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聖霊の実
 

 ヤマブキの花が日の光に美しく映えて見えるこのごろです、黄色の花とに新緑の若葉の色が調和し、その美しさを更に美しく見せ楽しませてくれています。

 

江戸城の建築者である太田道灌は、鷹狩りに出かけました。不意な雨にあってしまい、とあるみすぼらしい家に駆け込んだのでした。その家の者に「蓑を貸してもらえぬか」と声をかけたのですが、出てきた少女は黙ってヤマブキの花枝を差すだけでした。
 その意味が分からい道灌は腹を立て、雨の中を帰ってゆきました。その晩、道灌は近臣にこの話をしたのです。すると一人が後拾遺集にこんな和歌があると言うではないかと言ったのです。


 七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに無きぞかなしき

道灌は思い起こしました。すると少女は「お貸ししたくともお貸しする蓑ひとつなく申し訳ありせん。」とその思いをヤマブキに例えて花を差し出したのかと。ヤマブキの実を蓑になぞらえた話です。



 

 一般的にはヤマブキは黄色です。そして白い花を咲かせるヤマブキがあります。白色のヤマブキは多くの実を着けますが、黄色のヤマブキは実を付けることは極めて少ないのです。このことを詠ったのが、実のひとつだに無きぞ悲しきと言う言葉に表されています。

 

 さて、僕達の信仰生活に伴うものに聖霊の実といわれるものがあります。

新約聖書のガラテヤ人への手紙には『しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。』と書かれています。聖霊の実は、聖霊が信仰者の生活の中におられることの結果です。聖書は、だれでもイエス・キリストを信じた瞬間にすべての人が聖霊を受けることをはっきり示しています。聖霊が信仰者の生活の中に入ってこられることの第一の目的は、その人の生活を変えることです。私たちをキリストの形に従わせて、もっと主に似たものにすることが聖霊の仕事です。

新しい週が始りました。今週も聖霊に導かれ、日々より善き事に思いを向けて、より善きことに励むことが出来ますように。

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食を思う
 

4月も後半に入りましたが、夜はまだ肌寒くやはり少しばかりの暖房が必要です。亡き母が、苗代つつじと呼んでいた紫色の花を咲かせるつつじが見頃となりました。その名の所以はおそらく、苗代を作るころに花を咲かせることによるものではなかろうかと思っています。

 

 今年も先週から本格的に畑仕事を始めました。ところが今日、畑に行ってみると先週植え付けたジャガイモ畑が荒らされているのです。イノシシの仕業です。呆然としてしまいました。急いでホームセンターに出かけ、代わりの種芋と畑を守るための電気ショックに使う資材を購入して、畑に巡らし一日が終わりました。

 今の時代のように、多くの収穫を得ることの出来る種の作物がない頃の人々はどのようなことをして食を繋いでいたのだろうと思いを巡らします。食は命の根源です。


 



 僕の家の畑からはかつて、
2千年から3千年前の物と言われる土器が出土しました。また僕の家の周囲には、安永時代の墓がいくつかあります。800年続くと言われる本家がありますので、もしかしたら僕の祖先なのかもしれないと思うことがあります。おそらくこの場所で田畑を耕しながら、農耕の生活を営んでいたに違いないと思います。安永年間は、1772年から1780年までの期間を指します。今から230年ほど前の時代です。この時代の天皇は後桃園天皇、光格天皇。江戸幕府は10代将軍、徳川家治が統治していた時代です。歴史にも興味がある僕ですが、必要以上に深堀りするのは得意ではありません。

 

 人は命を繋ぐためにどれほどの苦労を重ねて来たのか。今日の僕の結論です。食物は店に行って買う物ではなく、自らが額に汗して得る物だと言う思いにイノシシの仕業が悔しくてならない日でした。

 

 人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きる。

                マタイによる福音書44
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罪の認識と解かれる喜び
 

 暑いほどの天候の後は、恵那山の山頂が白くなるほどの寒さの訪れ。天候が出来不出来を左右する農業にとっては、これからの遅霜は大敵とも言っていいかもしれません。今日はホームセンターに野菜の苗を買いに出かけましたが、屋外に並べてある物の中には霜にあてられて萎れてしまっているものが多くありました。しかしこのところの寒さのお蔭で、桜の花を長く見ていられることは僕にとっては嬉しいことです。寒さ厳しい中、しばし眠りについていた生き物たちが躍動する季節の訪れです。

 

 神が創造された全てのものは天の法則、地の法則に従って、神の栄光を讃えます。神の恵みは、一本の草、ひとつの石ころさえにも注がれます。しかし神が創造されたものの中で、人だけが罪に染まりました。

 それは人類の始祖であるアダムとエバは、神との約束を守ることが出来ず、蛇にだまされて神が食べてはならないと言われた禁断の木の実を口にしたのです。ここから人の堕落、罪が始りました。しかし僕達は、自分が罪を犯しているなどと言う事は全くと言って考えることありません。堕落した人生を送っている等と言われることも心外です。

 

 あなたは自分の惨めさを何によって知りますか。

 神の律法によってです。

これは、ハイデルベルグ信仰問答のうちの問いのひとつです。律法がない時代には、罪と言うものはありませんでした。しかし僕達は神の律法によって自らの惨めさを知り、罪を認めざるを得ないのです。

無邪気な子供が他の子供のものを取ったとします。その子供はそれが悪いことだと言う判断をする能力がまだ備わっていません。しかし、その子供の親が人の物を取るということは悪いことなんだよと教えることで、事の善し悪しの判断が出来るように成長してゆくのです。ただここでは親の資質が問題となり得ることがあり得ます。律法のなかった時代と神から律法が与えらた後のことは、このように譬えることが出来ます。

 

僕達は惨めで立派な罪人です。しかしこのことに執着して嘆き悲しむことはありません。へりくだりの心を以って神を仰ぐことです。神を仰ぐことは、信仰であります。そして僕達の罪を贖って下さった方がいるのです。この方こそ神の御子 イエス・キリストです。

 

一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の人の従順によって多くの人が正しいものとされるのです。(ローマの信徒への手紙:519
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未来の生命のために
 

ようよう当地も桜の花が満開になりました。しかし今日から明日にかけて、春の嵐になると言われ、せっかく咲いた花が痛んでしまわないで欲しいと願っています。

 

 せっかくの花も花粉症の持病を持つ方々には、気の毒です。僕が最初に付いたいけばなの師匠は、いけばなを教えることを職業としながらも花粉症で、特にウイキョウと言う花に対しての反応は見るからに気の毒でした。

 僕の住む地域は山間地なので、杉、桧など山には数限りなくあります。花粉が飛散する様子は、それは見事なものです。はたきで埃でもはたく様なものです。

 

 そして今年はPM25と言う言葉を頻繁に耳にします。PMとは粒子状物質を指す物で一般的にはマイクロメートルの大きさの固体や液体の微粒子のことをいうそうです。主に燃焼による煤塵、黄砂のような飛散する土壌、海塩粒子、工場や建設現場で生じる粉塵等などからなる物を指し、これらを大気汚染物質として扱うときに用いる用語で、25と言うのはその粒子の大きさを意味するとのこと

 

 
 今、これらが経済発展目覚しい中国から偏西風に伴って、はるばる日本にまで飛散してきている現実です。テレビで中国の大都市の映像を映していましたが、思い浮かべたのが、日本の経済発展の時代です。華々しい経済発展の蔭で、人を蝕む物質が海へ、川へ、そして大気へと何の規制もなく放出されていたのです。それが後になって三大公害と言われる、水俣病、四日市喘息、イタイイタイ病を引き起こしたことになりました

 

美しい炎を燃やすためには、灰となる物が必ず必要になります。それと同じように華々しい時代の蔭には、その舞台の裏で蔭となって支えているものがあります。それはおそらく人にとって益となるものではありません。

 

 人類の繁栄が、人類を蝕む可能性を秘めていると言っても、間違いとは言えないと僕は考えています。そしてこの世は、人類だけの物ではなく、空を飛ぶ鳥、地を這う動物、海の魚、山野の草木と言った創造主である神が造られた全ての物が共有しなければならないものなのではないでしょうか。それを正しく保つことが人類に課せられた務めであると思うのです。

 創られた者として、今日の生命はとても大切です。その上で明日の生命、未来の生命の大切さをも考え、生命の継続を保って行かなければなりません。

 

自然という偉大な存在の中に生かされている人類の営みを謙虚に再認識する時代になりました。手段を選ばずに結果や効果のみを追求するという飽くなき欲求を満たす為に人の力だけを過信した結果が環境破壊と言う自分の首を絞める現状を生みました。

 

「欲が孕んで罪を生み、罪が熟して死を産み出す。」新約聖書ヤコブの手紙1章14節15節)とは人類が滅亡に直面する有り様を考えされられる警告の言葉です。この言葉を謙虚に受け止めたいと思います。

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