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義人はいない
  寒い時期も半分は過ぎたかなと思うと、心が弾むような気がします。せめて家には彩をとホームセンターで草花を買って来ては、綺麗だなと思い見て楽しんでいます。30年ほど前になりますが、NHKのみんな歌の曲の中に、「北風小僧のかんたろう」と言うものがありました。歌詞はほとんど忘れてしまいましたが、この時期になると、風の強い日には時々思い起こします。
 今日も風の強い日でした。家の前の竹薮の竹が、まるでうねる様に風にあおられ、ザワザワザワザワと音を立て、まるで生き物が動いているかのように見えました。シューベルト作曲の菩提樹の歌詞の中に、「枝はそよぎて、語るごとし」と歌われるところがあることを思い起こし、その光景を想像しながら今日の竹の風景と重ね合わせてみたところです。

 



 いつになっても、マスコミを賑わす大事件が連続します。三菱マテリアルの火災、アクリフーズの食品への農薬混入事件。最近では、ヒューマンエラーなどと言う言葉も盛んに使われます。アクリフーズの農薬混入事件は、犯人が捕らえられましたが、もちろん物事の分別のつく年でありました。家庭もあります。どうしてそのようなだいそれた事件を起したのか理解が出来ません。会社の被害も甚大なものだと思います。
 人は皆、自己中心なのです。このことは素直に認めなければなりません。自らが一歩引き下がって相手に全てを委ねるなどと言うことはあり得ないからです。自分の思いを通したい、注意されれば腹が立つ。しかし、自らの欲求や不満の捌け口として、第三者に被害を被らせるようなことは許されることではありません。
 人が人を制するには、限界があるのでしょうか。それでは余りにも情けない話です。聖書は
、「義人はいない。ただの一人もいない。」と教えています。だからこそ神に立ち返ることが必要なのだと僕は思います。
 
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時は満ちた
 昨日、一昨日の寒さはこの冬一番ではなかったかと思われるくらいのものでした。しかし、よくしたもので寒さも長く続くと、幾分なりとも慣れてくるものです。ただ、降雪後の凍結した道での車の運転は、いつになっても怖いものです。春を実感するまで、跡花月くらいの辛抱でしょうか。
 家の庭に植えたシデコブシに沢山の蕾がついていました。どれも綿毛を着て、この寒さから実を守っているようです。この中に美しい花を咲かせる命が宿っていると思うと、日々の寒さに身を縮ませている僕の方が情けない気がするのです。必ず花開く時を、寒風にさらされても動じる様子もないシデコブシに教えられら気がします。

 

 人生は時が伴います。この世で与えられた時をどのように過ごすことに価値を見出すかによって人生は変わります。イエス・キリストは、このように語っています。
 
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」
 この「時」とはギリシャ語で「カイロス」と言って、「あることを行うのに適切な機会」という意味です。つまり、「今こそ神の救いの時が来た」と宣言したわけです。  
  また、「神の国は近づいた」というのは、「神の支配はここに来ている」と言う意味です。国と言っても、過の戦争中に日本は神の国だと言った様に、どこかそういう国が地球上にあるというのではありません。地球も宇宙も神が創造して、治めておいでになるのですから、広い意味では神の国とも言えますが、不信仰、不道徳な人々が充満しているこの世は、神の国とは言えません。ですから、ここで言う、「神の国」とは「神の支配」という意味であります。  
  つまり、「神の支配はイエス・キリストと共に、ここに来ているのだから、イエス・キリストを信じて神に従いなさい」と言っているのです。  
  つまり、イエス・キリストと出会った時こそが、永遠の神の懐に飛び込む機会であり、神の愛の中に立ち帰る時なのであります。神は、いつも招いておられるのです。



 
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神からの招待状
 時は寒に入り、その通り厳しい寒さの日々となりました。寒さの中でウインタースポーツを楽しむ人々があれば、寒さは苦手だと出歩くことを控える人々もあります。僕は後者側の人物です。しかし、天地創造以来の天の法則は揺るぐことなく巡ります。気がついてみれば日長が延びました。因みに日長が長くなる時も短くなる時も、週当たり15分だそうです。こんなに寒い時期にさえも、自然界の生き物たちは生きてゆく術を知っています。しかし、中には命を落とすものもあることでしょう。

 

 
 最近のニュースの中で、強制強姦の容疑で逮捕された男が、弁護士と接見中に逃げ出す事件が報じられていました。罪に罪を重ねる結果になります。自らの欲望を果たすためには手段を選ばないと言うことは、自己中心の最たるものです。厳しく断罪されなければならないと思います。最近では、凶悪事件といえば都会で起こるものと思っていたことが、地方の小さな町や村でも起こるようになりました。僕の住む町でも
10年ほど前に一家殺人事件が起きています。小さな町ですから大抵の人は、犯人を知っています。まさかあの人がそんな事件を起すなんて・・・・。目に見える物質が豊かになる一方で、命には見えない人の心が荒んできているのだと思うのです。その心に自らはおそらく気がつくことは無いでしょう。気付いていればこのような事件は起こりません。
 
 キリスト教徒の印象について、心が綺麗な人たちと言う考えを持つ人が多いようです。そして教会はそうした人たちが行くところなのです。
 しかし、イエス・キリストは断言しています
。『私は義人を招くためではなく、罪人を招くために来た』。のだと。誰も自らが罪人だ等と言う意識は無いと思います。罪とは、神に背を向けることです。ですから人は全て罪人なのです。いつの日か神から、教会への招待状が心のポストに投函される日が訪れるかもしれません。その時は、是非、教会へと足を運んでください。柔和で心の謙ったお方、イエス・キリストからの平安を賜ることでしょう。
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顕現日に寄せて
 新年おめでとうございます。今年も主の豊かな祝福の中を歩まれますように、そして主の堅い守りがありますようにお祈りいたします。年が明けましたが、教会暦はいまなお、クリスマスの期間中です。クリスマスは、1225日、一日だけではなく16日のキリストの顕現日を以ってクリスマスの期間を終わります。(僕はローズンゲンの教会暦を使っていますので、顕現日と表現しますが、公現日とも言います。)
 
 マタイによる福音書によりますと、東方の三人の博士がそれぞれに、黄金・乳香・没薬と言った高価な捧げ物を携えて、輝く星に導かれユダヤの王をしてお生まれになった、キリストを拝むためにはるばる旅をしてこられ、キリストにお会いになった日であります。旅をした期間はなんと、2年にも及ぶものでした。

 ギリシャ語では顕現日のことを、エピファニーと言います。これはギリシャ語の二つの言葉が合わさってできているものです。「エピ」という言葉が、「上から」と言う意味を持ちます。そして、「ファニー」という言葉は、「ファネイア」という言葉で「現れる」という意味です。直訳いたしますと、上から現れると言う言葉になります。つまり救い主キリストが降誕され、この世に現れたことを意味するものです。
 



 遠い東方の博士たち、異邦人がキリストの誕生を知り命がけの旅をしてきたと言うのに、ユダヤでは王も律法学者も、さらには住民もが、そのことに気がつかないでいました。キリストは、自分達のところに来たと言うのに、無知、無感覚、専門家の怠慢、無関心をあらわにしています。
 キリスト降誕と言う最高の喜びの知らせを、いの一番に受けたのは宗教指導者達ではありませんでした。東方の博士たち、即ち異邦人であります。しかも真面目な占星術の博士であり、異教徒であります。また、ルカは、野にいた羊飼い達と記しています。両者共に宗教指導者達からすれば、最も忌まわしい、汚れた、救われることのない人々でありました。
 
 しかし、神は救いの知らせを、この人々を選んで真っ先に伝えたのです。救われるべき人が救われるのは当然のことで、これこそ恵みであり、福音であります。新しい時代の到来、世界宣教への時代の先駆けであります。谷の百合キリスト教会は、無名の小さな教会です。しかし、キリストの臨在を世に知らしめるための働きをなさんがための働きを惜しみません。どうか共に祈ってください。
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