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警告
 昨日からの本当に久しぶりの雨に感謝の気分でした。全国的に見れば、一日で一カ月分の雨が降った地方があれば、渇水で雨乞いの神事を行なった地方もあります。九州ではロッケットを打ち上げ、人工的に雨を降らせたと言うこともありました。

 気象の異変には、人的要素があります。神の定められた天の法則、地の法則に知らずして触れてきた結果でありましょう。因果応報であります。人知を尽くして僅かながらでも世の中の仕組みを軌道修正をしてゆかなければ、人類は破滅に向かうと言っても過言ではないと思います。その最たるものは、温暖化問題であることは予てより多くの科学者たちが警告をして来ました。大量生産大量消費と言う社会は終焉を迎えることになると思います。便利さを追求する時代も、その裏側で何が起こっているかを考えなくてはなりません。


 ひとりひとりの未来に対する思いが社会を変えてゆくことに繋がります。この世は人が台頭していますが、神が創造された物は、人だけではありません。この世のすべては神によって創造されたのです。他の生き物をも守ることも、人に与えられた使命であると考えなければならないのです。



 今日は午前の礼拝の後、午後は協力関係にある教会の礼拝説教にあたりました。礼拝の後、谷の百合キリスト教会の献堂記念にと、会員の方から百合の絵が描かれたキャンバスをいただきました。描かれている百合は、ササユリです。僕が子供の頃は、山野のいたるところにあり、抱えるほどに採って来て飾ったものです。しかしその数は激減しています。山野の荒廃と乱開発、そして野生動物による食害が原因だと僕は思っています。

 ササユリは、種が発芽するまでに
2年かかります。その後、花が咲くまでには8年から10年の歳月がかかるのです。この種も近い将来には、絶滅してしまうことは間違いないと思います。

 地球温暖化をはじめとする様々な環境問題が顕在化し、地球規模での方策を探している今、注目を集めているのが、「環境考古学」と言う学問です。環境考古学とは、気候や植生といった過去の環境を科学的手法で調査して、人間の築いてきた文明や歴史的事実との関係を明らかにしていく研究分野で、何千年も昔の地層から復元する当時の風景、人々の暮らし――その向こうに見えてくるのは、僕たち人間と自然との未来像です。

 確かな未来は、懐かしい過去にあるのです。今の時代を神の警告と受け止め、確かな未来へと向かわなければなりません。


神はお創りになった全ての物をご覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。旧約聖書;創世記1章31
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神の国の完成へ
  今日も灼熱の日でした。しかしながら、ツクツクボウシの声に幾らかの涼しさを感じ、今年の夏も半分は過ぎたなと思うのです。気がつけばこの暑さの中にも、ススキが穂を出し始めています。
 

 8
15日は言うまでもなく終戦記念日でした。僕には90
歳近くになる伯父があります。その叔父は戦争に借り出され、兵役を無事に努めて今なお健在です。戦争に借り出された時、父親から一兵卒ではいつ命を落とさなければならないかわからないので、努めて上級の兵隊になるようにと勧められ憲兵学校へ進み、南方で憲兵としての勤めに就きました。

 そして終戦を迎え、日本への引き上げの船に乗り日本の本土を目の前にして、本土への上陸の許可が出ず、巣鴨プリズンへ送られました。国のために働いて、終戦となれば憲兵は戦犯です。伯父はC級戦犯とされ裁判の結果、無罪となり故郷へと帰還したのでした。ところが戦犯の公職追放令によって就ける仕事がなかったのです。ようよう見つけた職場で
30
年の勤めを終えた後、政治が好きでありましたので、町会議員となりその手腕を十分に発揮し、現役を引退しました。



 昨年の夏のことです。伯父を訪問しました。そうしたところ、僕に見せたい物があると言うのです。何かと思い、仏間に案内され見せて貰ったものは、総理大臣名の入った賞状と記念品でした。何れも戦争にまつわる物でした。終戦から
68年の歳月を経た現在でさえ、我国の内では精神面での戦争は終わっていないのだと感じました。学校では戦争被害者としての日本を教わりましたが、戦争加害者としての日本の姿を教わった記憶はありません。僕が戦争加害者としての日本の姿を知ったのは、10年ほど前のことです。亡き母の同級生である可児力一郎氏著作「寒さに耐えて咲く寒梅のように」を可児さんから頂いたことで、侵略戦争の一端を知ったのです。

 今も世界各地で国同士の対立や内乱、テロとその報復が絶えません。貧困と飢餓、国土の荒廃など争いによって得るものに価値のある物は何一つないのです。人類がある限り、終息することはないと思います。一番の被害者は、社会の底辺を構成する一番数の多い人々です。僕に出来ることは何もありません。平和団体の存在は、尊いものです。そこで働かれている医師や看護師、平和擁護の兵役に就かれている方々を尊敬し、苦労を察します。いつの日にか、国、宗教、民族、言語、性別の壁を乗り越えて、築かれる平和な未来の到来を願ってやみません。


父なる神よ、御名によりて、
世界の民をひつとなし、
地をばあまねく、御国とする、
御誓いをとく果たし給え。

賛美歌 234A-4
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一粒の麦
 

 昨日今日の暑さは、近年にないものでした。僕の家の庭での正午の気温は36℃でした。40℃を超えたところもあるので、この先どこまで気温が上がるのかと心配をしています。

 89日は長崎の原爆記念日でした。それと同時に僕の母方の祖母の命日でもあります。祖母が幼い頃、干ばつが続きダイコンや芋を食べて食を繋いだ話を母から聞いています。

 僕が幼かった頃、祖母の話を聞いて事の善し悪しを随分学んだような気がしています。因みに祖母は木曽の人であり、TVに3回ほど出演し、その一度はNHKで放送していた「ふるさとの歌祭り」と言う番組でした。司会者は宮田輝アナウンサーで、祖母は宮田輝と話をしたと自慢げに話していた様子が目に浮かびます。

 現代では灌漑用水も整備され、農業の技術も進歩しているので、僕達の食はその恩恵に与り食に不自由することはまずないと思います。とは言え、日々食が与えられることに感謝しなければなりません。食の原点は、スーパーマーケットでお金を払って買うものではなく、一粒の種を蒔く事から始るのです。



 宗教の信者でなくても、宗教を布教してきた人々の言葉には学ぶべきものがたくさんあります。
一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにてあらん、もし死なば、多くの実を結ぶべし。」新約聖書『ヨハネによる福音書』12章24節

 この言葉は『新約聖書』からの引用で、イエス・キリストの弟子のひとりであるヨハネが後の信者のために書き記した『ヨハネによる福音書』に残されているイエス・キリストの言葉です。
 キリスト教の教えに従えば、厳密には「一粒の麦」とはイエス・キリスト自身を指しており、イエス・キリストが十字架にかけられ命を落とすことによって、多くの人に愛と永遠の命の救いが与えられると言うことを示した言葉です。

 神の子、イエス・キリストが人の罪のために十字架にかかり命を落とされた。そのことによって人は救いの道へと導かれたのです。神の人に対する愛の印としてのイエス・キリストの死を心に刻み、このことを力に変えて強く雄々しく生きてゆきたいものです。


 信濃の国 http://www.youtube.com/watch?v=V4RLalPSgaQ 
 

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仲立ち
 

 礼拝の日の僕の日課は、礼拝堂前の芝刈りから始ります。今の時期は芝の成長が早く、週に一度は刈り取らなければただの草の生えた庭にしかなりません。そして献花を済ますと一段落です。新しい気持ちで新しい週を迎えることは、何にも代え難い喜びであり、新鮮な思いとなります。

 礼拝で一番神経を使うのが説教です。牧師は皆そうなのかもしれません。説教と言う名の下に、自分の主義主張を語ってはいないかと言う点が見え隠れすることがあってはならないと僕は思っています。僕が浜松市にある教会の会員であった時、夏季伝道実習に来られた神学生がありました。実習も終盤の頃、礼拝に神学生の奨励がありました。その神学生が、後に牧師から注意されたことは、説教にかこつけて自分の主義主張を語ってはいけないと言う事でした。

 このことは、後に教会の週報に、神学生からの御礼の便りとして載せられていた事を覚えています。このことは僕自身にも当てはまることだと思うのです。説教は神の言葉を説く事です。それをないがしろにしてはなりません。


 

 話は変わりますが、僕は会社の部下であった者から、自分の思いを成し遂げるために、偽ってまで上司に媚び陥れられた経験があります。その者の思いは達せられました。怒りを通り越して、あきれ果て言葉がありませんでした。

 聖書が僕達に教える一番大事なことは、僕達は自己中心的存在であり、且つ罪人であると言う事です。罪とは現実的な犯罪行為をも含みますが、神に背を向けることが聖書の教える罪なのです。神の教えに従順に従い、その教えに従って生活を営むことの出来る人は誰一人としていません。ですから僕達は、面と向かって神を仰ぐことが出来ないのです。神の人類に対する最大の目的は、神自らが創造された人類が罪に陥ってしまっている現状からの救いに他なりません。

 そんな僕達をも、ひとりとして滅びることがないようにと神は、神の独り子であるイエス・キリストをこの世に遣わされたのです。このイエス・キリストが神と罪人である僕達の仲立ちをしてくださるのです。そのことによって、僕達は神の恩恵に与ることが出来るのです。

 あすから始る新しい週に新たな思いを抱いて、日々より善き事に勤しむことが出来るように祈りましょう。


 キリスト・イエスは、罪人を救うために世にこらえたと言う言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。新約聖書:テモテへの手紙
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