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祈り

 光陰矢の如し、早い物でもう明日から6月です。梅雨入りも間もなくの事の様です。じめじめとしたいやな時期ですが、神が定めら得た天の法則、地の法則は生ける者に命を与えるもの、人のために定められたものだと僕は思っています。

 旧約聖書のヨブ記の中で、ヨブはこのように語っています。『私達は良い物を神から与えられた。悪い物もいただこうではないか。』僕達には到底及ぶ事の出来ない境地です。

 

 3週間ほど前になりますが、知人から母の墓前に供えてくださいと、香が送られて来ました。鳩居堂と言う香の老舗の物でした。何よりの贈り物です。僕は帰宅すると祖母と両親の遺影の前で香を炊くことを日課にしています。天に召された祖母と両親が、神の御許で安らかでありますようにと。神の守りの内にありますようにとの祈りのしるしです。キリスト教で香を炊くことは祈りのしるしです。

 旧約聖書の創世記の中に、ノアの洪水の記事が記されています。洪水が去り、地が渇いたことを確かめたノアは、箱舟から外に出て祭壇を築き焼き尽くす捧げ物を祭壇の上に捧げました。神はそのなだめの香りをかいで御心に言われたと言う記事があります。ノアが捧げたものは香ではありませんが、その原型と捉えて良いと思います。キリスト教では正教会が振り香炉などで頻繁に香を用いています。

 

 

 僕達は、様々な形で神に祈りを捧げます。感謝の祈り、願い事の祈りが最も一般的であるように思います。しかし忘れてはならないのは、まず神を讃えること、

そして罪の赦しを願うことです。ただ自らの思いを祈るだけでは人の側からの一方的なものになってしまいます。

 イエス・キリストは祈る時にはこのように祈りなさいと教えられました。それが主の祈りと言われるものです。共に祈りましょう。

 

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
御心の天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らが赦すごとく、
我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、
悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

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良い実を結ぶ
 5月も下旬に差し掛かりました。時の経つのは本当に早いものです。僕の住む町では、田植えの真っ盛りです。僕の畑は春植えの野菜の植え付けが終わり、今はイチゴとレタスの収穫が出来るようになりました。イチゴは、やはり採りたてが一番です。真っ赤に熟れたイチゴを畑で食べる、これに優るものはないと思います。もちろん僕の畑の作物は無農薬栽培です。
 

 ブドウも多くの蕾を着けてくれました。春先に剪定したところから新しい枝が伸び、一本の枝に
23個の蕾を着けています。このまま成長させると栄養分が行き渡らずに良い実を着けないのです。それで今日は、一番良い蕾を残し小さな蕾を切取ったのです。僕はブドウの栽培をしてはいますが、熟練した者ではありませんので、栽培技術の詳しいことはわかりません。他の果樹は、良い実を結ばせるために摘蕾と言う作業を行ないます。このことからブドウもそうなのではなかろうかと言う程度のものです。ただし、選定だけはきちんとやらないといけません。枝が伸び放題になってしまい、決して良い実を結ぶブドウにはならないからです。そして今日は、摘蕾のほかに蕾を着けていない枝や、弱い枝を切り落としました。
 

 イエスは、ご自身をブドウの木に譬え、僕達をその枝であると言われました。枝が木につながっていなければ芽を吹くこともなければ、実を結ぶことも出来ません。それと同じように僕達は、キリストであるイエスにつながっていなければ何も出来ないのです。良い実を結ぶためにはイエスにつながっていなければなりません。誰でも良い実を結びたいとと願うことではないのでしょうか。

 



 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。<ヨハネによる福音書1515
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過去にある将来

 初夏の光と風に新緑が美しく映えて見える時期になりました。この良い時期が長く続いてくれたらよいのにと思う僕です。既に沖縄地方は梅雨入りです。本州もあとひと月もしないうちに、梅雨に入ることになるでしょう。好む好まざるに関わらず、時は巡ります。

旧約聖書の創世記に記されている洪水の後に神は、このように言われました。『地の続く限り、種まきも刈入れも、寒さ暑さも、夏も冬も、夜も昼もやむことはない』。神はここで、天の法則、地の法則の宣言をされたのです。

 

 

 古く昔から人は、自然の現象を見て天気の変化を察しました。母から聞かされ僕の知るところでは、雨の降る前兆として、恵那山がはっきりと見える。太陽や月が笠をかぶる。

 そして飛行機雲が広がる時です。また、僕の家は最寄りの駅から4kmほどのところにあるのですが、電車の走る音が聞こえてくることがあるのです。そうした時は雨降りの前兆です。

 子供の頃は、靴を放り投げて靴がそのままの状態であったら、明日は晴れ、裏返しになったら明日は雨になるなどと言ったものです。今の時代、靴を放り投げ天気を気にする子供など見たことはありません。

 科学的に気象がほぼ間違いなく予報されるようになった現代です。これから先にはもっと精度が上がるかもしれません。しかし、そうした中でも昔の人の言い伝えを記憶の中に留めておきたいと思うのです。

 

 北極海の氷が解けたお蔭で新航路が開通し、海上の物流が良くなったとか、海底に貯えら得ている天然資源の採掘が出来る様になったとか。僕は手放しで喜ぶべきことではないと思うのです。人の知恵は、神の定めた法則までを変えてしまいました。今からでも決して遅くはないと思うのです。神が創られた全てのものを回復することは出来ませんが、これ以上の天変地異を起さないために、そして神が創られた天地に敬意を払い守るために、そして、人類の将来のために、ひとりひとりが出来ることを考えて実践しなければならないと思うのです。以前にも記しましたが、僕達の将来は遠い過去にあるのです。

 

 初めに神は天地を創造された。<旧約聖書:創世記1章1

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確かな種として
 今日は、五月晴れの爽やかな日となりました。先週は名古屋市在住の知人が、ワラビを取りに訪れて来て下さいました。僕が幼い頃にはワラビなど野原の至るところに生えており、母はそのワラビを取り、商店に買い取ってもらい我が家の現金収入の一部でもありました。しかしその野原には、植林がなされ今となっては我が家の近くには野原と呼べるところは殆どなくなってしまいました。野原であったところは、殆ど植林されてしまったのです。植林をされても間伐をしないままなので、日光が地に注ぐことなく、下草が生えることのない土地は保水力を失ってしまっています。
 生長し大きくなった木々を大きな森と言うそうです。そしてその間に生える灌木や下草を小さな森と言うそうです。これが本来あるべき山林の姿であると林業の専門家の先生がお話されていました。そしてあえて言うならば、植林された杉、桧と言った単相林ではなく、広葉樹が共生する複相林が自然なのです。


 


 僕達は様々な資源を人工的な物、天然の物を問わず僕達の住むこの地球から得ることで日常の生活が成り立っています。
埋蔵資源が乏しくなってきたと言われる昨今、新しい埋蔵資源の獲得競争とでも言うべき事態が世界各地で起きています。先般の中国とベトナムの領有権争いに見られた事件は、利権はわが国のものだと双方とも譲らないと報道されていました。
 これは対岸の火事ではなく、わが国においても尖閣諸島問題があり楽観視するわけには行きません。国際問題にしても、個人の問題にしても人は何かにつけ争いの種を蒔くものです。このことは未来永劫続くことだと思って間違いないでしょう。
 
神は人をそんなに悪いものに創造されたはずがありません。イエス・キリストは、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。 これが最も重要な第一の掟である。 第二もこれと同じように重要である。『自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい』。と教えられました。未だ自分を憎んだ人はないことです。
 イエス・キリストが教えられたこの二つの掟を実践できる心が与えられますように祈りを捧げます。
 

 私はあなたを、甘いブドウを実らせる確かな種として植えたのに、どうして、私に背いて悪い野のブドウに変わり果てたのか。<旧約聖書:エレミヤ書2章21>


 
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信じつつ、祈りつつ

 藤の花が満開となり芳しい香りを放っています。藤の花の香りには、初夏の訪れを感じる僕です。

 僕が初めて海外旅行をしたのは20年も前の話になります。行った先は、イギリスとフランスでした。僕は何よりも街の美しさに感動したのです。道路には大きなトチノキが植えられており、花盛りでした。トチノキの花とはこんなにも美しいものなのだと思ったのです。

 そして帰国してから早速、植木店に行きトチノキの幼木を買って植えたのです。あの美しい花をもう一度見たいと言う思いからです。今その木は、高さが5mほどにまで成長しました。

いつになったら花を着けてくれるのだろうと待つ事20年、やっと今年になって蕾が着きました。今年も花を着けなかった、来年はどうなのだろうと言う思いの繰り返しでした。待つと言うことは忍耐の要ることです。因みにカワズザクラの幼木を買い、美しく花を咲かせてくれるまでには10年待ちました。

 人を待つのも同じことです。月日の経過と時計の針ばかりが気になります。待った人との幸福な時を過ごすために、僕は秒針を見つめます。一秒ごとにその日、その時が近づいているのと言うことを信じつつ。
 

 
 

 僕達キリスト教徒は、イエス・キリストが再びこの世にお出でになることを信じて、その時を待っています。その時、人は死を経ずして天に上げられるのです。神が天に僕達の住家を用意していて下さいます。これが全てのキリスト教徒の切なる希望です。そして聖書は、キリストが再びこの世にお出でになることを記しています。これをキリストの再臨と言います。今を生きる僕達は、キリストの再臨に一番近い時を生きているのです。その時は、明日にも起こるかもしれません。キリストの再臨の時まで、全てのことに忍耐を持って祈りつつ待ち続けたいと思います。

 

 ガリラヤの人達、なぜ天を見上げて立っているのか。あなた方から離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなた方が見たのと同じ有様で、またおいでになる。<新約聖書:使徒言行録111

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