日増しに秋の気配が深まって行きます。去る9月9日は重陽(菊の節句)でした。古来より日本人の風土文化には自然を相手にしたものが多分にあります。そして自然から学ぶものは数知れません。しかし、今を生きる人々にはその感覚が鈍って来ている様に思われます。今日は予てより楽しみにしていた混声合唱グループ“フォレスタ”の瑞浪公演を聞きに行ってきました。3ヶ月ほど前にチケットを購入していたのです。待つと言う事は忍耐のいることです。実は次回の公演のチケットも購入しており、12月の名古屋公演です。
僕が30代の時、ヨーロッパを旅行し街路樹として植えられている西洋トチノキの花の美しさに魅了されました。帰国後早速、西洋トチノキの幼木を買い求めたのです。今年になって初めて花を咲かせてくれました。花の咲くのを楽しみに今年は咲くのか、来年は咲くのかと待つ事20年です。カワズザクラの花の美しさにも心を奪われ、花の咲くのを待ちに待ちました。木全体に花を咲かせるまでに10年かかりました。今、待っているのは教会員の方の家から貰ったセンダンの花の咲くことです。植えてから3年目です。木の高さは5mほどになりましたが、まだ木が若いので花を咲かせるまでには後5年ほどはかかるのではなかろうかと思っています。
そして今月下旬には、17年前に別れたロンドン在住の先輩牧師が一時帰国します。協力牧師として中津川教会に居られたのは1年間でしたが、この1年の間に深い親交を深めることが出来ました。お会いした折には積もる話が山ほどあります。春に一時帰国の知らせを聞き、半年待つ事になったわけです。蛍の光の原詩には、過ぎし日々を、懐かしい友を忘れてもよいものかと詠われ、再会を祝福して杯を酌み交わすのです。一度結ばれた心と心が断ち切られることほど悲しいことはありません。
僕達キリスト教徒は、イエスが再びこの世にお出でになることを信じて、その時を待っています。その時、ラッパが鳴り響き死者は復活し、人は死を経ずして天に上げられるのです。神が天に僕達の住家を用意していて下さいます。これが全てのキリスト教徒の切なる希望です。そして聖書は、キリストが再びこの世にお出でになることを記しています。これをキリストの再臨と言います。今を生きる僕達は、キリストの再臨に一番近い時を生きているのです。その時は、明日にも起こるかもしれません。キリストの再臨の時まで、全てのことに忍耐を持って祈りつつ待ち続けたいと思います。
見よ、神の幕屋が人とともにあり、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、彼らの目からことごとく涙を拭ってくださる。もはや死もなく、悲しみも叫びも痛みもない。先のものが既に過ぎ去ったからである。<ヨハネの黙示録21章3〜4>