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振り返ってみると
 今年も残すところは3日間となりました。僕の、この一年を振り返ってみると、何と言って特別なことはなく、不完全燃焼を繰り返してきたような気がします。そのような中でも、礼拝堂が整えられたことは大きな喜びであり、神に感謝します。バーチャル的教会と呼ばれ、礼拝堂のことを考えつつも構想が浮かばなかった現実があります。しかし、神は様々な手を用いて礼拝堂を整える心と決断を僕に与えてくださいました。この礼拝堂が豊かに用いられることを願ってやみません。しかし、開拓伝道は本当に厳しい道程の上にあります。
 



 年の瀬はこの一年を振り返る良い機会です。ただ、振り返るだけでは意味がないものだと僕は考えます。振り返った後に何かを残し、来る年への踏み台にして、もう一歩先に踏み出す勇気と気力がなければ、反省と言う事で終わるのです。ここに微妙な意味の違いがあります。
 新しく始まる年に期待をしてはいけません。神の御胸をとらえつつ御霊の神に導きを願い、自らが自らに働きかけることが、実りある人生に導かれるのです。自らへの妥協は、神への背信行為とみなされるでしょう。
 
 今年のブログは今回で最後となりました。新しい年が神の祝福のうちにあることをお祈りいたします。
 
 
主があなたを祝福し、守れられますように。
 主が御顔をあなたに照らし、恵まれますように。
 主が御顔をあなたに向け、平安を賜りますように。
           旧約聖書民数紀624-26
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光のクリスマス
 今日の教会暦は降誕節第四主日です。アドベントクランツの四本の蝋燭全てに火が灯りました。いまやクリスマスは、信仰の有無に関わらず知らないと言う人はおそらくいない国民的年中行事のひとつになったと言っても良いと思います。
 クリスマスは、1225日の降誕祭一日だけのものではありません。1225日に直前の4週間前の日曜日に始り、16日の公現日までの間が教会のクリスマスの期間です。公現日と言うのは、聖書の記事によりますと、東方の3人の占星術の博士たちが、明るくか輝く星に導かれて、黄金、乳香、没薬と言った大変高価な贈り物を携えて、ベツレヘムの町でお生れになったキリストを訪ねる旅をして、キリストにお会いになった日を言うものです。

 最初にキリストにお会いになったのは、ユダヤ人ではなく、東方の占星術の博士たちと言う異教徒だったのです。当時のユダヤの王であるヘロデも学者達もこのことは知りませんでした。キリストは、この世を照らすまことの光としてお生れになったのです。しかし、暗闇は光を理解しなかったのです。あえて言えば理解しようとしなかったのであります。キリストの誕生は、天地創造以来の天地がひっくり返るような出来事でありました。

 



 さて、あえて言うまでもなく、神と人間との間には大きな隔たりがあります。しかし、浅ましい人間は、神のようになりたいと言う思いを持っていました。エデンの園で、アダムとエバが、神が食べてはならないと言われた禁断の木の実を口にしました。また、天にまで届くバベルの塔を建てようとしたのも、浅ましさからです。これらのことは神への背信であり、神はその様な人間の心を打ち砕かれました。
 
 神は預言者を遣わして、神と人間とは違うのだと言うことを、示し続けられてこられました。これが旧約聖書の歴史です。
神と人間とは間違っても交じり合うことはありません。神と人間とは別の者あり、神の側でもきちんと一線を引いておられました。しかしこれは、2000年前までの話です。
 
キリストは、神を私たちに身近にして下さいました。また人間の苦しみも悲しみも、みな知り尽くしておられるのです
 
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」<ヨハネによる福音書4章15>
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喜びに喜びを
 昨夜から雪となり、朝までには1センチ程度の積雪となっていました。この冬、一番の冷え込みです。自然の営みの中では、このような寒さも無ければならないし、暑さも無ければなりません。寒さは生き物にとって暫しの休眠の時です。逆に暑さの生き物は躍動の時です。
 おそらく誰もそうでしょうけれど、僕は冬の時期は苦手です。だからと言って休眠をするわけにはゆきません。冬には良い思い出が余りないのです。交通事故、失業、骨折など痛い思いをして来ました。
 
 今夜は、夕礼拝を執り行いました。アドベントクランツの3本目の蝋燭に火が灯りました。静かに揺らめく蝋燭の炎を見ていると、心静かな落ち着いた気分になります。神様が与えてくださる至福の時なのかもしれません。イエス・キリストの降誕を待ち続けてきた2000年前に暮らしていた人々の心境に思いを巡らし、キリストの降誕の知らせにどれほどの人が喜びを感じ、歓喜に沸いたかを福音書から垣間見ることが出来ます。特にヨハネによる福音書1章は、その顕著なものなのだと僕は思っています。この世を照らす真の光が世に来たのです。


 キリストを知らずワイワイと賑わう街、キリスト不在のクリスマス。悪くはないとは思います。しかし、キリストを知った時、その喜びはより一層大きな喜びとなるのです。キリストによる喜びは、この世にあるときも、この世を去る時にも変わりなく永遠に続くのです。

 

 

 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
 
 ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
 
 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。
 
 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。 ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。
 
 わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。 律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。
 神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。<ヨハネによる福音書1118
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アクセス

教会所在地  岐阜県中津川市坂下1031番地1
電話&FAX  050-3791-3644 (0573-75-4472)

中央西線JR坂下駅より下呂方面または、夕森方面バスにて10分 島井田(しまいでん)下車 徒歩10分
中央西線JR坂下駅より自動車で約10分 徒歩にて約1時間(4Km)

周囲は山ばかりです。道路際に教会の礼拝案内看板と教会壁面の十字架が目印です。
所在地入力によりカーナビで案内可能です。

 


☆地図で確認 http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?lat=35.59781418&lon=137.50759673&ac=21206&az=38.1031.1&z=16&id=&fa=pa&ei=utf8&p=%E5%B2%90%E9%98%9C%E7%9C%8C%E4%B8%AD%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E5%B8%82%E5%9D%82%E4%B8%8B1031-1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






 

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夫たる者よ。父たる者よ。
 年の瀬と言う言葉が身に沁みて心に響くようになってきたこの頃です。時代の変遷と共に、年末と新年を迎える慣わしや支度が変わったことは間違いないことです。餅つきをする家もずいぶん少なくなったのではないでしょうか。餅をつかずとも店に行けばいつでも食べられる真空包装された物が売られています。おせち料理にしても、通信販売で手に入れることが出来る時代です。
 人の忙しさの中でこれらの物が世に出回るようになったのか、或いは世に出たから家で作らないで買うようになったのか。鶏が先か、卵が先か論です。お袋の味と言うやつを懐かしく思います。
 
 また悲しい事件が起こりました。双子の我が子を虐待により、二人とも死亡させた父親が逮捕されました。児童相談所への病院からの通報で発覚したとマスコミは伝えています。しかし、父親は否認しているのです。
 
 僕の働く会社の他の部署の青年が、半月ほど前に結婚しました。22歳と言う若さです。
  僕が彼に伝えたのは結婚をしたら、もはや相手の女性は彼女ではなく妻となるのです。そしてあなたは、夫となるのです。つまり夫婦となるわけです。その瞬間から親となる準備を心して欲しいと言うことです。その責任は生涯継続します。そして結婚は、神が人類の幸福のために定められた尊いもので、軽々しく行なうことではありません。
 よく聞く言葉に、いつまでも恋人の様でいたいですと言うことがあります。夫婦となった社会的責任を全く理解していない、たわいないお遊びの延長に過ぎない言葉です。教養を身につけなさい。

 

 
 さて、これから結婚される若い人たちへ、神の祝福を祈りつつ聖書の言葉を贈ります。

 
 夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。
 
 それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。かえって、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。
 
「それゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」。この奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。
 
 子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。<新約聖書:エペソの信徒への手紙5章〜6章>
 

 

 
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