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降臨節に寄せて

 教会には教会暦と言うものがあります。教会の新年は、クリスマスの直前の日曜日の4週間前から始まります。この期間を降臨節(アドベント)と言います。クリスマスを迎えるための準備の期間と捉えても間違いではありません。

 今年の降臨節は、明日1130日から始まります。教会では、アドベントクランツを作り、赤いリボンを付け、それに4本の蝋燭を立てます。そして降臨節ごとに蝋燭に火を灯してゆきます。明日は、降臨節第一主日と言います。それで先ず1本目の蝋燭に火を灯します。降臨節第二主日には、2本の蝋燭に火を灯します。今年の場合は127日です。従って降臨節第四主日には、4本の蝋燭全てに日が灯るわけです。

 教会はこうしながら、神の子であるイエス・キリストの降誕の日を待つのです。因みにクリスマスは、1225日ではありますが、クリスマスの期間は、16日までと定められています。

 

 
 

 キリスト教徒ではなくても、クリスマスはいまや国民的行事です。そしてクリスマスケーキを食べる日でしょうか。お祭り騒ぎではないまことのクリスマスの意味をひとりでも多くの人に知っていただきたい。僕の切なる願いです。クリスマスは、無垢な子供達の楽しみ、ある意味では夢であり、そう言った子供達から楽しみを取り去ろうとは思いません。

 しかし、クリスマスを意味なく祝い楽しんだ後は、年が明ければ初詣にお寺や神社に出かける姿は僕の目には滑稽に映ります。

 
 イエス・キリストは、この世を照らすまことの光です。また新約聖書:ヨハネによる福音書にはこのように書き記されています。
『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。』<ヨハネによる福音書3章16>

 教会は、誰にでも門を開いています。そして信者になることを強要するようなことはありません。どうぞこの機会に、お近くの教会を訪ねてみてください。
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栄光の体
  今年も余すところ、ひと月となってしまいました。このごろは喪中のはがきが届くようになっています。今日も一通の喪中はがきが届いていました。家族や友人との死別ほど悲しいものはありません。人の死は悲しいものではありますが、神が天の御用の為にその人を天に迎え入れて下さったのです。僕達の最終的な住家は、天にあるのです。
 人は死後、天に上げられ、しばしのあいだ眠りにつきます。そして天使がラッパを吹き鳴らす時に、キリストが死んで復活されたように、僕達は、そのラッパの合図によって復活するのです。そして神の御前に出て最後の審判を受けなければなりません。つまり裁きを受けると言うことです。神の御前で罪状書きが読み上げられます。しかし恐れる事はありません。キリストを信じるものは、キリストが弁護をして下さるのです。
 生きている間には、死への不安や恐怖を拭い去ることは誰一人として出来ることではないと思います。特にご高齢の方々は、尚更のことであろうと思います。

 


 僕達は日々、神によって新しく造りかえられています。このことは自覚できることではありません。そして死の瞬間に栄光の体に変えられるのです。ですから、死について思い悩むのことは、人生にとって消極的なことであると言えると思います。キリストを盾に取り、死に果敢に立ち向かって行きましょう。キリストが教えられた未来への約束、復活と永遠の命を授かるのですから。
 
 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。
 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。」
<ヨハネの黙示録21章3〜4>

 
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死んでも生きる

 11月も半ば、初冬の趣です。今年も気がついてみれば、いつしか虫の声が止んでいました。冬の厳しい寒さの向こうには、春が待っているのです。これも神が定めた摂理です。

『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。』とキリストは教えられています。厳しい冬の時期にもめげることなく、喜ぶのです。そして祈るのです。その向こうの春を待ち望みつつ。これから年末にかけては、何かと慌しくなります。年賀状、クリスマス、そして新年を迎える準備と毎年のことながら、マスコミがその慌しさに拍車をかけるように思えてなりません。僕はこの時期が来るたびに、こんなことを考えてしまいます。


 

 このような時期にあっても、僕達、キリストを信じる者にとって、クリスマスは特別なものです。神の御子である、イエス・キリストがこの世に遣わされた日であります。それは、神がこの世を愛されたからです。この世は神によって創造されました。この世の全てをです。

 新約聖書のヨハネによる福音書には、このように記されています。『神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』キリストを信じる者には永遠の命が与えられるのです。イエス・キリストは語られています。『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は死ぬことはない。』

 僕達、キリストを信じる者には永遠の命が保証されているのです。しかし喜んでばかりではいられません。そのためにイエス・キリストは、僕達の罪の代償として十字架にかけられると言う恥辱にみちた死を遂げられたのです。

 今年の教会暦は、1130日に降臨節を迎えます。この日から教会の新年が始まるのです。

救い主としてお生れになったイエス・キリスト。僕達の罪の為に十字架にかけられたイエス・キリスト。生と死です。この双方を心に刻み降誕節を、そしてクリスマスを迎える準備をしてゆきたいと思います。 

神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。<ヨハネによる福音書3章16>   
 

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初めは挨拶から

 113日、この日は僕が学んだ神学校のスクーリングが名古屋で開かれました。スクーリングと言うと既に卒業した僕には関わりがないように思いますが、牧師といえども生涯が勉強です。出席しました。今回の講義は学長による「礼拝論」でありました。

 JTJ神学校の伝統と言うか、習慣なのでしょう。いつも講義が始まる前に、参加者全員に挨拶をして回ります。ひとつの思いに向けて学ぶ者たちの心の通う大切な時間であると思っています。挨拶とは一般的には礼儀として習慣つけられたものです。ですからよく言われることに、あの人は挨拶も出来ない人だと無礼者扱いされることは少なからずあることです。

 僕が若き日に、様々な会社の人たちが集まって行なう勉強会がありました。その折に講師が言われたことですが、挨拶のそもそもの意味は、「心を開き、相手に迫ること。」だと聞かされました。確かに挨拶は、人間関係を良くする最も簡単な方法であると思います。殊に初対面の人と会うときは、重要視される事柄のひとつであります。挨拶の言葉も、そのときの状況や相手によって変わるものです。僕が通った高校では、先輩にはだれかれと言うことなく、挨拶をしなければなりませんでした。押し付けの挨拶は虚しいものです。


 

 新約聖書には、パウロやその他の弟子達が書いた数多くの書簡が記されています。どの書簡にも冒頭と最後に必ず挨拶の言葉が記されています。送り先の相手のことをどれほど心にかけているかがうかがわれるところです。

 挨拶にもいろいろありますが、僕の心にいちばん響く挨拶は、NHKの連続テレビ小説にありました「はなとアン」で使われていた挨拶、“ごきげんよう”です。これは出会った時や別れの時に相手の健康状態を伺う意味合いを込めて交わされる言葉で、ウィキペディアによると東京の山の手で使われていた方言だそうです。

 相手への思いを伝えるため、相手を大切にしていることを示すために、挨拶はなくてはならないものであると思います。ごきげんよう。

 
アジア州の諸教会からあなたがたによろしくと言っています。アキラとプリスカが、その家に集まる教会の人々と共に、主においてあなた方にくれぐれもよろしくとのことです。全ての兄弟があなた方によろしくと言っています。あなたがたも聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。<コリントの信徒への手紙第一:16章19〜20>

 
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再会、腹心の友

 これからの雨は、ひとさめ降る毎に寒くなって行きます。今日も冷たい雨の一日でした。

そう言えば今週は、ユキムシが舞うのを見ました。すっかり秋も深まり、初冬の趣です。

 小川牧師との最後は17年前に遡ります。当時、協力牧師として無牧であった中津川教会で一年間務められました。その一年の間に交わした小川牧師との親交は、今でも僕の心に刻み付けられています。関西出身の小川牧師は、長野県がとても気に入っていたようです。

上高地、蓼科への2回の旅行、各地の温泉めぐりなど思い出は尽きません。

 最後は、小川牧師に迷惑をかける形での別れになりまた。厳しい叱責を受けたことも脳裏に焼きついています。その後、双方共にお互いの存在が記憶に留まらなかった17年です。
 

 
 

 小川牧師は現在、ロンドンで邦人のための宣教の働きをしておられます。この秋に一時帰国することを知ったのは、半年前のことでした。それは恵那市にある純福音教会の献堂式に招かれた時のこと、中津川教会の長老も招かれており、その際に小川牧師の消息をお尋ねしたことに始まります。長老が僕に小川牧師のメールアドレスを知らせてくださったのです。おそらく返事は戴けないだろうと思いつつ、早速メールを送りました。その10日ほど後であったと思います。返信が送られてきたのです。“覚えていてくださった。”との思いに、思い余りて言葉足りずの心境でした。

 そして今週の月曜日に、名古屋で17年ぶりの再会がなされたのです。4時間ほどの間でしたが、僕には百年のようにも思える時間でした。

 一期一会は避けて通れません。しかし、再開の時も与えられる喜びに感謝せずにはいられないのです。そしてこの度の小川牧師との再会は全てが、神を通してのものであることを確信するのです。全てを益とする神が臨在される。神のなさることは、その時にかなって美しいのです。

 

 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされる業を初めから終りまで見極めることはできない。<旧約聖書 コヘレトの言葉:311
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