<< June 2013 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>

アメイジング・グレイス
 

 タチアオイの花が綺麗な時期です。随分古い話ですが、タチアオイの花が咲ききると梅雨が明けると古老の一人に教わりました。昔の人は自然の現象から様々なものを察知していたようです。僕の父方の祖母は、恵那山がはっきり見えると雨が近いと言っていました。また、僕が浜松市に在住していたときには、南風が吹くと天気が変わると教わりました。僕はこの話を聞いて確かめましたが、まさにその通りでした。そして僕が気づいたのは、風が南風に変わる前に、東風が吹くのです。現代のように情報がいつでもどこでも手に入る時代ではなかった頃の人々の言い伝えには、千金の価値があると思います。


 早いもので、もう半年が過ぎようとしています。この半年の間に僕は一体何をしてきたのだろうと振り返っても、ただその日一日を終え、その日の命に感謝を捧げる平凡な日々の連続でしかなかったような気がしています。僕にとってはそれで良いのかもしれません。

 地位、名誉、お金を追い求めて生きる人は少なくはないと思います。どれもこの世にあっては魅力的なものだからです。人を踏み台にまでして、また会社の役員に媚ってまで、自分の立場を有利にしようとした人の姿を見て来ました。この世で名声を得たとしても、神の前には何の価値もありません。




 人生はいい加減でいいんだよ。と若き日の僕に行きつけの食堂の親父さんが僕に語ってくれました。いい加減とは、だらだらした加減ではなく、良い加減なのだと。確かにそうかもしれません。『人は捨つれど、君は捨てず。』神を知った僕の人生は、最高であるはずです。足元ばかりを見ないで、天を見て生きてみよう。


 アメイジング・グレイスが生まれた話をご紹介いたします。

ジョン・ニュートンは1725年(今から約280年前に)イギリスに生まれました。

母親は幼いジョンに聖書を読んで聞かせるなど敬虔なクリスチャンでしたが、ジョン・ニュートンが7歳の時に亡くなりました。成長したジョン・ニュートンは、商船の指揮官の仕事をしていた父に付いて船乗りとなったのですが、さまざまな船を渡り歩くうちに黒人奴隷を輸送する、いわゆる「奴隷貿易」と言うものに手を染めるようになりました。

当時、奴隷として拉致された黒人への扱いは家畜以下であったそうで、輸送に使われる船内の衛生環境は劣悪であったと言われます。このために多くの人が輸送先に到着する前に感染症や脱水症状、あるいは栄養失調などの原因で死んでゆきました。


 ジョン・ニュートンもまたこのような扱いを、拉致してきた黒人に対して当然のように行っていたのですが、1748年5月10日、ジョン・ニュートンが22歳の時に転機はやってきました。船長として任された船が嵐に遭い大変危険な状態に陥ったのです。今にも海に呑まれそうな船の中で、ジョン・ニュートンは必死に神に祈りました。敬虔なクリスチャンの母を持ちながら、ジョン・ニュートンが心の底から神に祈ったのはこの時が初めてだったのです。すると船は奇跡的に嵐を脱して、難を逃れることが出来たのです。この他にもこの船が港に着くまでの難航の航海の間、奇跡と言うべきことが起き、船員、乗員ともどもに命を救われたのでした。「この罪深き私の祈りをも神は聞き届け、救ってくださった。」ジョン・ニュートンはこの日を自らの第二の誕生日と決めました。その後の6年間も、ジョン・ニュートンは奴隷を運び続けました。しかしジョン・ニュートンの船に乗った奴隷への待遇は飛躍的に改善されたのです。

1755年、ジョン・ニュートンは病気を理由に船を降りて、勉学を重ねて牧師となりました。そして1772年、今から約230年前に「アメイジング・グレイス」が生まれたのです。この曲には、黒人奴隷貿易に関わったことに対する深い後悔と、それにも関わらず赦しを与えた神の愛に対する感謝が込められていると言われています。


 僕たちは時として、「こんな私を・・・。」「こんな私が、・・・。」とよく口にすることがあります。また、友人知人を教会に誘うと、「こんな私が行くところではない。」と言う言葉を聞きはしないでしょうか。しかし、主イエスは言われました。「私は、義人を招くためではなく、罪びとを招くために来た。」

・・・・こんな私だから、救われるのです。こんな私であることを、喜んでも良いと思うのです。


『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』
           (コリントの信徒への手紙第一 5章
17節)

http://www.youtube.com/watch?v=PjBcflTrlPM
(アメイジング・グレイス)
| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
揺るがぬ信仰
 

『 揺るがぬ信仰 』
                       ヨブ記11~22

ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。息子たちはそれぞれ順番に、自分の家で宴会の用意をし、三人の姉妹も招いて食事をすることにしていた。


 この宴会が一巡りするごとに、ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝早くから彼らの数に相当するいけにえをささげた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにした。ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。


 ヨブの息子、娘が、長兄の家で宴会を開いていた日のことである。ヨブのもとに、一人の召使いが報告に来た。「御報告いたします。わたしどもが、牛に畑を耕させ、その傍らでろばに草を食べさせておりますと、シェバ人が襲いかかり、略奪していきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」彼が話し終らないうちに、また一人が来て言った。「御報告いたします。天から神の火が降って、羊も羊飼いも焼け死んでしまいました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」彼が話し終らないうちに、また一人来て言った。「御報告いたします。カルデア人が三部隊に分かれてらくだの群れを襲い、奪っていきました。牧童たちは切り殺され、わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」彼が話し終らないうちに、更にもう一人来て言った。「御報告いたします。御長男のお宅で、御子息、御息女の皆様が宴会を開いておられました。すると、荒れ野の方から大風が来て四方から吹きつけ、家は倒れ、若い方々は死んでしまわれました。わたしひとりだけ逃げのびて参りました。」ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった
 



 私達の信仰は、神によって与えられた事によって始りました。そこでよく聞く言葉は、あの人は立派な信仰を持っていると褒め称える言葉です。では、粗末な信仰というものがあるのでしょうか。かつて私は礼拝説教の中で、特定の人を指して立派な信仰を持った人であると言う言葉を何度か聞いたことがあります。私の思うところは、信仰と言うより、その人の人となりを見て立派な信仰を持った人と言うのではないかと言うことです。

 信仰には、立派も粗末もありません。ただキリストを信じる心、これが信仰であります。確かに聖書についての知識は深くあるにこしたことはありません。欠かさず礼拝に出席するにこしたことはありません。多くの献金をするにこしたことはありません。

 しかし重ねて申し上げますが、キリストを信じる心こそが信仰であり、そして与えられた賜物によって生きる人生が、その信仰を豊かにしてくれるものであると思います。


  ローマの信徒への手紙の12章の一節をご紹介します。

わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。なぜなら、一つの体にたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つの体であり、また各自は互に肢体だからである。


  このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。愛には偽りがあってはならない。悪を憎み退け、善には親しみ結び、兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。熱心で、うむことなく、霊に燃え、神に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。

 ここに記されている事柄が重要な信仰の一片ではないかと私は思っています。

 本日は無垢な正しい人で、神を畏れ悪を避けて生きていたと、その人となりを紹介されているヨブの人生から、信仰の姿を学びたいと思います。

 1節から3節にヨブがどのような人物であったかが記されています。ウツの地の住民であり、無垢な正しい人で、神を恐れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、ラクダ三千頭、牛五百くびき、雌ロバ五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。私には、ここに掲げられた家畜の数を思うだけで、富豪であることは理解できますが、その数の多さにその光景を思い浮かべることが出来ません。また5節には、神を深く敬うヨブの道徳面での円熟さが記されています。またヨブが神を畏れ敬う心は、ヨブの家にも同じことを願い求めており、自分の子供が罪を犯しているかもしれないと言う、あくまでもその可能性に対してさえ、規則的に生贄を用意し神に捧げていたのです。


 ヨブは無垢な正しい人であったと紹介されていますが、無垢な人とはいかなる人を指して言うのでしょうか。因みに無垢と言う言葉を、ヘブル語に訳すと完全と言う意味になるのですが、完全無欠を意味するものではありません。ヨブは無垢な人ではありましたが、神の前においては罪無き人ではなかったのです。ここでは、ヨブは道徳的に円熟しており、均斉のとれた人であったと理解することが適当ではないのかと思います。

 

 さて、無垢な人とは、心に分裂心なく、ひたすら神を愛し、神に従いたいと願い、神の恵みを喜び、罪を犯すことがあっても、神が赦しの手段を備えておられることを知って、それに身を委ねます。このような神との関係がおのずと人の品性と行動に現れるものです。


 聖書にはある日と記され、その日、神の前に神の使い達が集まり、サタンも来たと記されています。言わば御前会議とでも言う集まりがあったのです。この集まりの中で、神とサタンとの駆け引きとでも言うことが起こるのでした。

 サタンについては、スナイス教授と言う方がこのように語られています。『彼は地上では、神に使わされた人間の監視者であり、天においては、人間の敵である。』


 事の起こりは、神の下に来たサタンに、神が問われます、『お前はどこから来たのか。』

サタンは答えます。『地上を巡回しておりました。方々を歩き回っていました。』神の言葉です。『お前は私のヨブに気付いたか。地上には彼ほどの者はいない。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。』

 この神の言葉に対し、サタンは答えました。『ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。』この問いは、私達にも適用されます。私達はどうでしょうか。私達は利益を求めて神を敬っているのでしょうか。私達一人ひとりが自らの信仰を省みてみる機会でもあります。サタンの言葉を続けますと、『あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れて御覧なさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません。』神に対する挑発の言葉であります。


 そこで神はサタンに、『ヨブのものを一切、お前のいい様にしてみるが良い。ただし、ヨブには手を出すな。』と、サタンにヨブを打つ許しを与えたのです。この先、ヨブを襲う悲劇は、目をも覆いたくなると言うに足りると思います。

 ヨブには4つの災いがおそりかかりました。田畑では、シェバ人が襲いかかり牛、畑を略奪され、牧童達は切り殺されました。天から神の火が降って羊も羊飼いも焼け死んでしまいました。カルデア人がラクダの群れを襲い、略奪し牧童立ちは切り殺されました。そして、長男の家では息子、娘が宴会を開いていると大風が四方から吹きつけ、家は倒れ、息子、娘達は死んでしまいました。

 一度にこのような災いが私達に襲いかかったとしたら、私達はどうすることでしょうか。

一度に何もかもを失ってしまったのです。それも通常の災いではありません。『泣きっ面に蜂』と言う言葉がありますが、そんな程度のものではありません。

 ヨブの被った災いとは次元の違う問題であり、決して自慢できる話ではありませんが、私は2月から3月にかけて立て続けに3回の交通事故を起こしました。幸いにも単独の事故であり、何一つとして怪我もありませんでしたので、今こうして皆さんの前に立つことが出来るわけです。神への感謝に耐えません。


 さて、ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし地にひれ伏します。立ち上がりとは深い悲しみの前に呆然と立ち尽くすようにも見えますが、ヨブは信仰によって立ち上がったのです。上着を裂くこと、髪をそることは深い悲しみの表現であります。地にひれ伏すことは、地面に頭を擦り付けることであり、いずれも神に対する絶対的服従の現れです。神の摂理を全面的に受け入れた、そのような神への服従と自己放棄こそが本質的な意味での礼拝と言う事が出来ます。


 私は裸で母の胎を出た。

 また裸でかしこに帰ろう。

 主は与え、主は取られたのだ。

 主の御名はほむべきかな。


 ヨブのこの言葉は諦めではなく、自分が本来無力な存在であることを認め、神に対して絶対的依存の表現であります。そして人の所有物の真の所有者は神であり、人は一時的に借りているに過ぎません。ですから神は取り上げられる自由を持っておられるのです。御心であればいつでもお返ししなければなりません。

 ついには人類が創造された大地、塵に帰ろうとヨブは言うのです。このような時もヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかったと結ばれています。サタンの目論見はヨブには通用しませんでした。ヨブの信仰の勝利であります。

 主の御名はほむべきかなと、ヨブは神を讃えています。香り高い信仰の物語りであり、ヨブは神の御旨への服従を表したのでした。人生の最悪の時にも、なお神を祝福できたのです。


ジョン・バンヤンと言う人の著作に「天路歴程」と言うものがあります。そのあらすじは、「滅亡の市に住むクリスチャンと言う名の男が神の都への巡礼に出かけます。落胆の沼を通り、死の影の谷を過ぎ、虚栄の市では投獄されるなど苦難にあうのですが、信仰を持ち続けて、ついに天国の都を望み見る」と言うもので、行く先々で出会う数多くの登場人物は人間の本質を見事に描き出していると評価されている書物です。


  天路歴程の終わりには天国を仰ぎ見る直前に死の川という名の黒い川が流れています。それは次の様に書かれています。「クリスチャンとホープフルの二人は目の前の光景にびっくり仰天して立ち止まりました。天の都の門と彼らを隔てて、深い、黒い川が流れているのです。川面には霧が立ち込めています。橋はありません。クリスチヤンは泳げなかったのですがが、恐る恐る水の中に入りました。すぐ溺れてホープフルに助けを求めます。「助けてくれ。波に飲まれてしまう。」ホープフルも助けようとするのですが、川は深くまた沈んでしまいます。天の都を前に溺れ死ぬのか」沈み行く川の中で、川底に触れた時、ホープフルは「これで安心だ。」と言っています。恐怖におののきながら沈んでゆく川の中です。川底に達すればそれ以上沈むことはありません。神は人間をお見捨てになりはなりませんでした。ホープフルは神の救いが必ずあることを確信し、祈り願ったに違いありません。その時、雲の間から日光が差し、新しい力がわきあがってきたのです。川は次第に浅くなり、二人は何とか岸辺にたどりつきます。こうして二人は向こう岸に着き、輝く衣を着た人たちに迎え入れられるのでした。


 私達は、地に叩きつけられ、もう二度と立ち上がることが出来ないと思うような出来事。挫折、闇の底までにも行き着いたような落胆や、深淵の死の淵に佇まされるような恐怖や苦悩を味わうことが誰も必ずあります。しかし、そこから全能者である神を見上げて祈ることです。そうすれば神が手を差し伸べて立ち上がることが出来るようにして下さいます。そのとき、私たちは、差し伸ばされた手を握るだけで良いのです。そこにあるのは神が与えた給う平安であります。

 

奨めの言葉です。

 『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心の謙った者であるから、わたしの軛を負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。』


神はサタンに試みを赦しました。しかしその背後には、神は必ず守ると言う誓いがあるのです。私達の人生にも様々な場面で神が介入されます。時に祝福を与え、時に平安を与え、また時には試みを与えます。私達は、いかなる時も神を仰ぎ、賛美と祈りを捧げ続ける人生を全うしたいと思います
| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
まことの食べ物
 

 春に植えつけた作物がわずかずつながらも収穫できる時期になりました。今日収穫した物はナスとキュウリです。トマトも多くの実を付けてくれています。収穫の喜びと共に自らが育てた作物ですから、何より安心して食べることが出来るのです。

 食の安全と言う事がとり立たされて久しくなります。一部の者の不祥事が、食を生業とする業界全体に及ぼす影響は計り知れません。その裏には、ずさんな思考や欲がうごめいているに違いないのです。マスコミで取り上げられた食に関する事件の多くは、その場所で働く者の内部告発でありました。良心の呵責に駆り立てられたものだと思います。


 

 欲を人から切り離すことは出来ません。僕にも欲があります。その欲に対して聖書はこの様に警告しています。『欲がはらんで罪を産み、罪が熟して死を招く。』欲の行き着くところは死なのです。会社に譬えれば廃業をやむなくされることになるのでしょう。

 僕は、大義名分を旗印にしている会社の底辺を見て来ました。世間からは立派な会社だと評価され、会社自体もその言葉に甘んじ、業績の向上、利益の追求に終始し足元を見ることを蔑ろにしていたのです。こういう会社は僕達の記憶にも新しいものがあります。マスコミに取り上げられた餅を作る会社もその一つです。


 食は命です。安心安全は当たり前。・・・・だから安心安全なのです。などと理屈をつけて説明する必要などありません。自らの会社が作った食品を、自らが自信を持って食べることが出来ること、身をもって世間に示すことが出来るものでなくてはならないと僕は考えます。かつてO157による食中毒の原因が、カイワレダイコンであると言われ、槍玉に挙げられたことがあります。当時、厚生大臣であった菅直人氏は、カイワレダイコンは安全だと自らカイワレダイコンを食べて見せたことがありました。その頃、カイワレダイコンを栽培している会社に勤務している友人がいましたが、給料の支払いも危うい状況であったそうです。


 食は命です。何を食べたいですか? 高級レストランでのディナーですか。銘柄牛の肉ですか? 食欲と言う言葉の通り、食にも欲がついてまわります。ここにもう一つの命を繋ぐ食があります。聖書のことば『人はパンのみによって生くるにあらず。神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きるのである。』

 これこそまさに安心安全、欲とは無縁のものです。しかし人の味覚は千差万別。これをなんとおいしいものだろうと感じる人がいる反面、味気ないものだとはき捨てる人もいるに違いありません。命を繋ぐまことの物は何か、このことを考えることは無駄ではないと思います
| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
サーバントリーダー
 

 梅雨さながらの天候が続き、蒸し暑さに体がついていけない様に感じるこの頃です。そんな中でも明日は晴れの天気予報に気分を良くしています。


「会社を辞めさせられるかもしれない。」僕の知人Aさんがこんな言葉を投げかけて来ました。一体どう言うことなのだろうと事情を聞いてみると、Aさんの会社の社長からAさんに、Aさんの家の近くに出来る会社の社長がAさんにどうしても来て欲しいと依頼があったそうです。それをAさんの会社の社長がAさんに伝えてきのです。ところがAさんにどうしても来て欲しいと言う会社の社長の話を聞くと、Aさんの会社の社長からAさんを雇用して欲しいと依頼されたとのこと。話が食い違います。また、Aさんに来て欲しいといっている会社の雇用条件は、高校卒業の初任給程度の給与、休みは週間1日とどうしても来て欲しいと言うについては、条件が悪すぎますこれが50代の男性を雇用するに値する条件として通用するとは思えません。

 Aさんの知らない本人不在のところで話が先行し、Aさんは今勤めている会社を辞める方向に誘導されてしまい、辞めざるを得なくなってしまったと話してくれました。雇用条件は多少、見直されたようです。
 

 

 昼と夜、光と影、生と死があるように、物事には大抵裏と表があるものです。この話にも裏があると聞いた話の中で確信しました。誇張して言うとすれば人権問題です。

 雇う側が強いわけではないと僕は思っています。しかし、雇われる側は弱いのです。時代は変遷を繰り返します。一昔前は、社長と言えばトップリーダーとして君臨したものです。


 理想的なリーダーのあるべき姿は、管理・命令型と言った上からの指示でリーダーシップを発揮するタイプから、リーダーシップをとりつつも仲間として協働するタイプへと変化を遂げてきました。こうした流れの中、近年では日本でも、米国のロバート・グリーンリーフ博士が提唱したサーバントリーダーシップの概念が浸透して来ています。従来のリーダーシップの考え方とは異なり、他者に対する思いやりの気持ちや奉仕の行動を常に念頭におくことが特徴です。他者に奉仕することで信頼を得て、目指す方向へ導きやすくするのです。言ってみれば下支えするリーダーです。


 サーバントリーダーシップは、「リーダーのために部下がいる」と言う発想を逆転させ、「部下を支えるためにリーダーは存在する」と言う考が基になります。上司は部下の自主性を尊重し、部下の成功や成長に奉仕する行動を実践します。結果として信頼関係が育まれ、コミュニケーションが円滑になります。組織全体が同じ目標を共有化できていれば、上司が組織を導くのではなく、一人ひとりが主体となって組織を導いていく構図になり、目標達成が実現できると考えられています。

サーバントリーダーには、他者を理解し、その可能性を引き出す能力が求められます。正しいことを「見抜く力」や「実行に移す力」があり、さらに、自分が持つすべての資源を他者に与えることができて、部下からは「この人にならついていきたい!」と思われるような人こそ、サーバントリーダーと呼ばれるべき人です。

 
人が神の子となるために、神の子が人となった。キリストこそまさにサーバントリーダーです。

 

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
金持ちの実態
 

 昨年はグミの実がたわわに実ったのに、今年は数えるほどしか実をつけませんでした。花は芳しい香りを放ち、枝いっぱいについていたのに、どうしたことなのだろうとグミの実を食べることを楽しみにしていた僕は、この異変に良からぬものを感じています。

 神は人類の幸福のために天の法則、地の法則をお定めになりました。しかし、人はそれに気がつかず歪めてきた歴史があります。その上、物資の豊かさは、心の貧困を招きます。

豊かな生活、便利な生活を追い求めることが、果たして人類のためなにるかどうか僕の持つ疑問のひとつであります。
 

 

 多くの場合、人は何一つ不自由のない満足の上に満足を重ねるような生活をしていると、謙る心は薄れるものです。神の存在よりも、お金、或いは物の存在に価値を置き、今現在の生活に満足を覚え、神への感謝の念どころか神の存在を忘れてゆきます。そして私的な見解ではありますが、無情な傾向があるように思います。カリフォルニア大学で金持ちについての研究がありました。その研究によりますと。


『金持ちは高飛車で傲慢で、ハッキリ言って性格が悪いイメージがありますが、最近の調査で、これらはただのイメージではないことが証明されました。

カリフォルニア大学バークレー校の調査では、金持ちは貧乏人に比べて他人に対する思いやりが欠けていることが判明したのです。ただし金持ちが生まれつき冷血漢だということではなく、辛い経験をしたことがないので他人が苦しんでいる状態に気付いてあげられないためだということです。

また、カリフォルニア大学が行った違う調査では、高級車を所有するドライバーと、大衆車を所有するドライバーの運転を検証してみました。すると、大方の期待通り、高級車のドライバーは交通ルールを守らない人が多く、割り込みをしたり、歩行者を危険な目に合わせるような運転が多かったそうです。同調査を行ったポール・ピフ氏は、「金持ちは他人よりも自分を優先する傾向があります。だから“性格が悪い”と見られてしまうのです。」と語っています。
 

もちろん全ての金持ちが意地悪なわけではありません。ウォーレン・バフェットやビル・ゲイツのように、チャリティーに莫大なお金を寄付している大金持ちもおり、金持ちも度を越えると人道的になるということを証明してくれています。もし周りに意地悪な金持ちがいたら、「まだ人の痛みがわかるほどのお金持ちではないのだ」と寛大な心で受け入れてあげようではありませんか。』このように結論付けています。


僕の母は、青春時代を名古屋で過ごしました。労働運動の盛んな時代です。メーデーを楽しみにしていた話を幾度となく聞かされました。今日のブログを書き終わるにあたり、ふと母がよく歌っていた赤旗の歌を思い出しました。「富者に媚びて神聖の旗を汚すは誰ぞ。金と地位とに迷いたる卑怯下劣の奴ぞ・・・・・・。」

お金と地位とはいつの時代にあっても魅力的なもののようです。


誰も二人の主人に仕えることは出来ない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた方は、神と富とに仕えることは出来ない。

                     マタイによる福音書6章24
| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
同じ思いをもって
 

 もう6月です。季節の先取りといいましょうか。天気予報で、5月に熱中症に注意してくだいと言う年も近年にはなかったことではないでしょうか。多くの人が認めるように気象か変化していることは事実です。

 6月と言って僕の脳裏に浮かぶ光景は、カタツムリとアジサイの花です。今年は教会の前に3株のアジサイを植えました。成長と開花を待ち望んでいます。僕は子供の頃から花が好きで、学生の頃には植物の勉強に夢中になりました。

 花は何のために咲くのか。それは植物の持った生態であると言うのが学識派の見解でしょう。人に花を贈る。死者の前に花を添える。墓前に花を手向ける。そして自らが見て楽しむ。花のあり方には様々なものがあります。人の心を和ませ、すさんだ心に慰めを与えてくれるのも花であります。



 

 あらゆる人生の場面で人が、また神が僕たちに与えて下さる慰め、それは、日々罪過を重ねて行く愚かな僕達が、このような現実の中にあって、なおかつ生きる力、来世に対する確信と望みを与えるところのこの力、これが聖書の教えているところの慰めです。


僕達は、このような慰めをイエス・キリストの十字架の出来事を通して、お互いに今、豊かに与えられているのです。神はいかなる苦難の中にある時でも僕たちを慰めて下さり、また、僕たち自身も神に慰めて頂くその慰めをもって、あらゆる苦悩や苦難の中にある人々を慰めることが出来るようにして下さるのです。


 僕たちは自分だけが慰められて、ああよかったとか、力を与えられたとか、あるいは希望を持つことが出来るようになった、涙を拭われたと言うそのような自己満足だけではなくて、僕たち自身も神に慰めて頂くその慰めをもって、同じ苦悩の中にある人々を慰めることができるようにしてくださる。ここから、僕たちの新しい人生が生まれてくるのです。


 自分が慰められたその慰めをもって、同じ苦悩の中に、悲しみの中にある人々を慰めなければならない、そのような人々を慰めることが出来るようにされるために、僕たちは苦悩に出会うのではないでしょうか。同情と言う言葉があります。


 同情という言葉は、これは心を一つにするという意味であります。同じ思いになるためには、同じ経験をしなければならないと思うのです。

イエスは神の御子でありながら、人となり虐げられた人々を訪ね、友無き者の友となって、貧しさ、悩み、苦悩を共にして下さいました。そして今も、人の心の内に働かれています。僕達が慰めを受ける時、慰めを必要としている人の身になって、感謝を捧げなければならないと思うのです。その感謝を携えて人に慰めを与えることが出来ますように。



 

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
| 1/1PAGES |