今週の日曜日は復活祭でありました。キリストが十字架にかけられた後、3日目に甦られた日を記念する教会暦のひとつです。復活祭はイースターとも言い、こちらの方が馴染まれている言葉かもしれません。復活祭は、春分の日の後の最初の満月の直後の日曜日とされています。ですから、春分の日の後の最初の満月がいつになるかで年毎に復活祭の日は変わります。キリストの復活がなかったとしたら、キリスト教は意味をなさないものになってしまいます。それほどに重要な日なのです。
人類の最大の敵は、死であります。キリストはその死を滅ぼし、甦られたのです。漢字と言う文字は、意味を持つ文字です。甦りと言う文字を分解してみて見ましょう。更と言う文字と生きると言う文字が合わさっています。甦るとは、死んだ後も更に生き続けることなのです。キリストの復活についての甦りには、蘇りと言う漢字は使いません。後者の方の蘇りは、一時的なものとして考えるからです。
さて、僕達にはもうひとつ手強い敵があります。それは僕達の心の中にある自己中心と言う思いです。事の大小は別として誰の心の中にも潜み、いつ表に現われようかと時を狙っています。そしてこの自己中心は、表に現われると欲に変化すると言う特長を持っています。これは自己虫と言う邪悪な虫が、毒蛾に変わるようなものです。聖書は、欲がはらんで罪を産み、罪が熟して死を招くと教えています。自己中心から及んだ死に甦りの恵みがあるかどうかは僕にはわかりません。
僕が神学生であった時、伝道学実習と言う講義が数多くありました。その中から僕の記憶に焼き付けられた言葉をご紹介します。この実習の講師はアーサー・ホーランド牧師でありました。
初めから終わりまで、人にしたことは、神にしたことです。
自分より弱い者に力を与える。
病気の人を訪問し祈る。
人にした良いことは、神にしたことです。
人を悩ませた時、主イエスに茨の冠を着けたと同じことです。
人に鋭い言葉を浴びせた時、主イエスのわき腹を槍で刺したと同じことです。
人に批判の鞭を浴びせた時、主イエスを鞭打ちの刑にしたことと同じです。
人に誰にも言わないでと頼まれたことを他人に話した時、主イエスを裸にしたことと同じです。