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愛(かな)
 梅雨明けと共に一気に暑さが増してきた気がしています。暑さにもいろいろあり、蒸し暑いのは体に堪えます。しかしあと2週間もすれば立秋です。暦よりも秋の訪れは、ススキの穂が知らせてくれます。僕が子供の頃は夏休みになると毎日のように川遊びに出かけたものです。しかしススキの穂の出る頃、8月の盆を過ぎると川の水が冷たくなり、この時期を境にして川遊びは終わりになっていたように記憶しています。

 母の死から4年目の夏を迎えました。風に涙は乾いても、今も悲しみは僕の心の底辺にあります。よく葬儀の時に聞く話しは、「天国に行って先に天に召された人と再会していると思います。」と。しかし聖書はそのようには教えていません。これは人間の側の希望的憶測であります。僕はこのことについて批判するつもりはありません。その方がそう思うのであればそのまま聞き流しています。
 




 近年、幼い子供を狙った犯罪があとを絶ちません。つい最近も少女の監禁事件がありました。いつからこんな世の中になってしまったのか。幼児虐待によって親が自らの子供をも殺してしまうのです。動機を聴取すれば躾のつもりだったとか。物事には程度と言うものがあるのです。思い返せば僕もよく叱られて叩かれました。僕の両親共に躾には厳しい性分でした。と言って成長した僕がどの程度のものかと言えば、どこにでもいる者と変わらない、そうではなく彼らより劣るかもしれません。それが僕には分かるのです。
 神の御前にあっては、人は自己中心的存在です。これは人の世にあっても同じことだと思うのです。ただ、自己中心が全てにおいて悪いものであるとは僕は考えていません。誰しも譲れないところがあり、ほかの人との関係の中でうまく取り成すすべを心得ているからです。僕は自己中心には2種類のものがあると考えています。ひとつは個人主義、そしてもうひとつは利己主義です。個人主義者は自己の責任において、自らがなす全ての言動に責任を持ちます。ところが利己主義者は、自らの欲求を満たすためだけに精力を傾けるのです。盲目となり、正しい判断ができなくなってしまうのです。犯罪の多くはこのような利己主義者が多数を占めるのではないでしょうか。自らの欲求を満たすために人の痛みさえ理解できない。これはまさに罪です。


 今もお付き合いをしている方のご主人は、子供を一度も叱ったことがないそうです。おそらく叱るより、諭したのだろうと思うのです。叱りつけるのは訳のないことです。しかし諭すと言うことは、誰にでも出来ることではありません。現在、その方のお子さんの一人は医師に、もう一人は教諭の仕事をしておられます。しかしこのご夫婦は、子供の自慢話などされたことはありません。このようなご夫婦だからこそ、僕のような者とも長いお付き合いをしてくださるのだと思うのです。
 最近毎日のように聞く曲があります。童神(わらびがみ)と言う沖縄の歌です。目を閉じてこの曲を聴いているとなんとも言えないものが心に響きます。生れた子供に篤い愛情をかけて育て、子供はこんなにも大切なものなのだと、健やかに育ち立派な大人になって欲しいと言う思いが歌にされているようです。一部、沖縄の言葉で歌われているので正確な意味ではないかもしれません。
 この国の将来を担う子供達が、親や周囲の者達の愛情に包まれて健やかに成長を遂げ国のため、世界のために働く者となって欲しいと思います。もし僕が親となっていたら、沖縄の言葉にあやかり、愛(かな)と言う名前を子供につけていたかも知れません。僕達の神は、愛の神です。そして僕達の神は、小さな者にこそ大きな愛を授けて下さいます。
 
http://www.youtube.com/watch?v=An9j2MPN24Q (童神)
 
父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。<エペソ人への手紙6章4>

父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心がいじけるかも知れないから。<コロサイ人への手紙3章21>

 
 
 
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ただ主をのみ拝せよ。
 黄昏時のヒグラシの鳴き声は風情があるものです。今日も一日が終わった・・・・そんな気分にさせてくれます。日中暑かった思いもヒグラシの鳴き声に忘れる思いがします。実に神は、人の心をうまく捉えておられると思うのです。神の御名はほむべきかな。

 
 僕は今、聖書通読をしています。聖書通読と言うのは、創世記からヨハネの黙示録までの聖書66巻を続けて読むことで、キリスト教徒の大半はやることであると思います。僕の聖書通読は2回目です。牧師と言う立場からすると少ないと言わざるを得ません。日々聖書に触れることは、心を豊かにしてくれます。聖書の記事は全てが興味の湧く面白い記事ばかりではありません。特に旧約聖書は難解な物語が多く載っています。しかし聖書は、創世記に記された天地創造から、ヨハネの黙示録に記された神の国の完成まで一貫しているのです。
 

 僕の聖書通読は黙読ですが、よく聞く拝読と言う言葉を耳にします。僕はこの拝読と言う言葉に違和感を感じるのです。それは聖書を神格化したように僕の耳には聞こえてくる言葉だからです。聖書は今も活きて働かれる神の言葉を収めた書物でありますから、拝読と言う言い方をする気持ちは理解できます。しかし、キリスト教では神は唯一なのです。ですから、僕はこの信念に従って礼拝の折には、『聖書を朗読いたします』。と言うのです。
 そのよりどころは、『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』。と言う聖書の言葉にあります。
 



 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。 すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言(ことば)で生きるものである』と書いてある」。 それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて 言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使いたちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』
と書いてありますから」。
 イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。<マタイによる福音書4110

 
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不幸も頂こうではないか

  クサキョウチウトウの花が見頃になりました。僕の母は幼い頃、この花が咲くと盆が近いと嬉しい気分になったと語ってくれたことを覚えています。

 台風8号の影響の雨で、隣町では土石流が発生し中学生の子供がひとり命を落としました。痛ましいニュースでありました。昭和44625日は、僕にとって忘れることの出来ない日です。当時僕は小学校3年生でありました。その日はその前日より豪雨であったと思います。そして625日未明、僕の家族が親交を深くしていた家族の家の裏山が崩れ落ち、その土砂で家がつぶされ5人家族のうち3人が命を落としてしまいました。母親とまだ物心つかない子供2人が犠牲になってしまったのです。くしくもその日は、僕の母の誕生日でありました。僕は、この時期になるといつもこのことを思い起こすのです。

 親しくしていた人の死、家族の死、これほど悲しいことはありません。このことによって、関わってきた人の人生が変わることさえあるのです。

 

 

 しかし、聖書はそうした僕達に慰めとなる言葉を与えてくれます。「私を信じる者は死んでもなお生きる。生きていて私を信じる者は死ぬことはない。」と。そして未来への約束があるのです。それは死者の復活と神の国の完成です。僕達は、人生の中において何度も悲しい思いをしなければなりません。しかし、この約束があるからこそ、このことに希望を持って生きてゆけるのです。

 

 私達は、神から幸福を頂いているのだから、不幸も頂こうではないか。<ヨブ記2章10

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癒しあり
 今年もいつも年の様に、夜に外に出て闇に浮かぶ景色を眺めながら過ごすことが多くなりました。そんな折、本当に何年かぶりに蛍の舞うのを見ることが出来ました。静寂な夜の闇の中に、蛍光色を発しながら舞う蛍は風情のあるものです。このような時代になっても蛍の生息できる環境があるのだと思ってみれば不思議なくらいです。人は変わり世の中は変遷を続けています。しかし、蛍はそれとは無縁に自然の営みを続けてきたのです。大切に僕の記憶の中に留めておきたいと思います。
 自然の営みは、人類の台頭により随分と変わってきました。それが顕著に現れているのが異常気象です。温暖化は進む一方のです。次世代を担う者たちの為に、まさに今、僕達がなさなければならないことがある筈です。以前にも記しましたが、僕達の未来は過去にあるのです。これは復古主義とは質を異にします。過去から学び未来を切り開くこと、今を生きる僕達に課せられた大きな課題です。

 


 僕は沖縄の曲をよく聞いています。童神、黄金三星、てぃんさぐの花、島人の宝、安里屋ユンタなど。沖縄の曲の特徴と言いますか、共通する事柄は、人と自然を歌に織り込んでいることです。そして更に言うならば、人の心の内にある感謝の気持ちを詠っています。これらの曲を聴いていると心が癒される気分です。どれもこれも魅力ある曲です。
 萎えた魂に息吹を与え、生きることの大切さ、命あることへの感謝、神への畏れが心の内に湧き上がって来る様です。僕の特にお気に入りの黄金三星をご紹介いたします。

 

黄金三星 http://www.youtube.com/watch?v=hMEwXRLyYKc 

黄金三星 // 原曲歌詞        
果てぃ知らん天の
広がいぬ中に
明々と照ゆる
黄金三星
午ぬ方ぬかなた
島ぬ中空に
黄金三星ゆ拝む嬉しゃ
まくとぅ神々ぬ
あぬ星座にいめら
島とぅとぅみ果報 御願さびら
黄金三星 // 標準語訳
果て知らぬ天の
広がりの中に
明々と照っている
オリオン星座
南の彼方
島の中空に
オリオン星座を拝む事のできる幸せよ
まことに神々が
あの星座におられるのであれば
島の喜びと幸せを心よりお祈りいたします
 疲れた者、重荷を負うものは、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私のくびきを負い、私に学びなさい。そうすればあなた方は安らぎを得られる。私のくびきは負いやすく、私の荷は軽いからである。<マタイによる福音書112830

 
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