<< June 2014 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>

食べると言うこと
 一昨日には沖縄地方が梅雨明けしたと言うニュースが流れていました。本格的な夏の訪れの予兆です。夜にはカエルの大合唱と共に虫の声も聞こえるようになりました。時の移ろいを肌身に感じるこの頃です。教会の前の花壇には、当教会のシンボルである百合が花を咲かせて芳しい香りを放っています。神のなさることはその時に叶って美しいという聖書の言葉を噛みしめています。雨の夜も、風の日も、また雷が鳴り渡る時さえも神の意思がなければあり得ないのです。これらをも神の恵みとして受け止める心が育まれるのも、神によって創られた者の幸いであると思います。
 
 春先に畑に植え付けた作物が収穫の時期を迎え、カリフラワー、キャベツ、ジャガイモ、キューリなどが採れています。『地よりパンを出だしたる神の御名はほむべきかな。』収穫に感謝の念を覚えます。僕達の命を繋いでくれる尊いものだからです。これらの食材は、自らが育てたから、採って食べて当然だと思ったとしたらそれは間違いであります。僕達は神の許しなくしては、何も採ることは出来ません。ですから食事のごとに感謝の祈りを捧げるのです。
 



神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、産めよ、ふえよ、地に満ちよ。
地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。<創世記913

 
 またイエスは言われました。
「人はパンのみによって生きるのではない。神の口から出るひつひとつの言葉によって生きるのである。」<マタイによる福音書4章4>
 前者が形ある食物とすれば、後者は霊的な食物です。日ごとに人を養われる神を讃えつつ、食の有り難さに感謝を捧げて行きたいと思います。僕達は、この二つの食物によって命を繋がれているのです。
| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
隣人を愛するために

 梅雨に入ってから梅雨らしいと思う日がありません。関東、九州南部は被害が出るほどの雨が降っていると言うのに、当地では現在のところ空梅雨と言わざるを得ません。天の法則までが歪んで来てしまったのだろうかと思うのです。もしそうであるとしたならば、その根源は、人にあります。地球温暖化がその最たるものではないでしょうか。

 

 

 人は便利さと欲望的思考から、様々な物を開発し造ってきました。人が良かれとして造ったものが、自らに害を与えると言う事実が過去にありました。昭和40年代には三大公害と呼ばれる水俣病、四日市喘息、イタイイタイ病が社会問題となっていました。光化学スモッグと呼ばれる大気汚染もありました。これらを過去のものとして忘れ去るようなことがあってはなりません。これらの問題は高度成長の社会の中で、目の前しか見つめなかった結果であると思います。そのために何の関わりもない多くの人々が被害に遭い、今なお、訴訟問題は解決を見ない例もあるのです。

 

 

 物が豊かなことが幸福でしょうか。お金が沢山あることが幸福でしょうか。こういう質問をしたとしたら、多くの人がそうですと答えると思います。だとしたら、こう言った人の心は物に支配されてしまっているのです。しかしこれら全てが悪と言うわけではありません。その恩恵に与り、そのものに拠らなければ生きてゆけない人々がいると言うことも事実です。人類の幸福とは何かを常に念頭におく必要があると思います。

 自動的に周囲を判断し、自動運転できる自動車が近い将来実用化されるようです。本当にそのような自動車が必要なのでしょうか。その裏には健常者には理解でないこともあります。このような自動車を求めている人々がいるに違いありません。身体に障害を持ち、どこにも出かけられない人々にとっては福音であるのです。

 ただ問題視するとしたら、競争社会の中からの発想なのか。或いは人のためにと言う発想なのかその原点がどちらなのかであると思います。

 

 「イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」<マルコによる福音書12章29〜31節>

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
私はまことのブドウの木

 今日は、庭先に植えてあるブドウの木の実に袋掛けを済ませました。栽培している品種は、デラウェアとスチューベンです。今日も袋を実に掛けながら、弱い枝や実の付きの悪い枝を切り落としました。この作業は、良いブドウの実を収穫するための剪定と摘果です。毎年この作業を行なうのですが、いつも脳裏を過ぎるのは、ヨハネによる福音書15章のブドウの木の譬えです。

 

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」<ヨハネによる福音書1512
 

 
 

 私と言うのはイエスのことです。私の父は農夫であると言うのは、神の事です。神は、実を結ばない枝はみな取り除かれると言うのです。少し残酷な話ではないでしょうか。同じイエスに繋がる信仰者であっても、実を結ぶ者と実を結ばない者を区別し、実を結ばない者は切り捨てられるのでしょうか。もしそうだとしたらキリストの救いとはいったい何なのでしょうと考えてしまいます。この点が解釈の難しいところです。神が悪い者を切り捨てるとしたら、僕達の信仰は空しいものになってしまいます。
 

 しかし、ブドウの木をよく観察すると決してそうではないことが解ったのです。ブドウの木は、剪定のごとに枝の数を増やしてゆきます。親枝、子枝、孫枝と言うようにです。この親枝が僕達ひとりひとりなのです。そしてその先の子枝、孫枝は、僕達ひとりひとりの体です。

 神が実を結ばない枝は切り捨てると言うことは、僕達の体のうちの悪い部分を切り落とし、良い実を結ぶ枝になるようにと支えてくださると言うことなのではないでしょうか。僕はこのように解釈しました。弱い枝、悪い枝を親枝と共に切り捨て焼いてしまうことは訳のないことです。もしそうであったとしたら、弱者、罪人の切り捨てであり、救われる人はまずないと思います。
 

 そうではなく、僕達の体のうちの悪い部分を切り落とし、良い実を結ぶ枝になるようにと支えて下さる恵みがここにあるのです。ですから、私は切り捨てられるなどと心配することはありません。僕もブドウの木の剪定をする時は、親枝から切り捨てることはしたことはありません。悪い枝だけを切り捨て、他の枝を邪魔する部分の枝だけを切り捨てるのです。これは僕がブドウの栽培をする中で経験した事実です。
| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
天の宝

 水曜日には、東海地方が梅雨入りしたと思われると言うニュースが流れました。いよいよ梅雨の時期になったのかと、雨の恵みにも感謝しなければならないことを知らされました。僕の梅雨時期の印象は、アジサイの花とカタツムリです。僕が気がつかないだけなのかもしれませんが、思ってみればカタツムリはもう随分長い間見ていません。

 昨年、礼拝堂が整えられました。しかし、庭先が余りにも殺風景なので、花壇を作ろうと最初に植えたのがアジサイでした。それから花の種類をどんどん増やし、今では10種類ほどの花が植えられています。今花を着けているのはマリーゴールド、ナデシコとユキノシタ、ヒャクニチソウにカキツバタです。これから夏に向けて花を着けるものは、生育中です。毎日の夕方、礼拝堂の入口に座り、咲いた花を愛でるのがこの頃の僕の日課のようになっています。

 

 教会の名前を僕の愛唱賛美歌512番から取り、谷の百合キリスト教会と名づけたので百合も植えてあります。一昨日のことです。百合の先端部分の葉の様子がおかしいのです。よくよく見てみると虫がついて葉を食べているのです。虫もよくしたもので、下の方の堅くなった葉は食べていないのです。先端の方のまだ柔らかい葉を好むようです。幸いにも早く気が付いたので、蕾は食べられることなく、葉だけの食害で終わりました。

 


 大切な百合の葉を食べられて、僕の脳裏を過ぎったのは、マタイによる福音書の御言葉でした。主イエスは言われます。「地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」。確かに、地上に蓄えられた富は失われていくものです。主イエスは、「富は、天に積みなさい」と言われます。それはどういうことでしょうか。「そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない」と言われています。主イエスは私たちに地上の富の不安定で当てにならないことを指摘しておられます。一見、地上の富はいかにも頼りになるかのように見えます。しかし、それは虫が食べたり、さびが付いたり、盗人が忍び込んで盗み出したりして、私たちがいつまでもそれを価値あるものとして保有することが保証されているわけではありません。地上に蓄えられた富と言うものはいずれ失われていくものなのです。天に積む富に価値を置き、天に富を積む心が与えられますように。

 

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」<マタイによる福音書6章19〜21>

| comments(0) | trackbacks(0) | 書斎から |
| 1/1PAGES |