<< March 2014 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>

教会での結婚式
教会での結婚式

 愛する人との、生涯に一度の結婚式。真の神の御前での誓いをお勧めいたします。
谷の百合キリスト教会は、キリストへの信仰の有無を問わずお二人の結婚を祝福いたします。結婚式を希望されるお二人は、牧師までお問い合わせください。
結婚は、天地創造のときから、神の栄光と私達人類の幸福のために神が定められた尊い制度です。聖書は、『全ての人は、結婚を重んじるべきである。』と命じて、結婚の神聖さを教えています。したがって私達は神を畏れ謹んで結婚をしなければなりません。そして、聖書が教える結婚について耳を傾けていただきたく思います。真の神の教えは、お二人の歩む道の景色も彩りも行く方向も真実なものへと変えてくださいます。

 


聖書による結婚の制定 

旧約聖書:創世記21824
 
その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
  
 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。
 
 そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
  
 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

牧師連絡先

e-mail  cerejeira@festa.ocn.ne.jp
tel&fax 050-3791-3644


 
| comments(0) | trackbacks(0) | 結婚式 |
49年目の春
 このところの暖かさで、庭先の梅の花が一気に満開となりました。時はもう4月になります。僕が待ちに待った、春の息吹が至るところに見受けられる時期の訪れです。
 ふと僕の脳裏をよぎったのは、童謡の『春よ来い』の歌でした。思い返してみればこの歌を思い浮かべたのは何十年ぶりとも言えます。幼かった頃に誰かに歌ってもらった記憶があります。そして庭先には桃の木がありました。
 


春よ来い 早く来い
あるきはじめた みいちゃんが

赤い鼻緒の じょじょはいて
おんもへ出たいと 待っている

春よ来い 早く来い
おうちの前の 桃の木の
蕾もみんな ふくらんで
はよ咲きたいと 待っている

 



 一昨日、48年前に起きた袴田事件の袴田死刑囚が、釈放されたと言う朗報がありました。
拘置所で48回の春を過ごし、49回目の春に釈放、再審開始の決定がなされたのです。裁判所の取り計らいは、人道上の特例らしい様子です。確たる証拠もないままに冤罪として裁かれた人は数知れないと思うのです。このところ、警察、検察の捜査のあり方が問題視されて来ている事実があります。権力により犯人を作り上げることなどあってはならないことです。拷問、脅迫などで犯人として追い詰めることなど茶飯事ではないでしょうか。
再審でどのような判断がなされるのか、判決までにはまだまだ時間がかかるようです。
 
疑わしきは、罰せずと言う言葉があります。『この言葉は事実認定の過程を裁判官の側から表現したものである。これを、当事者側から表現した言葉が推定無罪であり、ふたつの言葉は表裏一体をなしている。条文上の根拠としては、刑事訴訟法336条が、「被告事件が罪とならないとき、又は被告事件について犯罪の証明がないときは、判決無罪の言渡をしなければならない」と定めている。』(ウィキペディアより引用)
 
 僕は妻を裁判所に訴えた経験があります。民事訴訟です。判決までに3年の時を経ました。判決は僕の側の敗訴でした。ありのままの正しいことを法廷で述べても通用しなかったのです。裁判官は女性に甘いと聞かされていました。このことによって僕の敗訴が決定された訳ではないとは思うのですが、裁判官が事件に対してどこまで真剣に取り組んでくれるのか、裁判官の力量を疑いました。控訴は弁護士から確たる証拠がないままでは意味がないと言われ一審で裁判は終わりました。
 
 袴田さんの48年の空白をうめることは、並大抵のことではありません。誰もこの48年間を保証することは出来ないからです。49年目の春が永遠に続きますように。
| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
豊かな国への方向性

 今年も春分の日を迎えました。太陽が春分点を通る日であり、また仏教では彼岸の中日です。暑さ寒さも彼岸までと言う諺があります。昔の人は暦より、自然の中から時期を知り、作物の栽培の知恵を得ていたようです。当地では、春分の日を過ぎた頃がジャガイモの植え付け時期になります。去年の日記を開いてみました。今年は去年より随分寒いようです。去年は今の時期、東京では桜が開花しているのです。自然の営みは時を知っています。僕達が自然から学ぶものは、数限りなくあると思います。自然とは、神の知恵だからです。そのような中で、ウグイスのさえずりを聞くこの頃です。

 

 

 マレーシア航空の航空機の行方がわからなくなってから幾日か経ちました。国際社会では、ロシアとウクライナ、クリミア問題が取り立たされています。この二つの事柄に共通することがあります。それは共に身を委ねている人々がいると言うことです。

 航空機の乗員は機体に身を委ね、機長の力量を信用して搭乗したのです。事件なのか事故なのか未だはっきりしない状況です。乗員の安否も確認できません。航空機は乗り物の中で安全性が高い部類に入ります。しかし一旦事故が起きると、被害は大きなものになります。安全を過信してはならないと思います。

 

 ロシアとウクライナ、クリミア問題は、世界各国がロシアに対して制裁措置を発動しました。為政者にはそれぞれの思いと方向があります。それに対して国際社会が否と言う判断を下した訳です。その国を構成するのは、何の力もない極平凡な国民です。国民は、為政者に自らの生活と国の将来を委ねているのです。為政者が判断を誤れば、その犠牲になるのは何の力も持ち得ない、社会の底辺を構成する国民、弱者です。このことが一番悲惨であると僕は思うのです。

 日本も戦中戦後の動乱の中で、惨めな思いをしなければならなかったのは、何の罪も無い社会的弱者でした。41日からは、消費税が8%になります。このことによってどれだけの人が犠牲とならなければならないのでしょうか。安穏と暮らしているわけには行かない時代へと進んでいるような気がします。アベノミクスも良いかもしれません。ただ、庶民の感覚とは随分と隔たりがあるようです。堅い礎の上に立つ国家であり、庶民が喜びをもって暮らすことが出来る社会の実現を僕は望みます。
| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
命の道
暑さ寒さも彼岸までと言う諺がありますが、その彼岸も目前に迫りました。暖かな気候になることは、僕にとって嬉しいことのひとつです。ほんの少しずつではありますが、辺りには春の気配が見え隠れする時期になっています。
 人生を道に例える事がよくあります。山あり谷ありの波乱の道を歩む人生あり。また平坦な道をひたすら歩む平凡な人生あり。その人の置かれた境遇により道は分かれます。先週はどんな道を歩んできたのだろうと振り返ってみました。特に変わった景色を見たわけでもなく、ありきたりの平凡な道を歩んだようです。
 
 人生の道は、歩んだ後に出来るものです。この先の道がどうなるのか、どのような道を歩むことになるのかはわかりません。大きな壁に突き当たるかもしれません。もしかしたら桃源郷を眺めながら歩むことになるのかもしれないのです。

 

 

人生の道程の終点は、死ではありません。ですからどんな困難に遭遇しても歩み続けることが出来るのです。主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をはって上ることができるのです。走ってもたゆまず、歩いても疲れることはありません。主を待ち望む者とはなんと力強い者でしょうか。そして命に至る道が用意されているのです。

 
『私は道であり、真理であり、命である。』イエス・キリストは道なのです。その道は、父なる神のもとへと通じる道であるのです。またイエス・キリストは言われました。『私は命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は、決して死ぬことはない』と。イエス・キリストは肉体の姿をとってこの地上を歩きました。けれども、肉体の姿とは、人間の目に映った幻のイエスにすぎません。本当のイエス・キリストは永遠の生命であり、人間の生命そのものであるのです。そのために僕達は、イエス・キリストを通らなければならないのです。これもまた道なのです。
 
賛美歌294   
http://www.youtube.com/watch?v=9C_dKhF4fHM

みめぐみゆたけき 主の手にひかれて
この世の旅路を あゆむぞうれしき
たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ
みあとをゆくこそ こよなきさちなれ
 
さびしき野べにも にぎわう里にも
主ともにいまして われをぞみちびく
たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ
みあとをゆくこそ こよなきさちなれ
 
けわしき山路も おぐらき谷間も
主の手にすがりて やすけくすぎまし
たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ
みあとをゆくこそ こよなきさちなれ
 
世の旅はてなば 死のかわなみをも
恐れずこえゆかん みたすけたのみて
たえなるみめぐみ 日に日にうけつつ
みあとをゆくこそ こよなきさちなれ
| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
生と死
これからの時期の季節は、生命の躍動が目に見えてわかるようになります。いつも何気なく通り過ごしていた道端にも、春の息吹を感じるこの頃なのです。知らずにいれば、もうスイセンが目を出していました。クロッカスが花を咲かせていました。木々の芽も膨らんで来ています。こう言った何気ないことをも当然のことと思うことなく、命あるものの力強さに感性を傾けてみることは、創られた者としてあるべき姿なのではないでしょうか。
 
桜の開花予想、桜前線などと言う言葉を耳にするのも、そう遠くない話であります。厳しい冬を乗り越えて、時は巡り待ちに待った本格的な春の訪れとなり、昨年がそうであったように、地は命に溢れます。そう言えばカエルの出歩く姿を見たのも最近もことです。神が定められた地の法則は、人は変わり世の中の変遷があろうとも未来永劫変わることはありません。
 



今日は、親族の一人を父なる神の御許に送りました。紅顔の美少年、夕には骨となる。
人の死は、はかなすぎます。僕の住む町の殆どの家は、神道です。当地はかつて苗木藩と言い、廃仏稀釈を徹底して行なった全国でも稀な土地柄です。
 神道の葬儀に行っていつも考えさせられることがあります。それは、死が忌むべきものの様にとらわれていはしないかと言う問題です。と言うのも、通夜から葬儀が終わるまでに幾つかの儀式があります。そのたびに、斎場でありましたり、火葬場と言うところに、水と塩が置かれているのです。それは、身を清めるためのものであります。
 人の死が忌むべきものであるとしたら、亡くなられた方のそれまでの人生は、なんと言うのでしょうか。その方の人生の重みに学ぶべきものが数多くあると思うのです。母の胎を出てから、父なる神の御許に召されるまで。この時ほど、命の尊さを感じ、考えさせられる時はないと思います。
 
 
私は裸で母の胎を出た。
 また裸でかしこに帰ろう。
 主は与え、主は奪取られる。
 主の御名はほむべきかな

  旧約聖書ヨブ記2章:21

 
| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
イエスと言う人
 この世の中に名前のない物は無いと言っても言いすぎではないと思います。その名前がいつつけられたのか、僕達が普段使っている物の名前の由来に少なからず興味があります。
 
 名は体を表すと言う諺があります。これは名前はその物や人の性質や実体をよく表すものだと言う意味です。英語圏にもNames and natures do often agree.(訳:名前と性質とは、しばしば一致する。)と言う言葉があります。僕はこちらの方が、的を得ていると考えます。
 
 僕の植物好きは、何度かブログに書きました。植物の名前にも、「うん なるほど。」と言う名前の付けられたものが数多くあります。例えば、ヘクソカズラ。これは、つる性の植物で、実をつぶしてみると臭いのです。確かにへクソです。カズラと言うのは一般的につる性の植物を言います。また、ママコノシリヌグイと言う植物があります。葉には小さなとげが密生しています。こんなものでお尻を拭われたらたまったものではありません。まま子のお尻を拭うには、これくらいのもので充分だろうと言うような、少しばかり愛情に欠ける名前です。
 今日の写真は、ホワイトラブと言う名前のシンビジウムを載せました。花が咲き、時が経つにつれてリップ(唇弁)と呼ばれる花の部分が淡いピンクから、だんだんと濃いピンクに変わってゆきます。あたかも恋した乙女と言った感じです。ホワイトラブの名にぴったりです。

 


 新約聖書は、イエス・キリストについて記されたものです。イエス・キリストと言えば、人類の救い主であります。クリスマスは知っていても、イエス・キリストを知らないと言う人はまずいないでしょう。イエスとは特別な名前ではなく、当時ではごく一般的な人名でした。では、キリストとは何でしょうか。決して苗字ではありません。キリストとは、救い主、救世主と言う意味です。ですから、救い主であるイエスと言う意味になります。イエスは、英語ではジーザスと言います。因みに僕が学んだ神学校の名前は、ジーザス・トゥ・ジャパン・ミッション・セミナリーと言いました。
 
 またイエスを、イエス・キリストと呼ぶ時、これは、イエスを救い主として信じる信仰告白と言う意味を持ちます。信仰告白とは、イエスは救い主ですと言い表すと言うことです。
 イエス・キリストの言葉です。

 『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』
 まさに救い主としてのイエスの言葉です。僕達は罪ある身です。誰一人として神の前に出て、「私は潔白です。」と言える者はありません。自らと、日々の生活を省みて、救い主であるイエスに出会ってみましょう。これからの人生の景色も、彩りも、行く方向も変わってくるはずです。嘘のないよう今を生きて。

 
| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
| 1/1PAGES |