2014.07.26 Saturday
梅雨明けと共に一気に暑さが増してきた気がしています。暑さにもいろいろあり、蒸し暑いのは体に堪えます。しかしあと2週間もすれば立秋です。暦よりも秋の訪れは、ススキの穂が知らせてくれます。僕が子供の頃は夏休みになると毎日のように川遊びに出かけたものです。しかしススキの穂の出る頃、8月の盆を過ぎると川の水が冷たくなり、この時期を境にして川遊びは終わりになっていたように記憶しています。
母の死から4年目の夏を迎えました。風に涙は乾いても、今も悲しみは僕の心の底辺にあります。よく葬儀の時に聞く話しは、「天国に行って先に天に召された人と再会していると思います。」と。しかし聖書はそのようには教えていません。これは人間の側の希望的憶測であります。僕はこのことについて批判するつもりはありません。その方がそう思うのであればそのまま聞き流しています。
近年、幼い子供を狙った犯罪があとを絶ちません。つい最近も少女の監禁事件がありました。いつからこんな世の中になってしまったのか。幼児虐待によって親が自らの子供をも殺してしまうのです。動機を聴取すれば躾のつもりだったとか。物事には程度と言うものがあるのです。思い返せば僕もよく叱られて叩かれました。僕の両親共に躾には厳しい性分でした。と言って成長した僕がどの程度のものかと言えば、どこにでもいる者と変わらない、そうではなく彼らより劣るかもしれません。それが僕には分かるのです。
神の御前にあっては、人は自己中心的存在です。これは人の世にあっても同じことだと思うのです。ただ、自己中心が全てにおいて悪いものであるとは僕は考えていません。誰しも譲れないところがあり、ほかの人との関係の中でうまく取り成すすべを心得ているからです。僕は自己中心には2種類のものがあると考えています。ひとつは個人主義、そしてもうひとつは利己主義です。個人主義者は自己の責任において、自らがなす全ての言動に責任を持ちます。ところが利己主義者は、自らの欲求を満たすためだけに精力を傾けるのです。盲目となり、正しい判断ができなくなってしまうのです。犯罪の多くはこのような利己主義者が多数を占めるのではないでしょうか。自らの欲求を満たすために人の痛みさえ理解できない。これはまさに罪です。
今もお付き合いをしている方のご主人は、子供を一度も叱ったことがないそうです。おそらく叱るより、諭したのだろうと思うのです。叱りつけるのは訳のないことです。しかし諭すと言うことは、誰にでも出来ることではありません。現在、その方のお子さんの一人は医師に、もう一人は教諭の仕事をしておられます。しかしこのご夫婦は、子供の自慢話などされたことはありません。このようなご夫婦だからこそ、僕のような者とも長いお付き合いをしてくださるのだと思うのです。
最近毎日のように聞く曲があります。童神(わらびがみ)と言う沖縄の歌です。目を閉じてこの曲を聴いているとなんとも言えないものが心に響きます。生れた子供に篤い愛情をかけて育て、子供はこんなにも大切なものなのだと、健やかに育ち立派な大人になって欲しいと言う思いが歌にされているようです。一部、沖縄の言葉で歌われているので正確な意味ではないかもしれません。
この国の将来を担う子供達が、親や周囲の者達の愛情に包まれて健やかに成長を遂げ国のため、世界のために働く者となって欲しいと思います。もし僕が親となっていたら、沖縄の言葉にあやかり、愛(かな)と言う名前を子供につけていたかも知れません。僕達の神は、愛の神です。そして僕達の神は、小さな者にこそ大きな愛を授けて下さいます。
http://www.youtube.com/watch?v=An9j2MPN24Q (童神)
父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。<エペソ人への手紙6章4>
父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心がいじけるかも知れないから。<コロサイ人への手紙3章21>
母の死から4年目の夏を迎えました。風に涙は乾いても、今も悲しみは僕の心の底辺にあります。よく葬儀の時に聞く話しは、「天国に行って先に天に召された人と再会していると思います。」と。しかし聖書はそのようには教えていません。これは人間の側の希望的憶測であります。僕はこのことについて批判するつもりはありません。その方がそう思うのであればそのまま聞き流しています。
近年、幼い子供を狙った犯罪があとを絶ちません。つい最近も少女の監禁事件がありました。いつからこんな世の中になってしまったのか。幼児虐待によって親が自らの子供をも殺してしまうのです。動機を聴取すれば躾のつもりだったとか。物事には程度と言うものがあるのです。思い返せば僕もよく叱られて叩かれました。僕の両親共に躾には厳しい性分でした。と言って成長した僕がどの程度のものかと言えば、どこにでもいる者と変わらない、そうではなく彼らより劣るかもしれません。それが僕には分かるのです。
神の御前にあっては、人は自己中心的存在です。これは人の世にあっても同じことだと思うのです。ただ、自己中心が全てにおいて悪いものであるとは僕は考えていません。誰しも譲れないところがあり、ほかの人との関係の中でうまく取り成すすべを心得ているからです。僕は自己中心には2種類のものがあると考えています。ひとつは個人主義、そしてもうひとつは利己主義です。個人主義者は自己の責任において、自らがなす全ての言動に責任を持ちます。ところが利己主義者は、自らの欲求を満たすためだけに精力を傾けるのです。盲目となり、正しい判断ができなくなってしまうのです。犯罪の多くはこのような利己主義者が多数を占めるのではないでしょうか。自らの欲求を満たすために人の痛みさえ理解できない。これはまさに罪です。
今もお付き合いをしている方のご主人は、子供を一度も叱ったことがないそうです。おそらく叱るより、諭したのだろうと思うのです。叱りつけるのは訳のないことです。しかし諭すと言うことは、誰にでも出来ることではありません。現在、その方のお子さんの一人は医師に、もう一人は教諭の仕事をしておられます。しかしこのご夫婦は、子供の自慢話などされたことはありません。このようなご夫婦だからこそ、僕のような者とも長いお付き合いをしてくださるのだと思うのです。
最近毎日のように聞く曲があります。童神(わらびがみ)と言う沖縄の歌です。目を閉じてこの曲を聴いているとなんとも言えないものが心に響きます。生れた子供に篤い愛情をかけて育て、子供はこんなにも大切なものなのだと、健やかに育ち立派な大人になって欲しいと言う思いが歌にされているようです。一部、沖縄の言葉で歌われているので正確な意味ではないかもしれません。
この国の将来を担う子供達が、親や周囲の者達の愛情に包まれて健やかに成長を遂げ国のため、世界のために働く者となって欲しいと思います。もし僕が親となっていたら、沖縄の言葉にあやかり、愛(かな)と言う名前を子供につけていたかも知れません。僕達の神は、愛の神です。そして僕達の神は、小さな者にこそ大きな愛を授けて下さいます。
http://www.youtube.com/watch?v=An9j2MPN24Q (童神)
父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。<エペソ人への手紙6章4>
父たる者よ、子供をいらだたせてはいけない。心がいじけるかも知れないから。<コロサイ人への手紙3章21>