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主の2014年

 今年も数えることが出来るだけになりました。今年一年を振り返えり、さまざまな思いに暮れています。様々な思いの中で暮してきましたが、喜びのときも、憂いの時にもやはりキリストが共に歩んでくださったと言うことを確信するのです。その確信の心の中に思い浮かぶのは、フットプリンティングと言う詩です。以前にもブログに記したことがありますが、僕にとっては慰めの詩であります。

 喜びのときにも、キリストを忘れては喜ぶことは出来ません。憂いの時にも、キリストを頼みとする僕の心の内です。『私はあなたを、忘れたことはない。』と言う声なき声が心の内に響きます。
 

 それでは来年に何を期待するかと問われたとしたら、やはり、キリストが共に歩んでくださり、谷の百合キリスト教会を神が祝福のうちに覚えて下さることです。未だ会員がない教会ではありますが、地道に福音を述べ伝えて行きたいと思っています。キリストが共に歩んでくださる人生は、喜びや楽しいことばかりではありません。しかし、いつの日か未来への約束が実現する時が来るのです。僕はその日を待ち望んでいます。

 

 

 ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
 わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
 ひとりのあしあとしかなかったのです。
 いちばんあなたを必要としたときに、
 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
 わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みの時に。
 あしあとがひとつだったとき、
 わたしはあなたを背負って歩いていた。」

 <フットプリンティング>

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クリスマスケーキ
 間もなくクリスマスを迎えます。言うまでもなく神の独り子であるキリストの降誕の日です。量販店に行きましたら、クリスマスとお正月を迎える商品が山積みでした。この時期は、猫も杓子もクリスマス一色です。しかし、キリスト不在のクリスマスは虚しいものです。ふと、どうしてクリスマスケーキを食べるのか疑問が湧きましので、調べてみました。ことの起源は不二家にあることがわかりました。
 
 日本においてクリスマスケーキは、1922年にケーキ屋である不二家が初めて販売し、広めたものであるとされています。日本のクリスマスケーキは非常に華美なデコレーションが施されたものが多く見受けられ、マジパンなどで出来たサンタクロースやクリスマスツリーが苺などの果物やチョコレートと共に飾り付けられていることがほとんどです。
 こうしたクリスマスケーキは日本や韓国のみの文化とされ、本場であるとされるヨーロッパでは特にろうそくなどを用いることも無く、それほど派手ではないケーキの方が多く見られています。フランスでは切り株の形をしているブッシュ・ド・ノエルであり、イギリスではクリスマスプディングとなり、ドイツではシュトーレンがクリスマスケーキとして一般的なものとされています。
 イギリスのクリスマスプディングでは特に、日本においての正月のお雑煮のように、各家庭でその家の味というものが確立されており、クリスマスのシンボルとしても非常に有名なお菓子であるとされています。<デリケーキより出典>
 



 この時期、猫も杓子もクリスマスです。クリスマスとは言うまでもなく、神の独り子、イエス・キリストの降誕の日です。牧師として思うことは、キリスト不在のクリスマスは虚しいと言うことです。いまやクリスマスは国民的行事でありますから、そのこと事態を悪く言う気はさらさらありません。ただほんの少しで構いませんので、救い主としてお生れになったイエス・キリストのことを覚えて欲しいと思います。
 
<賛美歌112番> 
https://www.youtube.com/watch?v=EmVEveZslpQ
諸人こぞりて 迎えまつれ
久しく待ちにし 主は来ませり
主は来ませり 主は、主は来ませり
 
悪魔のひとやを 打ち砕きて
捕虜をはなつと 主は来ませり
主は来ませり 主は、主は来ませり
 
この世の闇路を 照らしたもう
妙なる光の 主は来ませり
主は来ませり 主は、主は来ませり
 
萎める心の 花を咲かせ
恵みの露置く 主は来ませり
主は来ませり 主は、主は来ませり
 
平和の君なる 御子を迎え
救いの主とぞ 誉め称えよ
誉め称えよ 誉め、誉め称えよ
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人を思う心
 129日この日は、楽しみにしていたフォレスタ名古屋公演の日でした。今回で3回目の公演を聞くことになりましたが、一度聞いただけで引きつけられる思いの歌声です。おそらく誰もがそうだと思います。美しい歌声と共に所作の美しさにも感動を覚えます。伴奏はピアノだけです。最低の楽器で最高の歌声を聞かせてくれる、美しさとは清楚なものの中に秘められているのかもしれません。

 今回は特別に花束を用意して出掛けました。もちろんフォレタへの贈り物です。アンコールが終わった後、鳴り止まぬ拍手の中をかき分けるように、舞台の前まで行きリーダーを務めて居られる大野隆さんに手渡しました。僕の今までの人生の中でいちばん大胆な行動であります。

 自らが持ち得たもので、人の心を温めたり、喜びを与えたり出来ると言うことは素晴らしいことです。まさに神から与えられた賜物であります。イエス・キリストでさえ、自分を喜ばせることは何一つなさらなかったのです。思い返してみれば僕達の生活は、自分を喜ばせるため、自分の欲求を満たすためではないでしょうか。これは決して悪いことではありません。ただ少し、人を喜ばせるための一歩があっても良いと思います。共に考えてみましょう。
 


 

 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さを担うべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。

 キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人人のそしりは、わたしの上にふりかかった。」と書いてあるとおりです。昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。 

 それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。こういうわけですから、キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。<ローマの信徒への手紙
1517

 
http://video.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%82%BF
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この世を照らすまことの光
 恵那山に3回雪が降ると、雪が里に降りてくると僕の祖母が教えてくれました。今日は雪の舞う一日でした。果たして、恵那山に3回雪が降ったかどうか。日に日に冬の色が濃くなってゆくのを身をもって感じています。
 ここのところ流行なのか、この時期になると民家のあちらこちらで電飾を見かけます。目には美しく映えて見えますが、あれだけの電飾をするのは大変な労力だろうなと人事ながら心配してしまうのです。闇夜に輝く光、その一つ一つは小さくても、数を増せばあんなにも美しいものなのですね。やはり人は、光を好むのでしょう。
 
 2000年の昔、この世を照らすまことの光が地上に訪れました。しかしそれに気付く人は少なかったのです。それどころか、その光を遠ざける傾向にありました。世は悪に満ち、その光が余りに神々しいので、自らのしていることが明るみに出ることが耐えられなかったのです。聖書は僕達を光の子と記しています。そして、光の子らしく歩みなさいと教えているのです。
 この世を照らすまことの光、たった一つの光です。闇の世界は、この光によって照らされ、闇は光に勝つことは出来ませんでした。もっと多くの人がこの光を美しいと思い、この光のもとへと導かれることを僕は願っています。
 


 

 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。 この人はあかしのためにきた。光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。 彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。
 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。《ヨハネによる福音書:1章112

 
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