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この世を照らすまことの光
  今日は、もう冬と言ってもいい日でした。少しばかり雪が舞いました。今年もあとひと月を残すだけになり、このひと月が慌しいのです。しかし、冬至の頃には日長が伸びて来るので、寒くても日の長さに安堵するような気がします。やはり、光には力があります。
ヨハネによる福音書には、『私は世の光である。』と記されています。
 
 教会暦は、今週で一年が終わります。来週の日曜日からは教会の新年になります。クリスマスの直前の日曜日から数えた4週間を待降節(降臨節;アドベント)と言い、キリストの降誕を迎える準備をする期間にあたります。
 アドベントクランツと言う物を作り、4本の蝋燭を立てて、待降節の1週を迎えるごとに蝋燭に火を灯してゆきます。待降節第一主日には、1本目の蝋燭に。第二主日には、2本の目の蝋燭にと、灯す蝋燭の本数が増えてゆきます。今日は待降節を迎えるためにアドベントクランツを造り、礼拝堂の献花台の上に置きました。しばらく献花台は、アドベンツクランツの置き場になります。




 恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである。<ルカによる福音書2章10〜11>
 
教会は聖書を信仰の拠り所としています。しかし、イエス・キリストが12月25日に生まれたと言うことは、聖書のどこにも記されていません。ではどうして、12月25日をクリスマスと定めたのでしょうか。これには諸説あります。そしてこの日にこだわることはないと僕は考えています。教会の伝統として12月25日をクリスマスとし救世主である、イエス・キリストの降誕を祝ってきたと言うことが回答となると思います。

 駄目なものは駄目、絶望的な状況は何も変わらないと、全てに心を閉ざし、日々の生活の中の小さな命の営みにすらも心を閉じてしまうのか。あるいは、神が支え導いて下さることを信じ、改めて命の営みに踏み出して生きるのか。イエス・キリストは、僕達に呼びかけられています。僕達に人としてのあるべき姿を、神の子でありながら人として生まれ自らを低くされ、貧しさ、苦悩、嘆き、悲しみを僕達と共にして示して下さるイエス・キリストの降誕を喜びに喜びを重ねて祝いたいと思います。


 
 
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収穫感謝祭
以前に紹介いたしました、混声合唱グループ「フォレスタ」の名古屋公演があるのを知ったので、チケットを手に入れようと試みましたが、名古屋公演は既に完売となっていました。また機会があることだと思っています。
 
 庭先にソーラーライトを置いているのですが、消灯する時間が早くなってきました。陽射しが弱く充分な充電が出来ないのだろうと、ソーラーライトにも季節の移ろいを感じています。畑の作物は、ほとんどの物の収穫が終わりました。そして、来春に向けての苗が育っています。今年一年も畑から、多くの収穫を得ました。神への感謝を捧げます。『地よりパンを出だしたる神の御名は、ほむべきかな。』

 


 1124日、今年はこの日が収穫感謝祭になりました。サンクスギビングデーとも言います。与えられた物に感謝を捧げる日です。
 アメリカにおける収穫感謝祭の由来は、17世紀のイギリスの清教徒たちによる、大陸移住の時に遡ります。彼らが苦境の中にいたときに、ネイティブアメリカンの人々が彼らの生活を助けました。そして、収穫物が与えられたことを感謝するために、ネイティブアメリカンの人たちを招いてお祝いをしたことが、この祭りの始まりです。

 しかし、実は聖書の中に、収穫祭のことが記されています。主がモーセにこう仰せになりました。「また、あなたが畑に種を蒔いて得た勤労の初穂の刈り入れの祭りと、年の終わりには、あなたの勤労の実を畑から取り入れる収穫祭を行なわなければならない。(出エジプト記23章16節)」

 神は、荒野の中にいたイスラエルの民に、乳と蜜の流れる土地を与えると約束され、そして、その収穫物をもって主に対して祭りを持つことを命令されました。春には、大麦の収穫時期に、初穂の祭りを行ないます。そしてその50日後には、小麦の収穫があり五旬節を祝います。

そして秋になると、ぶどうやオリーブ、いちじくなどの実を取ります。その後に、「仮庵の祭り」とも呼ばれている収穫祭を持ちます。こうして、イスラエルの民は、約束の地で主が収穫をもたらしてくださることを認め、主に感謝をささげ、喜び祝ったのです。
 
食は、命を繋ぐ源泉です。店に行ってお金を払って買う前に、野菜、果実、穀物を育てた人々の苦労を思い、粗末には扱えないことを心するべきであると僕は思います。それは、人を介して、神が与えられた物だからであります。
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ほんの気持ち
 天気予報どおり、午後からは少しばかり雨が降りました。この雨で、また寒くなるのだろうなと思いつつ仕事をしていました。氷雨ですね。
 昨日は、障子の張替えを行い、こたつを出し、少しずつ冬の訪れに間に合うように冬支度を始めています。光陰矢のごとしと言いますが、はや11月も半ばを過ぎました。思い返してみれば去年の今頃は、子供の頃からお世話になった兄弟が、神の御許に召されて早や一年となるのです。一年前も今年のように、天候がすっきりしない日が続いていました。
 過去に思いを馳せることも悪いことではありません。しかし、今年の残された日々のうちに、今年一年の清算をしなければならないと僕は思っています。

 




 僕の住む町の隣り町に、中華料理店があります。いつ開店したのか僕にはわかりませんが、中国人が取り仕切って営業しています。そう言う店がここ界隈に4件ほどあります。
僕の好物の中華料理は、酢豚です。ですから時々その店に行って、酢豚定食を注文するのですが、量の多さとそのおいしいことに、これこそ本場の酢豚なのかと感動です。
他にある店にも足を運んだことがありますが、そこでも酢豚を注文して食べてきました。その店も量の多さに驚愕です。一人前注文すれば二人で食べても充分にお腹を満たすことが出来る量です。そしてもうひとつの驚きは、どの店も値段が安いことです。日本人が営んでいる中華料理店で同じ物を注文したとしたら、25%増し位の会計になると思います。
 
さて、お腹を満たして少しばかり休んでいると、注文をしていないコーヒーが運ばれてきます。値段の中に織り込み済みと言ってしまえばそれ以上、何も言うことが出来ません。
レジはきまって、店の奥さんの仕事のようです。見たからに良く働く奥さんと言う雰囲気が伝わってきます。酢豚定食は980円です。僕はいつも千円札で会計をするのですが、お釣りは、大抵50円です。つまり30円おまけして下さるわけです。今の時代、そう言う店はまず無いと言って間違いないと思います。
 
何もかもがきっちりと清算されなければならないような、機械的な社会の中にあって、僕は30円もうかって嬉しいと言うわけではありません。30円引いて下さった店の奥さんの気持ちが嬉しいのです。古き時代にあった人に対する“ほんの気持ち”と言う事がもはやなくなってしまったと思っていたら、中国人から“ほんの気持ち”を頂いたのです。“ほんの気持ち”には心のふれあいが伴うように思います。大切にしたいことのひとこまでした。

 
 コンビニに入ると、「こんにちは、いらっしゃいませ」。と張りのある声で迎えてくれるのですが、おそらくこれは、マニュアル化された接客態度のひとつだろうと言わば冷たい目で見てしまうのは僕だけでしょうか。良い印象を受けることは間違いないことですが、これは“本の気持ちと”質を異にするものですね。
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冬景色
 今朝はこの秋、一番の冷え込みになったとニュースが伝えていました。確かにその通り、僕の町では、最低気温が−1度となりました。昨日まで会堂の前の花壇に咲き、目を楽しませてくれていた花の半分は、今朝の霜にあたり、夕方には黒く変色してしまいました。


花壇の花は残念ですが、昨日の天気予報で、冷え込みがあると言う事を聞いていたので、屋外に出していたデンドロビウムを部屋の中に入れておいて良かったと思っています。この一年、丹精込めて育てたデンドロビウムですから、怠慢から霜にあててしまうわけにはゆきません。デンドロビウムの難しいところは、霜が降りる寸前まで寒さにあてないと花芽がつかないと言うことがあるのです。花が咲くのは、来年の3月頃になると思います。



 


 今朝の霜にあたり、黒くなってしまった花は、元には戻りません。新しい芽が出ることもありません。近いうちに、枯れるのを待つだけです。昨日まで楽しませてくれた花、今日には、黒くなり花を傷め、枯れ果てるのは間違いのない事実です。夕方その花の姿を見て、なんとはかないものかと思いました。人生にも譬えることが出来ます。中国の諺に、紅顔の美少年、夕には骨になると言う言葉があります。人の生涯のはかなさを意味する物であろうと思います。


 
 しかし、人生はこの様にはかないものなのでしょうか。意義ある人生をおくるには、どのような生き方があるのでしょうか。新約聖書のマタイによる福音書に、イエスが語られた言葉がこのように記されています。


  野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花のひとつほどに着飾っていなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。ましてあなた達には尚更のことではないか。
 

 イエスを信じる者が何を必要としているかは、神が全て知っておられます。イエスの名によって、神に願い求める物は全て与えられるのです。それは、人が人として本来の姿を取り戻し、地の塵から人を創られた神の名が讃えられるためであります。ただし欲望から望む事については、悲惨への道が拓かれています。神は人をはかないものとしては創られませんでした。
 
 イエスの使徒となったパウロと言う人は、人を土の器と言っています。もろく壊れ易い物です。しかしその器の中には、神を愛し、人を愛する心と言うものが満ちているのです。
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美を求める心

 今年も残すところ、2ヶ月余り。この2ヶ月が慌しくなる時期で、僕は好きな時期ではありません。年賀状、お歳暮、クリスマス、そして新年を迎える支度。僕が忙しいと言うより、世間の慌しさに便乗してしまっている僕がいるようです。そういえば、余り寒くならないうちに、障子を張り替えなくてはなりません。今は簡単に張替えできる障子紙が売られているので便利になりました。
 
 最近のニュースでは、大手の有名ホテルで、食材の表示偽装が明るみになりました。『嘘をついてはなりません。』と子供の頃によく言われてことは誰もが経験したことであると思います。しかし、大の大人がこの有様では、とても子供の教育など出来るはずがないと思います。ある会社の標語に、『そのことを家族に話せますか。』と言うものがありました。話せるはずがありません。このような標語が存在する限り、社会は変わらないでしょう。

僕の町の国道端には、『大人が変われば、子供も変わる。』と言う標語が記された看板が立てられているところがあります。ところで、偽装された食材をそのものと信じて食べた方々に、その食材の味はどうでしたかと問うて見たい気がしています
 



 今日もブログ用にと、日中に野の花を捜してみました。やはり時期的に無理でした。物を見て美しいと感じる心は人によって違いがあります。ある面においては、感覚の違いはなくてはならないものであると思います。そうでないと皆が間違った方向に進んでしまうかも知れないからです。今日のブログの画像は、ナデシコになりました。もちろん人の手が加わった園芸種です。礼拝堂の前に花壇を作り、そこに植えたナデシコに、ただ一輪の花が咲いていたのです。
 
 以前に、フォレスタと言うグループをブログに書いたことがあります。今日も時間を見ながら、歌を聴いていたのですが、唱歌から、歌謡曲まで幅の広い歌を聞かせてくれます。そして演奏はと言えば、ピアノだけです。誠の美しさと言うものは、素朴さの中にあるもののように感じました。美への感覚も人によって違いがあります。また、全く興味を示さない人もいることは事実です。
 
 殺伐とした社会の中で、人の心も曇ってきてしまっています。せめて心だけは日々磨きをかけて、正しいものが正しく見える。間違ったものが間違って見えるようにと鍛錬をしなければならないと僕は思います。豪華絢爛なものが美しいとは誰もが思うことでしょう。
素朴さの中の美しさは、おそらくそれに優ると思います。

 

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