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ごきげんよう
 蝉の声も遠のき、時はまさに秋です。僕の幼少期の記憶の中には、彼岸になる時期にまで蝉が鳴いていた記憶はありません。これも温暖化現象の現れでしょうか。今はいたるところでヒガンバナが咲き、目を楽しませてくれています。僕はヒガンバナと言うより、マンジュシャゲと呼んだ方が趣があるように思うのです。有毒植物ですが食糧難の時代には、球根をすりつぶし水で晒して毒を流し落とし、澱粉をとって食糧としたそうです。
 
 朝の連続テレビ小説“花子とアン”は、今日が最終回でした。いいドラマだったと思います。特に番組の最後に美輪明宏さんのナレーション「ごきげんよう。さようなら。」と言う言葉が、なんとも気品高く、それでいて優しく謙って聞こえて心地よい気分にさせてくれました。挨拶とはこういう事なのだと学んだ気がします。人の心に響く言葉です。
 挨拶とは多くの社会で、人間関係を円滑にする上で使用されているものです。その意味合いは、相手の心を開いて相手に迫ることだと学んだ記憶があります。確かにそうです。
知らないもの同士が、何の挨拶もなくしては相互の理解を得ることは出来ません。
子供からお年寄りまで、身につけなければならない人間関係の基本と言うことが出来ると思います。不安と危機的状況の今の世の中にあって、挨拶により平和が実現したらこれは奇跡です。そうあって欲しいと願います。

 


 キリスト・イエスに結ばれている聖なる者達に、よろしく伝えてください。私と一緒にいる兄弟達もあなたがたによろしくといっています。全ての聖なる者達から、特に皇帝の家の人たちからよろしくとのことです。主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。<フィリピの信徒への手紙42123
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与えられる賜物
 先週、フォレスタのコンサートに行ったことはブログに書きました。その時を思い起して、受けた感動はとても素晴らしいものでした。自らが持ったものによって人に感動を与えたり、喜ばせたり、また慰めたり出来ると言うことは、とても素晴らしいことであると思います。誰にでも出来ると言うものではないように感じます。逆に人を怒らせたり、不愉快な思いにさせるようなことは、訳のないことです。
 
  これはその人の努力や才能だけではなく、神から与えられた賜物と言うべきものだと思います。神はひとりひとりに見合った賜物を与えてくださっています。しかし、その賜物に気が付かず、折角の賜物を無にしてしまっている人が多いように僕は感じています。賜物とは、決して人より秀でたものとは限りません。様々な形があると思います。今一度自らを省みて、人に対して出来ることを考えて見ましょう。イエス・キリストは言われました。
『自分にして欲しいと思うことは、人にもそのようにしなさい。』この言葉が賜物の鍵となるものであるかもしれません。
 



 さて、コンサート会場に着いたのは、開演の2時間前でした。全席自由席でしたので、おそらく混雑すると思い、相当の時間の余裕を持っていったつもりでしたが、ホールの前には既に200名くらいの人が並んでいたのです。開演まで2時間、この時間をここでまたなければならないのかと思ったら、どっと疲れが出てきました。人に聞いてみるとこのくらいのことはざらにあるそうです。僕には初めての経験でした。待つと言うことは忍耐の要ることです。
 
  私は自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を超えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。
 
  このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、また教える者であれば教え、勧めをする者であれば勧め、寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、慈善をする者は快く慈善をすべきである。
  愛には偽りがあってはならない。悪は憎み退け、善には親しみ結び、 兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。貧しい聖徒を助け、努めて旅人をもてなしなさい。
 
  あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福して、呪ってはならない。喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。<ローマの信徒への手紙12318>

 
 
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待つ事の忍耐

 日増しに秋の気配が深まって行きます。去る99日は重陽(菊の節句)でした。古来より日本人の風土文化には自然を相手にしたものが多分にあります。そして自然から学ぶものは数知れません。しかし、今を生きる人々にはその感覚が鈍って来ている様に思われます。今日は予てより楽しみにしていた混声合唱グループ“フォレスタ”の瑞浪公演を聞きに行ってきました。3ヶ月ほど前にチケットを購入していたのです。待つと言う事は忍耐のいることです。実は次回の公演のチケットも購入しており、12月の名古屋公演です。

 僕が30代の時、ヨーロッパを旅行し街路樹として植えられている西洋トチノキの花の美しさに魅了されました。帰国後早速、西洋トチノキの幼木を買い求めたのです。今年になって初めて花を咲かせてくれました。花の咲くのを楽しみに今年は咲くのか、来年は咲くのかと待つ事20年です。カワズザクラの花の美しさにも心を奪われ、花の咲くのを待ちに待ちました。木全体に花を咲かせるまでに10年かかりました。今、待っているのは教会員の方の家から貰ったセンダンの花の咲くことです。植えてから3年目です。木の高さは5mほどになりましたが、まだ木が若いので花を咲かせるまでには後5年ほどはかかるのではなかろうかと思っています。


 

 そして今月下旬には、17年前に別れたロンドン在住の先輩牧師が一時帰国します。協力牧師として中津川教会に居られたのは1年間でしたが、この1年の間に深い親交を深めることが出来ました。お会いした折には積もる話が山ほどあります。春に一時帰国の知らせを聞き、半年待つ事になったわけです。蛍の光の原詩には、過ぎし日々を、懐かしい友を忘れてもよいものかと詠われ、再会を祝福して杯を酌み交わすのです。一度結ばれた心と心が断ち切られることほど悲しいことはありません。

 

 僕達キリスト教徒は、イエスが再びこの世にお出でになることを信じて、その時を待っています。その時、ラッパが鳴り響き死者は復活し、人は死を経ずして天に上げられるのです。神が天に僕達の住家を用意していて下さいます。これが全てのキリスト教徒の切なる希望です。そして聖書は、キリストが再びこの世にお出でになることを記しています。これをキリストの再臨と言います。今を生きる僕達は、キリストの再臨に一番近い時を生きているのです。その時は、明日にも起こるかもしれません。キリストの再臨の時まで、全てのことに忍耐を持って祈りつつ待ち続けたいと思います。
 

見よ、神の幕屋が人とともにあり、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、彼らの目からことごとく涙を拭ってくださる。もはや死もなく、悲しみも叫びも痛みもない。先のものが既に過ぎ去ったからである。<ヨハネの黙示録2134




 

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平和をつくる

  初秋の趣の中で、春に植えつけた畑の作物の収穫を終えました。あと10日位すればブドウの収穫時期になります。今年はいつになくブドウの作柄が良いことに気を良くしている僕です。ただ油断は大敵、僕の家の近くにまでサルが出没するようになったのです。サルにブドウをとられてしまったら、今までの僕の苦労も水の泡と化してしまいます。そこで電気柵でブドウ棚の周囲を囲んでいます。

 いつまでもすっきりしない天候に少しばかり困惑しています。このあとの畑には秋野菜の植え付けが控えているからです。今日の天候はまずまずの様です。この日を逃す手はありません。

 
 

 イスラム国の話題がニュースにならない日は無いと言ってもいい状況になってきました。

  アメリカ人ジャーナリストの殺傷事件。オバマ大統領が、また国際世論が許さずにいるはずがありません。報復が報復を呼ぶ、報復の応酬の終焉はないだろうと思います。このことは対岸の火事ではありません。いつ日本に飛び火するかわかりません。国際平和を望まない人はこの世にいないと思ってきました。
  しかしそうではない現実が人類の歴史の中に証されています。そして繰り返されてきました。その根源は自己中心的な人類のなし得るものであると思います。このようなことを続けていれば、国家の敗退は避けて通ることは出来ません。何より国家の底辺で生活を営む人々が一番の犠牲者となることでしょう。この人々が一番大切にされなければならないのです。

 

「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」<マタイによる福音書 5章9節>

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