2013年5月19日 聖霊降臨祭主日
エフェソの信徒への手紙1章3〜14
聖霊の証印
私たちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、私たちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、私たちがたたえるためです。私たちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画を私たちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。
天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。キリストにおいて私たちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていた私たちが、神の栄光をたたえるためです。あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、私たちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、私たちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。
本日は、ペンテコステを迎えました。この日は、復活祭から数えて50日目であります。ペンテコステとはギリシャ語で数字の50を意味する言葉です。ところでペンテコステは日本語では聖霊降臨祭と呼びますが、聖霊とは何を意味する物なのでしょうか。先ずこのことを知る必要があります。
聖霊が何であるかついては多くの間違った解釈があります。ある人々は、聖霊を神秘的な力として見ており、またある人々は、聖霊とは神が主イエスの弟子すべてに託される力で、それは人格を持たない単なる力であると理解しています。それでは聖書は、聖霊について何と言っているのでしょうか。端的に言えば、聖書は聖霊は神だと言っています。また、聖書は聖霊を知性と感情と意思をもった人格として教えています。
ヘブライ語にシャブオットと言う言葉があります。シャブオットとは、ユダヤ教の祝祭で、過越の祭り、仮庵の祭とともに三巡礼祭の一つに数えられます。太陽暦で5月または6月にあたり「週」を表すシャヴーアの複数形に由来することから「七週の祭り」とも訳されています。
また出エジプトの49日後にシナイ山で神が律法を与えたことを記念し、また春の収穫を感謝する農業祭としての意味もあり、同時にイスラエルの民にとっては律法が与えられたことを記念する日でもありました。
そして、新約聖書の時代に、この七週の祭りの時大事件が起こります。使徒言行録2章の記事によりますと、
『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』と記されています。
この日、120名ばかりのイエスの弟子たちや家族などが集まっていると、聖霊が下ってきました。七週の祭りこそ、神の言葉と霊がイスラエルの民に与えられた日なのです。
新しい生き方について、ヨハネ福音書の3章で主イエスがニコデモに対して次のように語られました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と。そして、「新しく生まれる」と言うことを別な言葉で、「誰でも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われたのです。「霊によって新しく生まれる」これこそが、聖霊降臨日の主題であります。
主イエスの弟子たちは、天に昇られた主イエスを見送った後、エルサレムに留まりました。そして、主イエスが約束されたとおり聖霊を受けたのでした。使徒言行録の記述によれば、五旬節に一同が2階の部屋で集まっているときに、聖霊に満たされて、福音を宣べ伝えたのです。復活の主イエスに出会ってすぐに宣教を開始したのではなく、聖霊が降ってはじめて宣教する者となったのです。福音を宣教することが弟子たちにとっての新しい一歩、新しい生き方の始まりでありました。神の霊、聖霊を受けると言う約束は、主イエスによってなされたと言うだけでなく、旧約の時代から神によってなされていたことでもあります。
さて、エフェソの信徒への手紙を見てゆきましょう。
「私たちは御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」とある通り神の恵みによって救われた、と言うことは、すなわち私たちが自力で神に到達したのではないと言うことを示します。そして、その恵みの深さは、神が私たちを天地創造の前から選ばれていたと言うほどなのです。それほどまでに、私たちがキリストと出会ったと言うこと、神に出会ったと言うことは驚きなのです。
自分で神を見出した、神を信じていると思うこともあるかもしれませんが、果たしてそれは自分の力なのだろうか、と考えるならば、むしろ神によって捕らえられた、神によって選ばれていたとしか言いようの無い不思議さがあります。ヨハネによる福音書15章の記事の中に主イエスが、『あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。あなた方が出かけていって実を結び、その実が残るようにと。また、私の名によって父に願うものは、何でも与えられるようにと、私があなたがたを任命したのである。』と記されています。
そして、その神の選びの不思議さを、エレミヤやイザヤのような預言者は、母の胎に形作られる以前から、あるいは母の胎にある時から預言者として私は立てられた、と賛美しました。エフェソへの信徒への手紙の著者にあっては、何度も前もって定められた、決められた神の御心、恵みを語ります。自分の力によってでないとすれば、神があらかじめ定められたとしか言いようのないことであり、全くの神の恵みによるものとしか考えようがないのです。私達が神の子とされるのはただ、主イエスの十字架による罪の贖いの他にはないのです。このことは私達を選んでくださった主イエスの恵に他なりません。
私達はこの御子、主イエスの血によって贖われ、罪を赦されました。贖いとは、元来買い戻すことであります。或いはその代価を支払って解放され自由の身となることをさします。新約聖書では罪の赦しと言う事が展開されています。この場合の罪は、罪の性質全般ではなく、もろもろの過失の帳消しと言う事であります。神の恵みの豊かさは、無限の恵であり、私達の能力や業績などの入る余地は全くありません。それはいつも私達に向かって働きかけかけてくださる神の力です。
パウロは、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないと語り、聖霊によって、神を「父」と呼ぶことができる、と語りましたが、神の恵みの担い手が聖霊であると言えるでしょう。
エフェソ書の13節では「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」とあります。
証印とは、所有権や保証を約束するしるしです。私達の体は聖霊の宮です。聖霊の内住こそが救われ、神の子とされた印です。
私たちには、聖霊によって証印がつけられていると言う保証があるのですが。全身全霊で神に従っているなどと言えるだろうか、罪ばかり重ねてはいないだろうか、そう思える者でありながらも、今この場に立たせられているのは、まさしく神の霊、聖霊によるものとしか言いようがないのです。イエス・キリストを主と告白し、神を父よ、と呼ぶ者すべてが、聖霊によって確かな保証、印が押されているのです。自分を頼みとせず、神を森羅万象の創造者であり支配者であると告白し、自らの一切を委ねることは聖霊の働きをなくしてはなし得ない事であります。
保証を別の意味から見ると、商人の使う言葉から売買契約をする手付金と言う意味があります。聖霊の内住は、私達の救いだけでなく、御国を受け継ぐことを保証する手付金でもあるのです。心の定まらぬ臆病な動揺し易い私達の信仰に対して、神はこのような恵みをも与えて下さったのです。
聖霊の助けによって私たちは初めて神を知り、神の御前に立たつことが出来るのです。
私達は既に、キリストの血による贖いに与った者です。しかしこの先に更に救いがあり、その救いの御業の完成は主イエスの再臨にあります。私達はその時を待ち望なければんりませんが、主の再臨の日に一番近い日を私達は歩んでいるのです。聖霊は御業の感性を待つ私達への最終的救い、贖いへの保証となるのです。
この聖霊のもとに私たちはキリストを知り、キリストを伝えていくのです。すなわち神の栄光を現していくのです。救いの御業の究極の目的は、神の栄光にあります。
キリストを伝えて行く事とは、キリストが私たちの間で働き、全てのものを一つにまとめていく事に参加する事です。人間の価値観において一つとなるのではありません。あらゆるものが神の栄光を現すために造られていると言う意義において、キリストにあって一つであることを知ると言うことです。
キリストにあって一つであると言うとは、キリストにあって、私たちが一つの体であると言うことでもあります。離れていようと、近くにいようと、人間的に見て違いが大きかったとしても、キリストにあって私たちは一つの体を形作っているのです。弱々しく見える部分においても、強く見える部分においても、共に一つの体に組み入れられていますし、弱い部分がなくてはなりません。私たちは弱いからこそ強いのです。
ここに、聖霊の働きによって、キリストのもとに一つとされることの意義深さがあり、神の御国の平和があるのです。