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父の御旨

 庭先に出てふと足元に目を向けてみると、この寒さの中にあってもイヌノフグリが花を咲かせていました。今年いちばん最初に見つけた春の兆しです。「冬来たりなば、春遠からじ」と言いますが、春の歩みは寒さの中でもその背面で確実に一歩、また一歩と進んでいることを実感しました。心弾む気分です。早春賦の詩が脳裏を過ぎります。

 

 
 
  僕にとって心からの嬉しい知らせがありました。僕の友人の子供が結婚をすると言うのです。僕の友人とは、僕が浜松市に住んでいた時に同じ会社で働いていた人で、共に社宅を借りていましたので、お隣さんでもありました。ですからその子供が生れた日から、会社が閉鎖になるまでの間は毎日のように遊びに行き、その子供の成長を見てきました。オムツを替えてやったり、親の代わりに保育園に迎えに言ったりと幼い頃の思い出は尽きません。いまや立派に生長して福祉の仕事をしています。あたかも、自分の娘を嫁がせるような気分です。

 

 僕達の天の父も僕達の成長を黙して見ておられます。体の成長は勿論のこと、霊的成長を天の父は重んじられます。天の父には、僕達の姿がどのように映って見えることでしょうか。天の父は、昼は物言わず、夜は語ることもなさいません。しかし、父の御心は僕達の心に顕にされるのです。

 御心にかなった生活をしたいと願い務めても、罪人である僕達には到底御心に叶うことは出来ません。しかし父は、忍耐をもって僕達のあるがままの姿をご覧になり、キリストを信じる心の故に赦しを与えて下さるのです。キリストは、「来る者を拒みはしない。」と僕達を招き、いつも共に歩んでくださいます。僕はこのことを、真心から信じ生きているのです。

 

 天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。

 昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。

 話すことも、語ることもなく

 声は聞こえなくても その響きは全地に

 その言葉は世界の果てに向かう。<旧約聖書;詩篇1925

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自由心の解放

 今週の最大事件は、やはりイスラム国による日本人人質事件であると思います。ことの詳細はわかりませんが、邦人が人質に取られると言った事件、そして身代金の要求をされた事件は僕の記憶にはありません。かつてペルーでフジモリ大統領の治世の時代に大使館での人質事件がありましたが、その時はどうであったか記憶を辿ることはできませんでした。

 人質に取られた二人は、第三者からの死の恐怖に襲われているに違いありません。極論を言えば、人の命もお金に換えることが出来るのです。このことがイスラムの教えに忠実なことなのかどうか疑問を持たざるを得ません。何れにせよ、武力によって人を制圧すると言うことは、制圧された側の自由が束縛され、悶々とした火種が根強く燻り続ける結果となることは憶測できることです。人質となった二人も被害者ですが、その社会のなかで国を支えているのは、社会の底辺にある人々なのです。

 

 かつての日本も、戦時中には国家の名の下に言論の自由、思想の自由が制限されたり、検閲があったりと国民の自由心が束縛されていました。赤狩りと銘打った共産党員への取り締まりや連行もありました。

 人は自由を求めます。しかし自由とは自分の思うがままにすることではありません。これは自己中心というものです。自由を求めるのであれば、自己に責任が伴います。責任が伴わない自由はあり得ません。このことを覚えつつ自由心が解放されているこの国の制度を尊ぶべきであると思います。

 人質に取られたお二人のご無事を祈りつつ。

  

 

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」<ヨハネによる福音書8章31〜32>

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社会の底辺に生きる
 1月も半ばを過ぎ、お正月気分も既に遠のいてしまいました。これからの時期は、稽古事などの初稽古などが行なわれる日本古来からの伝統を守る時となって来ます。茶道、華道、日本舞踊など、そこには奥ゆかしいものがあります。一年の中でも特に年末から年始にかけては、日本の伝統、日本の心が表に出てくるようです。僕達キリスト者も僕達には関係ないなどと言うことなく、それが例え異教のものであっても、知るべきことは知っておくべきものであるあと思います。
 
 ニュースを聞いていると、日々事件の起きない日が無いと言っていいほどの昨今です。イスラム国、フランスの新聞社テロ事件、日本に目を向ければ領土問題、従軍慰安婦問題と燻る種はいくらでも出てきます。当事者にとっては死活問題であるかもしれません。しかし、何とするにしても程度と言うものがあります。人が人を殺すなどと言うことはあってはならない話です。互いの立場を理解しあえる時代が来るのでしょうか。平和を求めない人はおそらくいないと思います。しかし平和と求めている人の大多数は、何らかの被害に遭遇している何の罪も無い、社会の底辺にへばりつく様に生きている人たちなのです。その悲しみは計り知れません。このような人々が報われる社会をつくるのが、今を生きる僕達の責任であると思うのです。政治家は、どこまで信用してよいのかわかりません。
 
 昨今の事件にローマ法王が口を開きました。法王を崇め奉るわけではありませんが、その存在の偉大さを見せ付けられた思いです。
 


 
賛美歌234番 http://www5.tok2.com/home/byakuran/sanbika/234/234.htm
 
昔主イエスの 播きたまいし
いとも小さき 生命のたね
芽生え育ちて 地のはてまで
その枝を張る 樹とはなりぬ

 歴史のながれ 旧きものを
返らぬ過去へ 押しやる間に
主イエスの建てし 愛の国は
民よりたみへ ひろがりゆく

時代の風は 吹きたけりて
思想の波は あいうてども
すべての物を 超えてすすむ
主イエスの国は 永久に栄えん

父なる神よ み名によりて
世界の民を ひとつとなし
地をばあまねく み国とする
みちかいをとく はたしたまえ
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日々精進
 身に沁みる寒さの中でも、空の色の美しさには感動を覚えます。空の色がこんなにも美しいのですから、天はなお一層、美しいに違いありません。僕達は天は空の上にあるものと思い、地獄は地中深いところにあると思っています。真相はわかりません。
 自然の中では木々は葉を落とし草は枯れ果て、冬眠に入る動物もいます。この寒さの中で春の訪れの時まで、暫くの間、休眠の時が与えられるのです。春を待ちわびるのは人だけではないように思います。しかし、日一日と春に向かって時は流れているのです。これは間違いのない事実です。それは時計の針が進むのとは、少しばかり意味合いが違うように、神が創造された自然の摂理に従ったものであります。人は神から離れてしまっているために、それを知ることが出来ません。頼りにするのは、日付と時計ではないでしょうか。
 
 キリストは、死者の中からただ一人完全な形で復活された方です。そして天に上げられ父なる神の右に座しておられます。そして、キリストは再びこの地上に来られることを約束されました。これをキリストの再臨と言います。それは明日にも起こることかもしれません。間違いのないことは、今を生きる僕達は、キリストが再び地上に来られる日にいちばん近い日を生きているということです。キリストの再臨の日には、喜びに満ちる者と悲嘆にくれる者とが生れます。
 
 僕達は罪人ではありますが、キリストの再臨の日にキリストの御心にかなう者は喜びに喜びを重ねる思いでキリストをお迎えすることが出来ると思います。その日に備えて常にキリストの教えに聞き従う生活を送りたいと思うのです。キリストはそれを願っておられます。なぜならば、キリストがこの世に遣わされたのは、キリストを信じるものがひとりとして滅びることなく永遠の命を得るためだからです。これこそキリストの救いの最たるものなのです。
 


 
主の祈り
天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国をきたらせたまえ。
御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。


 
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朝日は昇りて
 新年おめでとうございます。皆様方のブログ閲覧に感謝いたします。
 当地では、年明け早々から雪に見舞われ、寒々とした日が続いています。雪が降っても当地では10センチから20センチ程度のもので、東北や、甲信越地方と比べれば何と言うこともないかもしれません。しかし、雪は厄介者です。
 
 ところで1月6日は、キリスト教では公現日と言います。別にエピファニーと言う言い方があります。この日を以ってクリスマスの期間は終わりとなります。待降節から始まり、公現日に終わるのがクリスマスの期間です。その中で、西ヨーロッパの地域では、12月24・25日が一番のお祭りとなっています。他方で、東ヨーロッパの地域では、1月6日のエピファニーこそが最大のお祭になっているそうです。
つまり、西欧地域では、クリスマスと言えば年末のお祭となり、東欧地域では、新年のお祭りとなっているのです。
 
 エピファニーとは、どういう意味でしょうか。これはギリシャ語の二つの文字が合わさってできている言葉です。「エピ」という言葉が、「上から」と言う意味を持ちます。そして、「ファニー」という言葉は、「ファネイア」という言葉で「現れる」という意味です。直訳いたしますと、「上から現れる」と言う言葉になります。ヨハネによる福音書には、『その光は、世に来て全ての人を照らすのである。』と記されています。光が、全地を照らすのです。
そのように、キリストの誕生が世界中に示されたことに因んで日本語では、「公現日」という訳が当てられています。
 
 この日に読まれる聖書の箇所が、マタイによる福音書2章です。東の果て、ペルシャの向こうから、文化と宗教の異なる人々が、キリストの誕生を知ってやってくるのです。・・・有名な「東方の三博士」の物語です。東の果ての人々にも、あまねく神の救いが告げ知らされたことを知らせるのがこの物語です。ですから、東欧の人々がこの日をお祝いするのはよくわかる気がします。
 日本には積極的にこのような習慣はありませんが、信仰者として「極東」の地・日本に住む僕たちもまた、この公現日を祝うべきなのかもしれません。
 
 本日の聖書の箇所は、占星術の東方の博士たちが、イエスに会うためにはるばるエルサレムに来たことから始ります。遠い東方の博士たち、異邦人がキリストの誕生を知り命がけの旅をしてきたと言うのに、ユダヤでは王も律法学者も、さらには住民もが、そのことに気がつかないでいました。キリストが自分達のところに来たと言うのに、無知、無感覚、専門家の怠慢、無関心をあらわにしています。
 キリスト誕生と言う最高の喜びの知らせを、いの一番に受けたのは宗教指導者達ではありませんでした。東方の博士たち、即ち異邦人であります。しかも真面目な占星術の博士であり、異教徒であります。また、ルカは、野にいた羊飼い達と記しています。両者共に宗教指導者達からすれば、最も忌まわしい、汚れた、救われることのない人々でありました。
 しかし、神は救いの知らせを、この人々を選んで真っ先に伝えたのです。救われるべき人が救われるのは当然のことで、これこそ恵みであり、福音であります。新しい時代の到来であります。
 幕を開けた主の2015年が、祝福されますように。
 

 

 さて,イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムで生まれた時,見よ,東方からの博士達がエルサレムに来て,こう言った。「ユダヤ人のとしてお生まれになった方はどこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので,その方を拝むために来たのです」。それを聞いてヘロデ王は動揺し,彼と共に全エルサレムも動揺した。彼は祭司長たちと民の律法学者たちとをすべて集め寄せ,キリストがどこで生まれることになっているのかを彼らに尋ねた。彼らは彼に言った,「ユダヤのベツレヘムです。預言者を通してこのように書かれているからです。
 
『ユダの地のベツレヘムよ,あなたは決してユダの君主たちの間で最も小さいものではない。あなたから一人の統治者が出て,わたしの民イスラエルを牧するからだ』」。
そこで,ヘロデは賢者たちをひそかに呼んで,星が現われた時期を詳しく聞き出した。彼らをベツレヘムに遣わして言った,「行って,その幼子のことを念入りに調べよ。見つけたら,わたしに報告せよ。わたしも行って拝むためだ」。
王の言葉を聞いてから,彼らは出かけて行った。すると見よ,東方で見た星が彼らの先を行き,ついに幼子のいる場所の上にやって来て,止まった。その星を見て,彼らは非常に大きな喜びをもって喜んだ。家の中に入ると,その母マリアと共にいる幼子を見,ひれ伏して彼を拝んだ。自分たちの宝箱を開いて,金と乳香と没薬を贈り物としてささげた。夢でヘロデのもとに戻らないよう告げられたので,別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
 
さて,彼らが去って行くと,見よ,のみ使いが夢の中でヨセフに現われて,こう言った。「起きて,幼子とその母を連れてエジプトに逃げ,わたしが告げるまではそこにとどまりなさい。ヘロデがこの幼子を探し出して滅ぼそうとしているからだ」。
彼は起きて,夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに去って行った。そしてヘロデが死ぬまでそこにいた。それは,預言者を通してによって語られたことが果たされるためであった。こう言われていた。「エジプトから,わたしは自分の子を呼び出した」。
それからヘロデは,賢者たちにだまされたことを知って非常に腹を立て,人を遣わして,賢者たちから詳しく聞き出した時期に基づき,ベツレヘムとその周囲の全地域にいる二歳以下の男の子をすべて殺させた。その時,預言者エレミヤによって語られたことが果たされた。こう言われていた。
「ラマで声が聞こえた, 泣いて,大いに悲しむ悲嘆の声が。ラケルは自分の子供たちのために泣き,慰めてもらおうとしない。彼らがもういないからだ」。<マタイによる福音書2章1〜18>

 
 
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