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逆襲
 振り返ってみれば8月ももう終わりです。不順な天候が多かった月でありました。その裏側では、少しずつ秋の気配が感じられるようになって来ています。四季の移ろいは、天地創造のときから止むことなく繰り返し巡っていることに、神の臨在を思い知らされます。
四季の移ろいの中に生きるのは人間だけではありません。神が創造されたすべてのものがその内にあるのです。しかし人間の台頭により歪められた自然の営みは、その刃を人間に向けて立ち向かって来ている現実があります。
 

 異常気象と言う言葉でまとめれば、何か外的な要因によるものの様な錯覚を起すのですが、その張本人は人間以外にはありません。報道によれば、ここ30年間で気温が0.8℃上昇しているそうです。たかが0.8℃と言っても部屋が暖まるのと大気の温度が上昇するのでは規模が違います。目の前の便利さを求めるよりも、それに伴う利益を求めるよりも、次の世代に残さなければならないものは何かを今真剣に考え、神が人類の幸福のために創造された森羅万象を慈しまねばならないと僕は考えています。今、僕達が求めなければならないことは便利さでも、豊かさでもありません。神に立ち返ることです。




 

青春の日々にこそ、お前の創造者を心に留めよ。
苦しみの日々が来ないうちに。
「年を重ねることに喜びはない。」と言う年齢にならないうちに。
太陽が闇に変わらないうちに。
月や星の光が失せないうちに。
雨の後にまた雲が戻ってこないうちに。<コヘレトの言葉1212
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まことの光
 外に出てみると夕方からの雨も上がり、雲の切れ間から星空が見えていました。教会の庭先から見える夜空の星の美しさは、他に引けを取らないと思っています。数日前には、流れ星を見ました。美しく不思議な光景です。またソーラーライトの光に映し出される草花は、昼の光に照らされるものと異なり幻想的に見えます。
 
 思ってみれば人は、闇よりも光を求めるようです。それはこの世を照らす真の光としてこの世にお生れになったキリストに重ね合わせることが出来ると思います。キリストの光はすべてのものを照らし出します。ですから何もかもがあからさまにされるのです。義に飢え乾く者たちにとってキリストの光は命です。キリストは語られました。「私は世の光である。」と。キリストが闇を照らし、僕達の進むべき道を示して下さるのです。そしてこの道は命へと繋がるのです。キリストの示し給う光に導かれつつ、喜びをもって新しい週を迎えましょう。

 

 

 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。 すべてのものは、これによって出来た。出来たもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。
 
 ここにひとりの人があって、神から遣わされていた。その名をヨハネと言った。 この人は証しのために来た。光について証しをし、彼によってすべての人が信じるためである。 彼は光ではなく、ただ、光について証しをするために来たのである。すべての人を照すまことの光があって世に来た。
 
 彼は世にいた。そして、世は彼によって出来たのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところに来たのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。 <ヨハネによる福音書1112

 

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死んでもなお生きる

 この時期は殆どの会社が夏季休暇です。墓参のためにと木曽方面へと車で出かけてみると普段の倍くらいの車の量でした。そして他県ナンバーの車の多いことです。僕は夏季休暇と言うものをとったことがないので、もし長期の夏季休暇があったとしたら身をもて余してしまうだろうと思います。駅前では盆踊りのための準備が進められており、交通規制が掛かっていました。盆になると子供の頃には、母に連れられて母の実家である木曽へ行っていました。盆と正月の母の里帰りです。盆の夜には盆踊りと出店、そして叔父叔母から貰えるお小遣いが楽しみでありました。

 

 そうした伯父叔母も殆どが他界し、母の兄弟姉妹では2人が残っているだけになってしまいました。親族の死は悲しいものです。悲しい死であっても、いつまでもその悲しみを引きずっているわけには行きません。信仰者は悲しみの裏には、必ず喜びがあることを知っています。キリストが人類の最後の仇である死に打ち勝ち、死の体から甦られたことを信じているからです。甦ると言う漢字は、更に生きると書きます。蘇ると言う漢字とは、読みは同じでも意味が違うのです。

 

 

 

 
 

 命あることを当然のことと考えてしまえば何の喜びもありません。死んでゆかなければならないことも当然のことと考えれば虚しいだけです。

 僕達が生きるもの死ぬのも、僕達の体も魂も僕達のものではなく、僕達の真の救い主、キリストのものなのです。キリストは僕達の罪を赦し、その上、永遠の命を約束されました。ですから僕達は、キリストのために生きることを、心から喜ぶことが出来るのです。

 

「私は、甦りです。命です。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていて私を信じる者は、決して死ぬことがありません。」<ヨハネによる福音書11章25−26節>

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次世代へ真に伝えるもの
 今年も長崎の原爆記念日の日が巡ってきました。広島に続き、何の罪もない多くの人々が尊い命をなくされました。おそらくは何が起きたのかわからない状況での一瞬の出来事であったのだろうと推測するのです。この出来事は決して風化させることなく、次の時代を担う若者達に伝えてゆかなくてはならないと思います。この先一週間は、終戦の日とあいまって戦争と平和をテーマにした番組などをマスコミは取り上げることでしょう。

 
 残念なことに僕は戦争とはいかなるものか、日本が戦争によって世界に与えた悲劇を教育された記憶は曖昧なのです。父母より戦争時代の生活については、何度も聞かされました。しかし、教育の場である学校では積極的には教えられませんでした。恥を文化とする日本の国民性と、国による教科書検定で真実を記した教科書が国に採用されなかったと言うこともあり得ると思うのです。西欧諸国のように、自国のなしたことを教えることは決して将来の日本の損にはなり得ないと思います。
 しかしながらナチスの犯したことは、教わった記憶に残っているのです。他国のなしたことを教えることで、本当の平和教育が出来るのでしょうか。何の罪もない人々から平穏な生活を奪い取ってしまう戦争。当時、戦死者の家には靖国の母の家と札が掲げられていた映画を見た記憶があります。私的見解ながら当時の日本は、方向性を間違えていたと言わざるを得ません。

 



 このところの国会では憲法解釈を変えて、集団的自衛権を打ち出しました。強行的決定です。突き詰めれば弁解と受け取られる答弁はいくらでもあることでしょう。様々なしがらみの中で、日本は国家の根幹まで変えざるを得ないのでしょうか。
 
 今日は母方の祖母の命日です。その日にもこの花は咲いていました。戦後60余年、その時にも咲いていたでしょうか。
 
 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。<エフェソの信徒への手紙2章1416

 
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神学生募集のお知らせ
JTJ宣教神学校 神学生募集について
                  穏健な福音主義に立つ超教派の神学校です。

 現在、JTJ宣教神学校では、神学生の募集をしています。キリスト教信仰者であれば、学歴、年齢、性別など一切問わない神学校です。
 学部は神学部と生涯学習部の2学部があり牧師を志す人、教会での更なる奉仕を志す人と目的に合ったカリキュラムが用意されています。教室制、通信制のどちらでも学ぶことが出来ます。
 
◎新しい革袋として
 JTJ宣教神学校は「新しい葡萄酒は新しい革袋に」の精神によって創立されました。それは、当校の入学資格が「聖書を学びたい」「神学を勉強してみたい」という思いがあれば、だれでも学びのチャンスを提供することを目指していることに表れています。主の恵みにより、創立以来20年余年で神学部の卒業生は1000人を超えるようになりました。
 牧師を目指す方も、信徒として教会を支えていこうとする方も、ご一緒に学ぶ学校です。

◎多彩な講師陣
 さまざまな教団から優れた先生方が交代で授業を担当していてくださいます。多彩な講師陣の授業は、知る喜び、恵みの感動、心の確信という花を咲かせています。教派を超えた学びは、互いに違いを認めつつも、自分のあり方を確立し、真理の追及の面白さや、神学することの楽しさに導くことでしょう。

◎現場力
 牧会、伝道、宣教の現場で役立つ力、現場力をつけることを目指しています。
 まずは、聖書各所の授業を通して、何よりも聖書そのものをきちんと学ぶこと。
 この基本をしっかりと押さえ、現代の宣教について、実践的内容な授業や演習が組み立てられています。これらの知識を実践のバランスが現場において必ず力となります。

◎あなたの出番です。
次の時代の宣教を担う様々な年代の方々を育てていくことに当校は貢献してまいります。そして、次はあなたの出番です。
入学に関するご質問は、お気軽に事務局、または谷の百合キリスト教会へお問い合わせいただければ幸いです。
 
☆JTJ宣教神学校
  〒110-0015 東京都台東区東上野5−11−9
  TEL 03−3842−3412 FAX03−3842−3415
☆谷の百合キリスト教会
  
〒509-9232 岐阜県中津川市坂下1031−1 
    TEL050―3791―3644(ファックス兼用)
       Mail cerejeira@festa.ocn.ne.jp
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魂の安らぎ

 サルスベリの花が見頃となっているこの頃です。僕の家に庭先にも今年2本のサルスベリを植え、花盛りです。雨によって被害に遭われた地方の方々には申し訳ないのですが、僕の住むところでは、日照り続きで雨が欲しい気分です。僕の畑の作物に水を与える仕事がひとつ増えました。

 今週は運の良いことがありました。こんなことは一生に一度あるかないかくらいに思う僕です。と言うのは、郵便局のキャンペーンで三角くじを引いたのです。局員の方が破り中を見ると何と「1等」と書かれているのです。今まで貧乏くじと言われるものは数多く引いて来ましたが、「1等」は初めての経験です。景品は扇風機でした。今夜もその扇風機が活躍しています。これで僕の運も尽きたのかなと思わないでもありません。

 そんな気分が的中して今年3月に購入した車のタイヤがパンクしました。痛い出費です。そううまくは行かないのがこの世の常なのだと自らに言い聞かせた次第です。

 

 

 また痛ましい事件が起こりました。女子中学生による同級生殺人事件です。その生徒を過去に診察したのであろう精神科医は、「この少女は将来、殺人を犯すかもしれない。」と診断していたそうです。事件被疑者の年少化について問われてから随分経ちます。そのような統計的なことよりも、どうしたら事件を食い止めることが出来るのかを考えなければなりません。情操教育だけでは不十分だと考える僕です。時代の産物と言う言い方もあるかもしれません。死んでも生き返るゲーム感覚的思考が取り立たされたこともありました。

 国道257の道中には、こんな言葉の看板が立てられています。『大人が変われば、子供も変わる。』教育されるべきは、本当に大人なのかもしれません。以前にも記しましたが、僕達の将来は、過去にあるのです。事件の当事者について思うことは、自らも知らない重い荷を負わされて生きてきただろうと言うことです。誰がその重荷を降ろしてやることが出来るのでしょうか。少年鑑別所でも監獄でもありません。少女の生い立ちからその道が開けてゆくと思います。しかし、人を殺したと言う事実は生涯、赦される事も忘れることも出来ません。

 

 すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。あなた方を休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだったものであるから、私のくびきを負うて、私に学びなさい。そうすればあなた方の魂に休みが与えられるであろう。<マタイによる福音書112829
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