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活きて働かれる神
  2週に亘り続いた大きな台風もこの地方への影響はなく、通過してゆきました。伊豆大島では甚大な自害を被り今でも行方不明者の捜索が続いているそうで、亡くなられて方へのお見舞いと捜索をされている方々へのご苦労を察します。
 
 2年ぶりに風邪を引いてしまいました。健康には日ごろから気をつけているのですが、これだけは仕方がありません。早速昨日、病院へ行き薬を貰い、注射をうってもらいました。そのお蔭で随分楽になりました。そうでなかったら今日の礼拝は、悲惨なものになっていたかもしれないと思うと、なんとも医者とはありがたいものだと感謝しています。


 
 
 新約聖書の福音書にはイエスが、盲人の目を開き、足の不自由な人の足を癒したりと、病人を癒された記事が多く記されています。また、四人の男たちが、中風の友を癒してもらおうと戸板に載せてイエスのおられる家に運んできました。中風と言うのは中気とも言いますが、脳卒中などで体が麻痺してしまった人の事です。ところが中にも、外にも、大勢の人々があふれていたので、とても中まで連れて行くことができません。そこで彼らは一計を案じ、その家の屋根に上ると屋根をはがし、天井から戸板に寝ている友を吊りおろして、イエスの前に運んだと言う記事が記されています。


 何とも大胆不敵な行動に思えます。イエスもさぞかし驚かれたでありましょう。天井を見上げると、ぽっかりと空いた穴から心配そうに覗き込んでいる4人の男たちがいます。イエスは彼らを見て、その奥底にある信仰をご覧になったと言います。そして、中風の人に目を向けられ、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われたのでした。そして中風は癒されたのでした。別の箇所では、「あなたの信仰が、あなたを救った。」とも言われています。
 

 疑いの心をもって、治らなくてもともとだと言う気持ちで、イエスにより頼むのであったとしたら、癒しはなかったと言えます。これらの記事を通して重要なことは、真心から真剣に、イエスにより頼む心。つまり信仰であります。神は今も活きて働かれ、僕達を救いの道へと誘っていて下さることは、間違いのないことであり、信じるに足りることです
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短絡的思考
  天気予報によると今日と明日は雨になっていましたが、今朝ほんの少しのお湿り程度の雨で終わりました。これからの雨は、ひとさめごとに寒くなるので身にこたえます。
 木々は葉を落とし始め、乗鞍岳では初冠雪がありました。晩秋から初冬へと時期は移ろい始めました。少し冷え込んだ夜には、暖房が欲しいと思うときもあります。この先の半年後、NHKの連続ドラマ小説「ごちそうさま」が終わる頃には、春が訪れるでしょう。
 
 日々、事件がない日はありません。マスコミは毎日のように、事件を報道しています。金銭横領、脱税、暴力、殺人、強盗とありとあらゆる悪が、ひとの心にはびこってしまっているかのようです。ことに殺人事件には心が痛みます。先週も交流サイトで知り合ったと言う二人の別れ話から、女子高校生が殺されると言う事件がありました。インターネットは、使う側として大変便利なものです。それを利用して僕も、この様にブログを掲載しているわけです。ですからインターネットを否定する心つもりは全くありません。


 
 
 と人の関係が希薄になり、面と向かっての人との付き合い方が不器用になってきていると感じるのです。僕もそのうちの一人です。これに対して、交流サイトなどは、いわば夢見る世界と言えると思います。直接面と向かって会話をしたり、相手の表情から感情を汲み取ったりすることが出来ないのです。嘘を通すことも出来ます。子羊の仮面をかぶった狼になることが出来るのです。こう言うところが交流サイトの危険視される由縁であると思います。もちろん真面目に利用している人が、数知れないほど居ることも間違いのないことであるとは思います。

 
 人の命を殺めることは、最大の罪です。この世では償いの方法はないと思います。厳しく言えば、死には死を以って償うしかないのです。殺人の理由を見ると、短絡的理由によるものが非常に多い傾向にあります。自己中心的思考、自分の中で夢を膨らませて、その夢が破れたとき。

 社会の中にあるあらゆるものを、自分を高めるために、それによって自らが社会に貢献できるように使うようにと取捨選択が出来る能力を培う人でなくてはならないと思います。それには、幼い時から受ける教育が必要です。

 旧約聖書の申命記にモーセの十戒が記されています。その第6戒に、『あなたは殺してはならない。』と言う戒めがあります。ただ、神の戒めにも情状酌量とでも言えるものがあります。それは旧約聖書で、ユダヤ人の領土に設置するよう神から定められた、過失で殺人を犯してしまった人が復讐から逃れて安全に住むことを保証された町のことです。これを逃れの町と言います。
 
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心遣い
 夜の虫の声がだんだんと少なくなってきているような気がするこの頃です。そう言う時期にさしかかったのかもしれません。

 最近、フォレスタと言う歌のグループを知りました。おそらく声楽を学んだ人たちのグリープであると思います。その美しいハーモニーに心が和むような思いで、気に入った曲を聴いています。
 フォレスタと言う言葉は、僕の記憶が正しければ「森」を意味する言葉であると思います。スポーツにしろ音楽、落語、芸など、人に喜びと感動を与えることが出来ると言うことは、並大抵のことではないと思います。




 僕の礼拝の祝祷は、「愛する兄弟姉妹たち今日の恵みを携えて、この御堂を後にしましょう。」と言う言葉を最初に述べます。今日の説教で神からの恵を心の内に汲み取っていただけたかどうか。いつもこの言葉の後に、僕の胸の内に割り切れないものが残るのです。しかしそうであって欲しいと願ってやみません。

 
3日ほど前、岐阜で仕事があり、出かけました。会場は、岐阜県庁の近隣であると地図で確認をしたものの、なかなか行き着くことが出来ませんでした。僕の車には今の時代には当然となったカーナビが付いていますが、滅多に使うことがないので、カーナビを使って行こうと目的地を設定したものの、的外れの繰り返しで結局設定できず、地図を頼りにした訳です。

 岐阜県庁の近くに着いたのが、昼頃でした。おそらく県庁の職員であると思います。ちょうど昼食に出かけると見える青年が横断歩道で信号が変わるのを待っていたので、そこで車を止め、「ここへ行きたいのですが、この近くですか。」と尋ねたところ、親切に丁寧に教えて下さいました。

 お礼の言葉を言い、車へと向かう僕の背後から「お気をつけて。」と言う一言が耳に入ったのです。道を聞いてよかったと言う思いと感謝の思い、そして人の心の温かさに触れた思いでした。何気ない一言が人の心をほぐしてくれる。言葉にはそんな力があるのです。

 人は誰かにしてもらうこと、自分を思ってくれていると感じることが喜びなのです。だからきっと、一人ひとりがそんなふうに自分の心地よさ、自分の利益を求めることから自由になり、たえず誰かのことを思えれば、きっと世界の住み心地は格段に良くなるだろうと思います。


だから、人にしてもらいたいと思うことは、あなた方も人にしなさい。これこそ律法と預言者である。(マタイによる福音書
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 http://www.youtube.com/watch?v=Emt8CpRDYlg:島崎藤村・椰子の実
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世界聖餐日に寄せて
  僕の子供の頃のこと10月5日は、町にある坂下神社の祭りの日でした。現在では、10月第2週の日曜日が祭りの日に変わっています。伝承によりますと、坂下神社の創建年代は不明ですが、中世には旭将軍と称された源義仲が厚い信仰を寄せたことで知られている由緒ある神社であるそうです。
 

 源義仲は出陣の時には、必ず現在の長野県南木曽町の妻籠の領首であった樋口氏によって、木曽川を船で渡り坂下神社に代参させ武運長久を祈願していました。平家追討の時、木曽川があいにく氾濫しており渡舟できませんでした。そこで、献策を用いて嚆矢を射て、対岸にいた坂下下組地区の庄屋によって代参したことが、この祭りの起源であるそうです。



 

 時は中秋、はや10月です。随分久しく僕の脳裏からは消えうせそうになっていましたが、思ってみれば秋には様々な修飾語がつきます。先ずは収穫の秋、食欲の秋、芸術の秋、読書の秋など。僕の知る限りでは他の季節には、このような表現はないと思います。それだけ気候が良いと言う事なのでしょうか。

 さて、キリスト教会では、10月の第1週の日曜日を世界聖餐日と定めています。
世界聖餐日とは。世界中のキリスト信徒が教派教団をを超えて心をひとつにし、イエス・キリストの十字架と救いに思いをはせ、キリストにあってひとつであることを確認し、聖餐式にあずかるもので、キリスト教会にとっては世界規模の大変重要な日のひとつであります。

 ことの起源は、世界が戦争の深みへと進んでゆく中で、
1940年にアメリカの北米キリスト教教会連盟によって「全世界のキリスト教会がそれぞれの教会で主の聖餐式をまもり、国境、人種の差別を越えて、あらゆるキリスト教信徒がキリストの恩恵において一つであるとの自覚を新たにする日」として提唱されたものです。これが戦後、世界教会協議会で推奨され、日本キリスト教協議会を通じて日本の教会にも広がりました。異なる文化・経済・政治の状況にあってなお、世界の教会がキリストの体と血を分かち合うことを通し、主にあって一つであることを自覚し、お互いが抱える課題を担い合う決意を新たにする日です。

 聖餐式の制定は、
新約聖書に記されています。イエスがローマの総督に引き渡される前夜に、弟子たちと最後の食事を共にし、自分の記念としてこの食事を行うよう命じたのです。これが「最後の晩餐」と言われるもので、ミケランジェロの作品に、イエスを中心に、弟子たちが左右に描かれている物があります。文字通り「最後の晩餐」と言う名が付いています。聖書によればイエスはパンを取り、「これが私の体である」と言い、また杯を取り「これが私の血である」と言って弟子たちに与えました。この後、イエスは捕らえられ十字架にかけられるのです

 私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、私の血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです。(新約聖書:コリントの信徒への手紙112325

 谷の百合キリスト教会は、毎月第一日曜日聖餐式を行なっています。僕は、説教は目に見えない神の恵みであり、聖餐式は、目に見える神の恵と位置づけています。そして明日は、世界聖餐日です。神の救い、恵みと慰め、そして平和と未来への希望が、世界中の人に分け与えられることを祈ります。
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