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復活であり命であるキリスト
 母の日の由来は諸説あるようですが、アメリカが発祥の地であることが定説となっているようです。
1908年5月10日、この日は、5月の第2日曜日でありました。1905年5月9日に亡くなったミセス・ジャービスを追悼しようと、ウェストバージニア州に住む娘のアンナ・ジャービスが、フィラデルフィアの教会で母の好きだった白いカーネーションを配りました。その後も母に感謝する日を祝日にする普及運動を続けたのです。

 1908年には、百貨店王ジョン・ワナメーカーが、店頭で母の日記念会を開催し、注目を集めました。そして1910年には、ウエストバージニア州が「母の日」を祝日として認定したのです。1914年、当時のアメリカ大統領・ウィルソンが、
5月の第2日曜日を「母の日」と制定し、国民の祝日としました。こうして、母が健在な者は赤いカーネーション、亡くした者は白いカーネーションを胸に飾るようになり、母の日にカーネーションを贈る習慣へと変化して行きました。

 


 この母の日にあやかるわけではありませんが、僕は母の月命日に墓前に花を手向けることが習慣となりました。死んでも尚、母への感謝の気持ちです。そんな折、僕の家の墓地に続く階段の片隅に、イヌノフグリの花を見つけました。寒風が吹きすさぶ中でも命を絶やすことなく可憐に咲いているイヌノフグリに、生命の力強さを知らされた思いです。
 毎日のようにマスコミは、殺人事件を報道しています。ひとりにたった一つの命です。断たれたらもう二度と取り返すことは出来ません。殺伐とした社会の中で、生命の尊厳が軽視されて来ている様に思われます。殺人の原因を見てみれば、多くは短絡的なものです。
 
 この世でただひとり、人にとって最後の敵である死の力を打ち破った人がいます。イエス・キリストです。信仰者である僕達は、このキリストを信じることにより、永遠の命と死からの復活が約束されています。人は本来、神に従順で死ぬことのない存在でした。しかし、アダムとエバが神との約束を破ったために、人に死が定められたのです。罪を犯した代償は死なのです。しかし、死を恐れる事はありません。聖書にはこのように記されています。

 
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて、わたしを信じる者は、誰も決して死ぬことはない。」<ヨハネによる福音書1125~26
 
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品格を備える者
 今日は30年来の友人の誕生日です。3年近く会っていませんが、お祝いのメールを送りました。人の記念日を祝うことも、また自分の記念日を祝ってもらえることも、共に嬉しいものです。僕が浜松市在住中に通っていた教会の牧師は、誕生日に祝いのはがきを送ってくださっていました。おそらく今もそうして居られると思います。
 こういった時、孤独のように思える自らも、僕のことを覚えてくださる人がいることに喜びと、孤独ではないと言う安堵の気持ちにひたります。年を重ねるごとに身につけなければならないと思うことが僕には一つあります。それは、年相応の品格です。そしてそれは、人それぞれ互いに尊重しなければならないと考えるのです。いつまでも若い気分でいることも悪くは無いと思います。しかし、キリストに似せて日ごとに新しくされている僕達信仰者の身につける品格は、自らのためではなく神の栄光のためであります。
 



  先週と今回の雪には、山間部に住む僕でさえうんざりでした。雪ほど始末の悪い物はないと思うくらいです。都会のように交通がまひし、身動きが取れなくなるようなことはありませんが、自動車の運転に疲れます。
 僕が生まれた年は、11月から雪が降り続いたと母から聞かされています。今のように暖房器具が充分に整えられてはいなかった時代ですから、寒さも相当なものであったと思われます。
 しかし、この度のような雪は、僕が子供の頃には当たり前に降ったものです。雪の降る日には、父がバス停までの道の雪をかいてくれるのが常でした。また母は、靴をこたつの中に入れて温めておいてくれたことを覚えています。口には出さずとも、子供への愛情の現れであったと感謝の念に耐えません。「親孝行、したい時には親はなし」とはよく言ったもので、その親の恩にどれだけ報いることが出来たかと言えば、答えることは出来ません。

 
 私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。私につながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。私の話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。私につながっていなさい。私もあなたがたにつながっている。
 ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなたがたは何もできないからである。<新約聖書 ヨハネによる福音書15章1〜5節>
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時は早春
 立春と言っても暦の上のこと。まだまだ寒い日が続くようです。それでも春への道のりの道しるべをひとつ通り過ぎたようで、心持ち少しばかり嬉しい気分の僕です。
 
 今週は、以前にブログに記したフォレスタのコンサートを聞きに名古屋まで出かけてきました。運良く、チケットを手に入れることが出来たのです。名古屋公演は初めてだそうです。インターネットで聞くのも素晴らしい気がしますが、やはり生の歌声には及びません。男声、女性、混声と3種の曲が歌われました。男性は黒のスーツ、女性は清楚なドレス、演奏はピアノだけです。舞台に装飾などありません。最低のもので、最高の歌声を聞かせてくれるのです。アンコールは、クラシックを趣味とする人なら誰でも喜ぶと思われる、オペラ「椿姫」から「乾杯の歌」が歌われました。
 
 自らが持ったもので人を幸福な、嬉しい、楽しい気分に出来ると言うことは、信仰の思いで言うならば、神から賜った賜物です。誰にでも出来ると言うものではありません。
反面、人を悲しませ、いらだたせる事は、誰にでも出来るたやすいことです。しかしそこには、人間性を疑われると言う落とし穴があることを忘れている人が多いように思います。
これこそ自己中心の極みとでも言うことが出来るのでしょう。
 
 
汝、キリストの心を心とせよ。と言う聖書の言葉が思い起こされます。

 


 さてまた、春の話です。ほのかに芳しい香りが漂うと思っていたら、やはりロウバイの花が咲いていました。梅の花の香りと同じ香りがします。春は黄色の花が際立ちます。このロウバイも黄色の花を付けています。
 古来、中国では春の色は青でした。青春と言うようにです。因みに秋は白です。北原白秋の白秋は、これに因んだものではなかろうかと思っています。古代中国の五行思想というものにおいては、季節それぞれに色が割り当てられていました。は青、夏は、秋は白、は黒で、それぞれ、「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」と呼ばれています。

 

乾杯の歌 フォレスタ http://www.youtube.com/watch?v=PsXym6iGIRI
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新しい週へ
 暖かな週末になりました。明日は雨の天気予報が出ていたように記憶しています。今日は週末礼拝の日でした。日曜日の礼拝とは少し違った気分です。一週間の歩みを守られた感謝、そして明日から始る新しい週を向かえることが出来る喜びを感じるのです。今の心の中に悩み憂いがあっても、新しい週が迎えてくれる、その真っ白な道を歩むことが出来るのです。汚点を残す歩みになるかもしれません。しかし日々、より善き事に勤しむことが出来るようにと祈りを捧げるのです。
 
 

 
 今日は、献花台にシンビジウムを献花しました。シンビジウムには深い思い出があります。それは高等学校の卒業式の日のことです。僕が通っていた高等学校は、卒業式の日に備えて、下級生がシンビジウムの花を使い、卒業生に贈るコサージュを作り卒業式当日に卒業生の学生服に付けてくれる伝統があったのです。おそらく今も続いていると思います。卒業証書より嬉しいものでした。
 花が身近にある生活を僕は好きです。献花したシンビジウムを、今夜は僕の書斎に置きます。
 
 
野の花がどのようにして育つのか、考えてみなさい。働きもしないし、自分のために服を作りもしません。...今日は咲いていても、明日は炉に投げ込まれてしまう野の草でさえ、神様はこれほど美しい装いをお与えになっておられるのですから、まして、人間であるあなたがたに、それ以上のことをしてくださらないわけがあるでしょうか。ああ、なんと小さな信仰なのか。 新約聖書:マタイによる福音書6:28-30
 
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