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黄金三星


 日中は暑いくらいの気温、夜になると少し肌寒ささえ感じるこの頃に、僕の周囲には、風邪を引いてしまったと言う人が何人かあります。春先の雨は、一雨ごとに暖かくなってゆく雨です。そしてこれからの雨は一雨ごとに寒さが増してゆく雨になります。早や10月です。一日でも暖かな日が続くと嬉しい気分になります。そう思うと今日は蝉の声を聞かなかった様に思います。先週まで確かに鳴いていた蝉の声でした。




 時の移ろいと共に生死も神の御手の内にある自然の営みは、神の霊感に触れるようです。日々、命が繋がる不思議、死ななければならない不思議があります。生も死も神の恩寵の中にあります。生について僕達は極当たり前の様に感じています。そう言うより生について考えたことが無いと言ってもよいのかも知れません。命が与えられ、守られていると言う事実を感謝せずにはいられません。苦しみの時、悲しみに浸る時があっても、主イエスは僕達と共にあり、神は死ぬほどの苦しみを与える方ではないことを知らなければなりません。

 死は等しく人に与えられた道です。そして誰にとっても悲しいものです。しかし、人の人生は死で終わることはありません。死は神の国へと入れられるための、人生の通過点なのです。
『私は復活であり命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も死ぬことはない。このことを信じるか。』<ヨハネによる福音書
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 僕は、りんけんバンドと言うグループがあることを予てより知っていました。一度だけ
TVで、りんけんバンドの歌を聴いたのです。その歌が僕の魂を揺すった気がしています。命あることの素晴らしさと感謝をしみじみと知らされた思いでした。沖縄の言葉で歌われているので、標準語ではどんな歌詞になるのかは正確にはわかりませんが、沖縄の言葉で歌われているからこそ良いのだと思います。

 世間ではまた柔道連盟の暴力事件、そして僕が愛してやまない第二の故郷とも言える浜松市の日体高校でも教師による生徒への暴力事件がありました。
命をもって生きていることに喜びと感謝を覚え、誰もが神の愛の内にあることを深く噛みしめて欲しいと思います。誰が強い者、権力のある者に、弱い立場の者を痛めつける権利を与えたか。神にあらず、人の思い上がりに他なりません。平和の神が臨まれますように。

 http://www.youtube.com/watch?v=hMEwXRLyYKc 

 黄金三星

 

 

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過去にある未来のかたち

 

 朝晩はめっきり涼しくなりました。しかし日中はいまだに蝉の声を聞いています。ツクツクホウシにミンミンゼミ。蝉がこの時期にまで鳴いていたのかどうか、過去の記憶はありません。暑さ寒さも彼岸までと言われますが、この夏の残暑もそろそろ終盤に入ってきたようです。

 今日は、最後のブドウの収穫を終えました。毎年ブドウの収穫を終えると、また来年も母にブドウを食べさせることが出来るだろうかと思ったものです。最後のブドウの収穫と言っても品種はデラウェアです。この後には晩生のスチューベンの収穫が控えています。収穫と言う言葉を使うほどのものではありません。園芸好きな僕の趣味の一つです。春に種を蒔き、収穫の時期になったことに、神への感謝の心をもって生きる糧としなければなりません。全てのものは、神から与えられるものであるからです。僕達は、神から与えられたものを育て管理することを担わされているのです。粗末な扱いをすれば、その分の取り分を神は減れせられます。丹精込めて育てれば、より多くの収穫を与えて下さいます。人の命を繋ぐものを粗末にしてはなりません。しかし人が命を繋ぐ道は、食糧だけには因らないのです。新約聖書のマタイによる福音書にはこの様に記されています。
『人はパンのみによって生きるのではない。神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きるのである。』


 

 人の言葉は、人を生かしも殺しもします。人の言葉は、形なき凶器と化す事があるのです。昨今、マスコミが報道する青少年の虐めによる自殺ほど、心を痛める問題はありません。虐めをなくすためにどうしたら良いのか。学校でアンケートをとっても効果はないと言える、僕はそう考えています。僕には具体的な事例を挙げることは出来ませんが、社会が変わること。この社会を動かしている大人が変わることが、この問題の解決の糸口になると思っています。以前にも記しました。僕達の未来は、この国の未来は過去にあるのです。亡くして来たもの、失ってしまったものを捜して取り戻すことは、決して出来ないことではないと思います。それには欲を捨てなければなりません。欲の行き着く先は、死です。聖書はこの様に教えています。

 聖書の言葉に聞き従うことが出来るでしょうか。それは出来ません。しかし、聖書の教えに聞き従い、神の救いに与りたいと願う日々の繰り返しです。人は聖書の教えに聞き従うことは出来ませんが、神の側から一方ならぬ恩恵を僕達は受けているのです。『神は、その独り子を遣わすほどに世を愛された。それはキリストを信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠の命を得るためである。』ヨハネによる福音書は、この様に神の救いの業を僕達に教えています。この神の愛の印を全ての人が受け入れることが出来ることを祈り願ってやみません。

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御蔭に身を寄せる
 

 僕が子供の頃は、今日915日は敬老の日で祝日でした。その意味がどうあれ学校が休みであることが嬉しかった記憶があります。僕も年を重ねた今、僕より若い人口の方が明らかに多いことを思い知らされます。年を重ねただけの人間的価値があるのだろうかと自問自答することも少なくはありません。

 ヨブ記の中にヨブの友人であるエリフと言う人物が登場します。そのエリフがヨブに語った言葉が、重く圧し掛かるようです。『私は若く、あなた方は年寄りだ。だから脇に控えて遠慮し、あなた方に私の意見を述べなかった。私は思った。日を重ねた者が語り、年の多い者が知恵を教えると。しかし、人の中には確かに霊がある。全能者の息が人に悟りを与える。年長者が知恵深いわけではない。老人が道理をわきまえるわけでもない。』




 


 子供は子供らしくその知恵によって物事を語ります。しかし、人は社会の中で成長し、いつまでも同じ考えや行いを継続することはありません。年相応の知恵と悟りによって、言動を表し後進を育てる努めがあると僕は思います。ですから年を重ねた者が軽々しく振舞うことは、軽率であると言われても仕方がないです。

 自分の敵は、自分の心の中に潜んでいます。そのさいたるものは金銭欲と権力欲であると思います。これほど見苦しいものはありません。金を追うものは金に追われます。権力を欲する者は、権力によって打ちのめされるでしょう。人は自我を捨てきることは出来ません。人は自ら、それが正しいものなのか、悪いものなのかを判断する力量が備わっているとは言えません。創造者である神のみが裁かれ、終わりの日に明らかになります。

 しかし、恐れることはありません。キリストを主であると告白し、キリストに従おうと決心した者は、キリストの愛の故に、その御蔭に身を寄せることが出来るのです。これこそ福音と言わなければ何と言うのでしょうか。

 話は変わりますが、昨日は西武ドームへ野球観戦に行って来ました。帰りの電車の都合で、試合を最後まで観戦することは出来ませんでしたが、西武は破れました。久々の電車の旅と野球観戦に少しばかり気を良くしています。僕はそんな程度の者なのです。

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他人の事はよくわかる。
 

 明日は重陽の節句。また一年の月日が巡ってきました。月日の流れの早さを身に感じます。僕が最初に教会を訪ねたのが、重陽の節句の日で、日曜日でした。30余年前の話です。

 当時その教会、夕礼拝が習慣になっていました。午後7時前、教会を再度訪ねると、和服を召した上品な年配の女性の方が、『ようこそいらっしゃいました。』と出迎えてくれました。隣の席に座っていただき、賛美歌、聖書の箇所を丁寧に教えてくださったことを良く覚えています。

 礼拝に訪れた方の中に、僕が子供の頃からよく知り、亡き父の代からお付き合いのある方があり驚きでした。あのおじさんも信徒だったのだと。そのおじさんは昨年、天に召されましたが、奥さんとは今も交わりを持たせて頂いています。当時は、食事に招いていただいたり、屋根の修繕の手伝いを頼まれたりと思い返してみれば、様々な思い出があります。



 さて、僕のブログですが、書籍化することが出来るサービスがあります。もちろん有料サービスですが。僕の教会の献堂記念にと先般頂いた、百合の花の絵を描いて下さった方への御礼にと思い、
2年分を本にしました。書くときは間違いないと自身を持って文字変換をしているのですが、出来上がった本に目を通してみると、誤字の多さに驚きました。このブログを読んで下さっている方の中にも、それに気付かれている方は多いことだろうと、少しばかり恥ずかしい思いに浸りました。

 本の誤字は、僕の持っているテプラに書体が似たものがありましたので、テプラを使い全て修正をかけました。事前によくよく確認して校正をしなければならないと反省しています。説教の参考にと他の牧師が、どのような説教を書いているかをネットで読むことがあります。そう言う時、他人の間違いには良く気がつくのです。自分の間違いには気付かなくても、人の間違いには気がつく。自己弁護ではありませんが、人間とはそう言う身勝手とも言えることがあるものです


 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある丸太に気付かないのか。兄弟に向かって『あなたの目からおが屑を取らせてください。』とどうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。<マタイによる福音書
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十戒
 

 月の初めと週の初めが同日になった今日は、きりが良いような気分の日でした。防災の日として、各地地域で様々な防災訓練が催されました。このことでいつも思うことは、災害が発生した時の集合場所についてのことです。果たしてその場所が本当に安全な場所なのかどうかと言うことです。被災者を受け入れる拠点病院も、その時になって機能するかどうかと言う疑問があります。東日本震災を教訓に見直し学ぶべき事柄は尽きないと思います。

 今日は夕礼拝の日になっておりましたので、礼拝の前に畑に行ってスイカを収穫しようと出かけたのです。そうしたところ、一昨日まで有った
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個ばかりのスイカは全て無くなっていました。おそらくハクビシンと言われる動物による食害です。隣家の畑では、スイカ、トウモロコシの全てをサルに食べられてしまったそうです。

 春に種を蒔き、作付けをして丹精込めて育てた作物が、収穫の時期になって動物に食べられてしますということは、なんとも言いようのない情けないような、悔しいような、一言では言い表すことの出来ないものです。山野の荒廃で動物の食物が少なくなってきている現状があることは承知しています。こうなったのも元を辿れば、人間の関与を否定することは出来ません。


 

 そんなことを考えながら、モーセの十戒を思い起こしました。十戒とは、
モーセから与えられたとされる10項目の戒め
のことです。十戒の内容は神の意思が記されたものであり、モーセが十戒そのものを考え出し、自らあるいは他者に記させたものではありません。モーセの十戒とも呼ばれる十戒は、二枚の石板からなっています。二度神から渡されており、最初にモーセが受け取ったものはモーセ自身が叩き割っています。

 スイカをハクビシンに食べられてしまったことで、思い起こした十戒のうちの一つは、『あなたは、盗んではならない。』と言う戒めの言葉ででした。十戒には奥の深い意味がありますが、人としての基本であるとも言えます。ただ、これは神が与えたものであって、旧家に残っているような家訓と言うものとは意味を異にし、比較の対象ではありません。

1.私はあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したものである。あなたは私のほかに、何者をも神としてはならない。

2.あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水の中にあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。

3.あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない。

4.安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日の間、働いてあなたの全ての業をせよ。

あなたもあなたの息子、娘、僕、婢、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人々もそうである。 あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを忘れてはならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられたのである。

5.あなたの父と母とを敬え。これはあなたの神、主が賜る地で、あなたが長く生きるためである。

6.あなたは殺してはならない。

7.あなたは姦淫してはならない。

8.あなたは盗んではならない。

9.あなたは隣人について偽証してはならない。

10.あなたは隣人の家をむさぼってはならない。


 人はこの戒めを守ることが出来るでしょうか。夏野菜の収穫も終盤を迎えました。また、畑を耕し今冬から来春にかけての準備を始めます。
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