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人類の幸福を考える
 

このところの日中の気温は真夏並み、天気予報では熱中症に注意してくださいと言われるほどの暑さです。今週は雨模様の日が多いようで、一息つけるかとホッとしています。

 今年の夏もまた、節電の声が高らかに聞こえてきそうな雰囲気です。僕達は無意識の中に、原子力発電の恩恵を受けて、それが当然のようにふんだんに電力を使用しています。

 しかし、クリーンなエネルギーと銘打てば聞こえは良いものの、人類は原子力と言う人類では最終的処分の出来ない物を作り出してしまったのです。走り出したら止める事の出来ない自動車より厄介な代物です。世界には有能な科学者が数多くいると思います。やがては無害なものとして処分出来る日が来ないとは限りません。

 

 原子力の代替燃料として火力発電のための液化天然ガスの輸入量が右肩上がりで続伸中です。これもまた、二酸化炭素による地球温暖化を促すものであり、環境への影響は少なくはないはずです。人が生活するためにより便利なものとして作り出した物が、人が住む環境を二次的に悪い方向へと向かわせてしまっているこの現実があるのです。

 

 1950年代後半、白黒テレビ洗濯機冷蔵庫家電3品目が『三種の神器』として喧伝されました。1956年昭和31年)の経済白書が「もはや戦後ではない」と明記し戦後復興の終了を宣言した神武景気以降、輸出拡大で日本経済が急成長した時期でありました。

これら3品目の家電は、努力すれば手が届く夢の商品であり、新しい生活の象徴でした。テレビ本放送開始は1953年(昭和28年)で、それ以前は電気釜(炊飯器)、あるいは掃除機が代わりに入っていたこともあります。(ウィキペディア フリー百科事典より)

 

 

 あらゆる物には大抵、裏と表があります。僕は、物資が乏しかった時代を裏とは言いません。しかしこの豊かさの中で暮らすことが本当の意味で幸福なことなのかと考えてしまします。豊かさばかりが前面に出てあたかも世界中が幸福な夢を見ている様に思えますが、その蔭には貧困と飢餓に苦しむ人々がいるのです。この現実から目をそらすことは出来ません。

 

 文明は人類を滅ぼすと言われます。世界に幾千年前かに存在した文明は、後世にその存在の印を残し消滅してしまいました。そこに何が起きたのかは僕にはわかりません。ただ、文明と人類との調和が崩れると収拾がつかなくなると察することは出来ます。

人類の歴史を顧みて、人として有るべき姿は如何なるものなのかを真剣に考えなくてはならない時であると思います。労働なき富、金融資本主義にうつつを抜かしている時ではありません。

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実となる言葉
 

 今年は本日、519日に聖霊降臨祭を迎えました。聖霊降臨祭は、その年の復活祭がいつになるかで変わってきます。復活祭は毎年、春分の日の後の満月の夜の直後の日曜日とされています。ですから春分の日の後、いつが満月になるかで日が決まるわけです。

 

 さて谷の百合キリスト教会は本日、洗礼式を執り行いました。25歳になる青年が洗礼を受けました。あれは3年前のある夜のこと、僕のブログを見て電話を下さいました。相当悩みに打ちひしがれている様子であったことを覚えています。それ以後、キリストを介して交わりを続けること3年。事の善し悪しは別として、彼を取り巻く環境は随分変わりました。仕事の関係で毎週教会に通えるわけではありませんでしたが、人の心を深く探り知られる神は、彼の心の内に秘めた神への信頼に応えてくださり救いへと導いて下さったのです。

彼は、かつてペンテコステ派の教会に暫く通っていたことがあると言うことで、ペンテコステにいささかのこだわりが有ったようで、昨年のことでしたが、「来年のペンテコステに、洗礼を受けたいです。」と申し出がありました。




日本の宗教では自分で神仏を見出し、その神仏を信じていると思うこところが多分にあります。果たしてそれは自分の意思によって、自分の力によってなのだろうかと考えるとやはり本願自力的と考えざるを得ません。

しかしキリスト教では、神の側から信仰へと、救いへと導いてくださるのです。神によって選ばれていたとしか言いようの無い不思議さがあります。ヨハネによる福音書15章の記事の中にキリストが、『あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと。また、私の名によって父に願うものは、何でも与えられるようにと、私があなたがたを任命したのである。』と記されている箇所があります。

 僕達も出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、信仰の歩みを進めて行きたいと願います。

 
キリストは律法学者の律法についての問いに、この様に答えられています。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」この言葉が僕達が、実を結ぶための種になるのではないでしょうか。

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聖霊の証印
                                 2013年5月19日 聖霊降臨祭主日

               エフェソの信徒への手紙1章3〜14  


聖霊の証印


 私たちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、私たちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

 

神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、私たちがたたえるためです。私たちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画を私たちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。

 

天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。キリストにおいて私たちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていた私たちが、神の栄光をたたえるためです。あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、私たちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、私たちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。





 本日は、ペンテコステを迎えました。この日は、復活祭から数えて50日目であります。ペンテコステとはギリシャ語で数字の50を意味する言葉です。ところでペンテコステは日本語では聖霊降臨祭と呼びますが、聖霊とは何を意味する物なのでしょうか。先ずこのことを知る必要があります。

聖霊が何であるかついては多くの間違った解釈があります。ある人々は、聖霊を神秘的な力として見ており、またある人々は、聖霊とは神が主イエスの弟子すべてに託される力で、それは人格を持たない単なる力であると理解しています。それでは聖書は、聖霊について何と言っているのでしょうか。端的に言えば、聖書は聖霊は神だと言っています。また、聖書は聖霊を知性と感情と意思をもった人格として教えています。

ヘブライ語にシャブオットと言う言葉があります。シャブオットとは、ユダヤ教の祝祭で、過越の祭り、仮庵の祭とともに三巡礼祭の一つに数えられます。太陽暦で5月または6月にあたり「週」を表すシャヴーアの複数形に由来することから「七週の祭り」とも訳されています。

また出エジプトの49日後にシナイ山で神が律法を与えたことを記念し、また春の収穫を感謝する農業祭としての意味もあり、同時にイスラエルの民にとっては律法が与えられたことを記念する日でもありました。

 

そして、新約聖書の時代に、この七週の祭りの時大事件が起こります。使徒言行録2章の記事によりますと、
『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。

 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。

すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』と記されています。

この日、120名ばかりのイエスの弟子たちや家族などが集まっていると、聖霊が下ってきました。七週の祭りこそ、神の言葉と霊がイスラエルの民に与えられた日なのです。


 新しい生き方について、ヨハネ福音書の3章で主イエスがニコデモに対して次のように語られました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と。そして、「新しく生まれる」と言うことを別な言葉で、「誰でも水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われたのです。「霊によって新しく生まれる」これこそが、聖霊降臨日の主題であります。

主イエスの弟子たちは、天に昇られた主イエスを見送った後、エルサレムに留まりました。そして、主イエスが約束されたとおり聖霊を受けたのでした。使徒言行録の記述によれば、五旬節に一同が2階の部屋で集まっているときに、聖霊に満たされて、福音を宣べ伝えたのです。復活の主イエスに出会ってすぐに宣教を開始したのではなく、聖霊が降ってはじめて宣教する者となったのです。福音を宣教することが弟子たちにとっての新しい一歩、新しい生き方の始まりでありました。神の霊、聖霊を受けると言う約束は、主イエスによってなされたと言うだけでなく、旧約の時代から神によってなされていたことでもあります。

さて、エフェソの信徒への手紙を見てゆきましょう。

「私たちは御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」とある通り神の恵みによって救われた、と言うことは、すなわち私たちが自力で神に到達したのではないと言うことを示します。そして、その恵みの深さは、神が私たちを天地創造の前から選ばれていたと言うほどなのです。それほどまでに、私たちがキリストと出会ったと言うこと、神に出会ったと言うことは驚きなのです。

自分で神を見出した、神を信じていると思うこともあるかもしれませんが、果たしてそれは自分の力なのだろうか、と考えるならば、むしろ神によって捕らえられた、神によって選ばれていたとしか言いようの無い不思議さがあります。ヨハネによる福音書15章の記事の中に主イエスが、『あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。あなた方が出かけていって実を結び、その実が残るようにと。また、私の名によって父に願うものは、何でも与えられるようにと、私があなたがたを任命したのである。』と記されています。


 そして、その神の選びの不思議さを、エレミヤやイザヤのような預言者は、母の胎に形作られる以前から、あるいは母の胎にある時から預言者として私は立てられた、と賛美しました。エフェソへの信徒への手紙の著者にあっては、何度も前もって定められた、決められた神の御心、恵みを語ります。自分の力によってでないとすれば、神があらかじめ定められたとしか言いようのないことであり、全くの神の恵みによるものとしか考えようがないのです。私達が神の子とされるのはただ、主イエスの十字架による罪の贖いの他にはないのです。このことは私達を選んでくださった主イエスの恵に他なりません。

 

 私達はこの御子、主イエスの血によって贖われ、罪を赦されました。贖いとは、元来買い戻すことであります。或いはその代価を支払って解放され自由の身となることをさします。新約聖書では罪の赦しと言う事が展開されています。この場合の罪は、罪の性質全般ではなく、もろもろの過失の帳消しと言う事であります。神の恵みの豊かさは、無限の恵であり、私達の能力や業績などの入る余地は全くありません。それはいつも私達に向かって働きかけかけてくださる神の力です。


 パウロは、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないと語り、聖霊によって、神を「父」と呼ぶことができる、と語りましたが、神の恵みの担い手が聖霊であると言えるでしょう。
 エフェソ書の13節では「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」とあります。
 証印とは、所有権や保証を約束するしるしです。私達の体は聖霊の宮です。聖霊の内住こそが救われ、神の子とされた印です。

 私たちには、聖霊によって証印がつけられていると言う保証があるのですが。全身全霊で神に従っているなどと言えるだろうか、罪ばかり重ねてはいないだろうか、そう思える者でありながらも、今この場に立たせられているのは、まさしく神の霊、聖霊によるものとしか言いようがないのです。イエス・キリストを主と告白し、神を父よ、と呼ぶ者すべてが、聖霊によって確かな保証、印が押されているのです。自分を頼みとせず、神を森羅万象の創造者であり支配者であると告白し、自らの一切を委ねることは聖霊の働きをなくしてはなし得ない事であります。

 

保証を別の意味から見ると、商人の使う言葉から売買契約をする手付金と言う意味があります。聖霊の内住は、私達の救いだけでなく、御国を受け継ぐことを保証する手付金でもあるのです。心の定まらぬ臆病な動揺し易い私達の信仰に対して、神はこのような恵みをも与えて下さったのです。


 聖霊の助けによって私たちは初めて神を知り、神の御前に立たつことが出来るのです。
私達は既に、キリストの血による贖いに与った者です。しかしこの先に更に救いがあり、その救いの御業の完成は主イエスの再臨にあります。私達はその時を待ち望なければんりませんが、主の再臨の日に一番近い日を私達は歩んでいるのです。聖霊は御業の感性を待つ私達への最終的救い、贖いへの保証となるのです。


 この聖霊のもとに私たちはキリストを知り、キリストを伝えていくのです。すなわち神の栄光を現していくのです。救いの御業の究極の目的は、神の栄光にあります。
 キリストを伝えて行く事とは、キリストが私たちの間で働き、全てのものを一つにまとめていく事に参加する事です。人間の価値観において一つとなるのではありません。あらゆるものが神の栄光を現すために造られていると言う意義において、キリストにあって一つであることを知ると言うことです。

キリストにあって一つであると言うとは、キリストにあって、私たちが一つの体であると言うことでもあります。離れていようと、近くにいようと、人間的に見て違いが大きかったとしても、キリストにあって私たちは一つの体を形作っているのです。弱々しく見える部分においても、強く見える部分においても、共に一つの体に組み入れられていますし、弱い部分がなくてはなりません。私たちは弱いからこそ強いのです。
 
 ここに、聖霊の働きによって、キリストのもとに一つとされることの意義深さがあり、神の御国の平和があるのです。

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立ち上がる
 

少しばかりおかしな陽気の中にあっても、時は間違いなく刻まれています。夕闇があたりを包み込む頃から、カエルの大合唱が始ります。僕にとっては耳障りなものではありません。この時期の風物詩のひとつとして悪いものではないのです。

静寂な夜に外に出て星空を見ながら時を過ごすのも僕の習慣のひとつです。カエルの大合唱を聞きながら。そうもしていると、突然合唱が途切れることがあります。それもパタッと一斉にです。そして暫く時をおくと再び合唱が始ります。あたかも指揮者がいるかのようです。いや、いるに違いありません。他の生き物と意思の疎通が出来たとしたら、面白いことが沢山あるでしょうが、それが出来ないからこそ安心して暮らすことができると言うことが出来ると思います。





昨今の社会の変化には、著しいものがあります。この様な社会の変化に伴い人間関係は希薄となり、以心伝心などと言う事は皆無、いつの時代の話?と言っても過言ではないと思います。孤立ではなく孤独化が進み、言いたい事も言うことなく自分と自分との間の葛藤で心病む人は少なくないのです。社会に抑圧され本当の自分を見失ってしまった。以前はこんな自分ではなかった。何時どこで道に迷ってしまったのだろうと思う時、その矛先は何に向けられるのでしょうか。

 

『重荷を負うて苦労している者は、私の下に来なさい。あなた方を休ませてあげよう。』とキリスト・イエスは招いておられます。昼はもの言わず夜は語らねど、声無き歌声、心にぞ響く。心静かに自分と向き合う時、神は語りかけて下さいます。輝く日の光の中で、静寂な月星の光の中で、声に出さずとも胸の内にある思いを語って見ましょう。

 

ひとり、誰にも話すことなく苦悩の日々を送っている方を思い、今の僕にはこのことを伝えることしか出来ません。

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良き思い出
 

 僕の家の庭先に植えてある藤の花が咲き始め、初夏の香りを漂わせています。今年は遅霜にあたったため、蕾が傷んでしまい花の付きがいつに無く良くありません。遅霜の被害を防ぐには、朝日が昇る前に作物なり花なりに水をかける事だそうです。他には火をたいて煙で巻くとか、茶畑などには風を起こす事で霜を防ぐ換気扇が備えられているところがあります。そんなに大掛かりにしなくても、ホームセンターなどで売っている不織布のシートをかけておけば安心です。今年はこの時期になっても、夜は少し暖房が欲しいので、今年の作物の作柄が少し心配です。・・・僕は、今年も畑仕事を始めています。

 

 今日は今まで書いた説教の整理で一日が終わりました。書いた説教のひとつひとつに思い出があり、題名を見るごとにその時の光景が脳裏を過ぎりました。書いた時に参考にした神学校の先生の顔が思い出されたり、どう言う表現で書いたらいいのかと苦悩の時もありました。

 そんな中にパソコンに記録はしたのですが、データが消えてしまった説教を印刷したものが出てきたのです。僕が書いた説教の中で、一番印象深いものです。神学校を卒業した2週間後がその年の復活祭でした。その時の説教です。いわばデビュー作とでも言うのでしょうか。

 



 今日はその説教の中から、ネイティブアメリカの人々の祈りをご紹介します。約150年ほど前に作られたと聞き及んでいます。

 

美の中を歩かせて下さい。

赤と紫の夕日を見させて下さい。

私の手にあなたの創った物を愛でさせて下さい。

あなたが、我が人々に教えられたことを理解できる様に賢くして下さい。

あなたが、葉っぱや岩の陰に隠した教えを学ばせて下さい。

私は力を求めます。

それは兄弟よりも強くなるためではなく、いちばん手強い自分自身と戦うためです。

いつも清い手と素直な目で、あなたの下へ向かえる様に私を準備させて下さい。

消え行く夕日のように、私の人生が消えてゆく時、

私の霊が魂が恥じることなく、あなたの下へと向かえるように。

 

 神の愛を思い起こし御霊の神の支えと、喜びを携えて信仰の日々を重ねて行きたいと思います。新しい週が主の祝福のうちにあり、より善きことをなすことが出来ますように祈りましょう。
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