると言うことをやっていました。
これを英語では、メリステムと言う単語とクローンと言う単語を合成して、メリクローンと呼んでいます。
今、私が育てている洋ランは、デンドロビウムと言う種類のものです。薄黄色の物と桃色の物と2種類を育てているのですが、それぞれ個性があって思うように花が咲いてくれません。2種類とも今年ようよう花を付けてくれましたが、丹精込めて育てたこの一年の結果は、私の思いとは少しばかり違うものでした。しかし、美しさには変わりありません。この世の中で、物事を思い通りに出来る人がいれば、そうでない人がいます。何が違うのでしょうか。単純に運の善し悪しと言う事ではないと思います。
悪く言えば、この世にはお金や権力を使って物事を思い通りにする人が少なからずいます。その反面、勤勉に働いて誠実な暮らしを営んでも、報われない人がいるのも事実です。両者のうち、神のもとに立ち返ることのできる者はどちらでしょうか。歴史を振り返ってみる時、栄華が長く続いたことは稀です。必ず終焉が訪れます。栄華を極めた平家一族も、平家物語の冒頭には、
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ
と詠われ世の無常さを物語っています。
今の世を見て高望みをする人は多いのでしょうが、苦労を望む人はおそらくいないと思います。『若い時の苦労は買ってでもせよ。』と言う諺があるほどに、苦労がもたらすことは悲惨だけではなく、自分を鍛え、必ず成長に繋がるもので古くからの言葉には、知恵と経験が含まれているものです。
私達の人生は、「人間よりも偉大な誰か」を認めることで不遜や高慢から離れ「謙遜さ」が身についてくるものです。不思議にも礼拝の中で、それが継続されると尚更のこと神に生かされていることを現実のこととして受け入れることが出来るように、そしてまた、自分がわかってくるように、自分の意思とは関係なくそのように変えられてゆきます。
やがて実を結ぶ時が来た時、より善き実を結ぶ者がどちらかは神が定められる事です。大抵は思いとは違う道にそれてしまう人生です。このことに嘆き悲しむ事も多々あることです。それが自己中心の故に与えらた因果応報の結果であるにしても、或いは、神を慕い、御旨に沿いたいと願った結果であるにしても、『我が恵み、汝に満てり。』と神は応えられるでしょう。
さて、ややもすると農業に勤しむ私達の多くは、田畑の仕事に取り掛かる時期になります。種まきは収穫の始めです。自らが育てた物の味は、忘れられない味とでも言いましょうか応えられないほどおいしいものです。
この世の中にあるおいしい物と呼ばれる物は、数限りないと思います。世界三大珍味などと言う物もあります。『おいしい』と言うものは、口に入れ味わうものだけではないことを皆さんもご存知です。『味をしめた。』と言うその『味』です。例えば会社や団体などで地位、名誉、権力などを手にした者が、現役の時はもちろん、その立場から去った後にも、現役の頃に行使したおいしい味が忘れられず、人徳にではなく権力にものを言わせ、我がもの顔に振舞い、あたかも自らが偉い者のような錯覚に陥り、高慢に振舞う姿があります。
私が思うところは、これらのものを追い求め、手に入れた者に多くみられる姿です。先月お話いたしました福澤心訓を引用するとしたら、第二訓の『世の中で一番惨めなことは、人としての教養の無いことです。』この言葉を思い起こしました。まさに虎の威を借る狐です。自らの惨めさに気がつかないばかりか、更に惨めなことはこのような類の人は、間違っても人に仕えることを知りません。「人間よりも偉大な誰か」を認めることを知らず、また認めることが出来ないからです。
神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを給う。今日はこの御言葉を中心にして学びの時を持ちたいと思います。
ヤコブの手紙を読みますと、数多くの勧めが記されていることに気がつきます。私達はそれを何気なく読み過ごしてしますのですが、その中に注目すべき言葉があります。それは、2章24節の言葉です。『これであなた方もわかるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。』このように記された言葉です。これを神学的には、行動義認と言います。つまり人は行いによって神の前に義と認められると言う考え方です。
しかし私達は、ただキリストを信じる信仰によってのみ義とされるのです。このことを信仰義認と言います。そしてこのことを信じています。その上、教会はこのことを公にしています。
信仰義認は、宗教改革者であるルターの神学の中軸をなす教理であります。ルターは16世紀初頭の当時のカトリック教会の腐敗を、行動義認に由来するものと考えました。これに対して、人は善い行いではなく信仰によってのみ義とされるとパウロの書簡を拠り所にして説いたのです。
ヤコブとパウロの考え方は、全く異なるものですが、ヤコブの手紙とパウロの書簡の間には、執筆された年代差があります。ヤコブの手紙は、新約聖書の中でも初期に書かれているものと考えられています。このことから、行動義認として呼ばわれる2章24節の言葉は、『これであなた方もわかるように、人は行いによって神に喜ばれ、受け入れられるのであり、信仰だけにはよらない。』と訳すことが出来るのです。
主イエスも生涯の中で、神に喜ばれると言う言葉を少なくとも7回使っておられます。その時の意味は、『義と認められる。』ではなく、『神に喜ばれる。神に受け入れられる。その正しさを証明する。』と言うような意味で使われています。
私の私的見解ですが、信じる心のある者には、その信仰によって変えられてゆきます。そしてそれに価する行いが伴うものです。人はこれを見て、信仰に伴う善き行いを、偽善と呼ぶことはないでしょう。
ヤコブの手紙の特色は、他の書簡と比較してみる時、主イエスの人格と御業についての
記述がほとんどありません。信仰生活の倫理的、実践的な考え方が強調されている書簡です。このことはヤコブの関心が、これを読む者を教理的な誤りから守ることよりも、既に信仰を持ち、理解している信仰を生活の中で実践させることに重きを置いたからです。
人が造った世の中には魅力的なものが数多くあります。このことに心を奪われて世を友とすることは、神の敵となることであるとヤコブは語っています。神は私達のうちに霊を住まわせた方であります。ですから私達が慕うべきは、この世ではなく神でなければならないはずなのです。こう言う私達に神は、悔い改めの機会を与えてくださっています。
『神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵をお与えになる。』だから神に服従し、悪魔に反抗しなさいと勧めておられるのです。
因みに、服従に対して支配があります。とても簡単に言って言い回しをしますと、支配とは自分の望みをかなえたいと言う気持ちであり、服従とは相手の望みをかなえたいと言う気持ちを指します。ヤコブは、創造者である神の御旨を理解しているはずのあなた方が、どうして神にではなくこの世に喜び、楽しみを覚えるのかと問うているのではないでしょうか。
神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば悪魔はあなたから逃げてゆきます。神に近づきなさい。そうすれば神は近づいてくださいます。旧約聖書の時代は、司祭だけが身を清めて神に近づくことが許されていました。しかし今は、誰もが主イエスの恵の恩恵によって神に近づくことが出来るのです。ただ一つの条件は、悔い改めです。
悔い改めの第一歩は、神に服従して悪魔には敵対すると言う明確な態度をとる事です。ヤコブは、欲と世の背後には悪魔の存在があることを教えています。
世の楽しみと安楽は誰もが求めるものであると思います。信仰を持ちながらも、これらにうつつをぬかしている者たちへの悔い改めのあり方が最後に記されています。世への妥協と信仰と言う二心は、誰もが認めることであると思います。しかし、神のみ前に立ち返り、自らの姿を客観的に見たとき、自らがいかに惨めな者なのかが見えてくるのです。
罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者達、心を清めなさい。悲しみ、嘆きなきなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを憂いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。ここでは具体的に悔い改め、神に近づく姿が記されています。
手を洗い清めなさいとは、司祭が会見の幕屋に入る前に手足を洗ったことになぞらえたもので、内的、外的な汚れから離れること示しています。苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。とは自らの現実を見つめた時には、先ほど申し上げましたように、神の前に自らがいかに惨めな者なのかが鏡に映したように見えたときの姿を描写したものです。誰一人として神の御前に、身の潔白を誇ることができる者はいないのです。
後で悲しまなくても良いように、今この時、笑いを悲しみに変えてでも、喜びを憂いに変えてでも悔い改めなさいとヤコブは勧めているのです。
神がへりくだる者を高く引き上げてくださることは、旧約聖書の一貫した教えです。箴言3章34節には、『主は不遜な者を嘲り、へりくだる人恵を賜る。』と記されています。また主イエスも繰り返してこのことを教えられています。
「人よりも優位でありたい。私はあの人に劣ることはない。」と私達は口には出さなくても、心の隅にそんな思いがありはしないでしょうか。何もかもを捨てて、主イエスに従った弟子達のように、過の日に一切を神に委ねると決心した時を思い起こし、キリストの証人としてより善き働きに勤しむことが出来るように祈る日々を重ね、頭を低くしなければ入ることの出来ない信仰の門をくぐった日を生涯忘れることのないように心の内に刻み付け、喜びの心を以って神に服従する者となりたいものです。この心が育まれますように。